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[転載]鹿児島県南大隅町 (8559人) 2007年3月、地層処分地建設応募検討が報道されましたが、その後は?

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鹿児島県南大隅町 (8559人) 2007年3月、応募検討が報道された。
 
南大隅町(みなみおおすみちょう)は、鹿児島県(離島部除く)の東南部、大隅半島の南部にある肝属郡に属する。
2005年3月31日、根占町(ねじめちょう)と佐多町(さたちょう)が合併して発足した。日本本土最南端の佐多岬を有する。

みなみおおすみちょう
南大隅町国地方都道府県郡団体コード面積総人口人口密度隣接自治体南大隅町役場所在地外部リンク
Satamisaki Park View Kagoshima001.JPG
佐多岬
日本の旗日本
九州地方
鹿児島県
肝属郡
46491-1
213.61km²
7,964人(推計人口、2013年11月1日)
37.3人/km²
肝付町錦江町
893-2501
鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北226番地
南大隅町役場(旧根占町役場)
南大隅町
南大隅町位置図(鹿児島県)黄色の部分が南大隅町です
 
 
 

地理

 大隅半島の最南部にあたり、西側は鹿児島湾(錦江湾)および東シナ海、東側は太平洋フィリピン海)、南側は大隅海峡に囲まれている。佐多岬上を北緯31度線が通る。町域の大部分は肝属山地で占められ、可住地面積比率は19パーセントにとどまっている。西側の錦江湾沿いから佐多岬にかけての地域は霧島屋久国立公園に指定されている。

隣接市町村

 北方向に錦江町および肝付町が隣接している。錦江町へは国道269号または県道68号(鹿屋吾平佐多線)、肝付町へは県道74号(内之浦佐多線)で連絡する。
 

歴史

 縄文時代早期の遺跡として大中原遺跡が、弥生時代中期の遺跡として谷添遺跡があり、この頃からの定住があったとみられる。 
 713年の大隅国設置時には肝属郡に属していたが、後に大隅郡(1887-1897年は南大隅郡)所属となる。
 
 平安時代からは禰寝院と呼ばれる荘園があり、これに因み、古代からこの地と縁の深い建部氏(建部姓)は名字を禰寝氏(のちには根占氏と表記することも多い)と名乗ることになった。こうして同氏は古代にあっては大宰府在庁官人郡司、そして中世にあっては鎌倉幕府御家人として登場することになる。
 
 16世紀末に日置市(日吉町吉利)に移封されるまで、数百年間にわたって同氏はこの地を治め続け、日本の歴史のみならず、ヨーロッパの歴史とも繋がった。
 南蛮人来航の一港は実に小禰寝(小根占)港にあった。指宿市の山川港とともにこの港は明人に限らず、ポルトガル人の商人も多く来航した。ザビエルを案内したアンジロウ(ヤジロウ)はこの地の出身者でないかとも言われている。
 また禰寝(根占)氏は中山王の治める琉球王国との交易にも参加した。同氏が去ったことにより、大隅南部は活気は失った感があるものの、江戸時代半ばの吉利当主小松清香(同氏直系は彼の代に名字を小松に改め、平姓となった)は祖先に高い関心を有し、本貫地の根占・佐多にある史跡(墓跡を含む)を整え、先祖を顕彰した。
 
 
その江戸期には薩摩藩島津氏)が根占・佐多に外城をおき薩摩藩直轄領となっていた[5]。外城は1784年にに名称を改め(根占郷・佐多郷)、1889年の町村制実施時にほぼそのままの区域をもって小根占村佐多村となった。小根占村は1941年に、佐多村は1947年にそれぞれ町制を施行し根占町佐多町となった。
平成の大合併では2003年6月に根占町・佐多町・大根占町田代町の4町[6]南隅地域合併協議会を設置し合併協議を進めたものの、大根占町側の反対により交渉は決裂した[7]。根占町と佐多町は2004年9月に南大隅合併協議会を設置。同年11月の合併調印式の実施・議会による議決を経て、2005年3月31日に2町は合併し南大隅町が発足した。
町名は一般応募により決定された[8]ものであるが、南大隅(南隅)は錦江町を含む2町を合わせた地域をさす名称でもある。
  • 1941年1月1日 - 小根占村が町制施行。根占町となる。
  • 1947年9月1日 - 佐多村が町制施行。佐多町となる。
  • 2005年3月31日 - 根占町・佐多町が対等合併して新町制を施行し、南大隅町が発足。
 
 

転載元: 中国からの汚染襲来、中国・韓国の原発リスク、放射能を正しく学ぶ


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