佐多岬 | |
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九州地方 | |
鹿児島県 | |
肝属郡 | |
46491-1 | |
213.61km² | |
7,964人(推計人口、2013年11月1日) | |
37.3人/km² | |
肝付町・錦江町 | |
〒893-2501 鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北226番地 | |
南大隅町 | |
地理
大隅半島の最南部にあたり、西側は鹿児島湾(錦江湾)および東シナ海、東側は太平洋(フィリピン海)、南側は大隅海峡に囲まれている。佐多岬上を北緯31度線が通る。町域の大部分は肝属山地で占められ、可住地面積比率は19パーセントにとどまっている。西側の錦江湾沿いから佐多岬にかけての地域は霧島屋久国立公園に指定されている。
隣接市町村
歴史
平安時代からは禰寝院と呼ばれる荘園があり、これに因み、古代からこの地と縁の深い建部氏(建部姓)は名字を禰寝氏(のちには根占氏と表記することも多い)と名乗ることになった。こうして同氏は古代にあっては大宰府の在庁官人、郡司、そして中世にあっては鎌倉幕府の御家人として登場することになる。
南蛮人来航の一港は実に小禰寝(小根占)港にあった。指宿市の山川港とともにこの港は明人に限らず、ポルトガル人の商人も多く来航した。ザビエルを案内したアンジロウ(ヤジロウ)はこの地の出身者でないかとも言われている。
また禰寝(根占)氏は中山王の治める琉球王国との交易にも参加した。同氏が去ったことにより、大隅南部は活気は失った感があるものの、江戸時代半ばの吉利当主小松清香(同氏直系は彼の代に名字を小松に改め、平姓となった)は祖先に高い関心を有し、本貫地の根占・佐多にある史跡(墓跡を含む)を整え、先祖を顕彰した。
その江戸期には薩摩藩(島津氏)が根占・佐多に外城をおき薩摩藩直轄領となっていた[5]。外城は1784年に郷に名称を改め(根占郷・佐多郷)、1889年の町村制実施時にほぼそのままの区域をもって小根占村・佐多村となった。小根占村は1941年に、佐多村は1947年にそれぞれ町制を施行し根占町・佐多町となった。
平成の大合併では2003年6月に根占町・佐多町・大根占町・田代町の4町[6]で南隅地域合併協議会を設置し合併協議を進めたものの、大根占町側の反対により交渉は決裂した[7]。根占町と佐多町は2004年9月に南大隅合併協議会を設置。同年11月の合併調印式の実施・議会による議決を経て、2005年3月31日に2町は合併し南大隅町が発足した。
町名は一般応募により決定された[8]ものであるが、南大隅(南隅)は錦江町を含む2町を合わせた地域をさす名称でもある。