仏道修行
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した[7]。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多い。しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。
ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されている。
このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかといわれている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。
入唐求法
延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。入唐(にっとう)直前まで一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している。伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもあるが定説はない。
第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。
同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。
空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している(風信帖#入唐を参照)。同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入った。
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し[8]、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。
そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。
途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開たため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという[9]。
虚しく往きて実ちて帰る
「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。
空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないが、大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。
大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていた。
明星院 (五島市)
明星院 所在地 位置 宗旨 宗派 本尊 正式名 札所等 文化財
また、かつては拝観料がかかっていたが、現住職になられてから(2010年10月現在)拝観料は無料になっている。
![]() | |
五島市吉田町1905番地 | |
![]() 東経128度49分19.5秒座標: ![]() | |
真言宗 | |
高野山真言宗 | |
虚空蔵菩薩 | |
明星院 | |
五島八十八カ所霊場第一番札所 | |
銅造如来立像 本堂 木造阿弥陀如来立像 | |
本尊は虚空蔵菩薩。五島八十八カ所霊場第一番札所。本尊は秘仏とされており容易に見る事はできない。
歴史
明星院の名は弘法大師空海により命名されたと伝えられている。 中国から帰った空海が明星院に虚空蔵菩薩が安置してあると聞き赴き、虚空蔵求聞持法にて真言「ナウ ボゥ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ」を100万回唱え終えた日の未明、明けの明星(火星)から凄まじい光が差すのをのを見て「中国で収めた密教が今後の日本の済世利民に役立つ事の仏の証明を頂いた」として大変お喜びになり、この寺を「明星院」と名づけたという。
寺院
注目すべきは、本堂の入り口上部の飾り彫りが龍や雲などではなく「象」である事。空海、最澄が帰国する前から存在している寺のためインド仏教の影響を伺える。
本堂の天井には様々な仏教画が格天井に描かれており、四隅には「迦陵頻伽(かりょうびんが)」が描かれている。
住職曰く「迦陵頻伽(かりょうびんが)」の美声を聞くと一瞬にして悟りを開いてしまうと言われている。
さらに、本尊側から本堂入り口に向かって格天井を見ると(通常は入れません)格天井の仏教画の色が光の加減で鮮やかになり、さらに美しく映える。
また、かつては拝観料がかかっていたが、現住職になられてから(2010年10月現在)拝観料は無料になっている。
人々が迎えようとしていたのは、新しい住職だけではない。百年に一度しか拝観できない秘仏の特別御開帳を、今か今かと心待ちにしていた。厳かな読経とともに、普段は固く閉じられた厨司から「本尊虚空蔵菩薩」(ほんぞんこくぞうぼさつ)がお姿を現した。人々がそっと手を合わせる。
この仏さまは、百年に一度ご開帳されるはずだったが、公式の記録が残されておらず、前回は三百年前とも四百年前ともと伝えられている。秘仏のため、調査がされていないことから、作られた時期など詳しいことも謎に包まれている。
また、あわせて国指定重要文化財である「銅造薬師如来立像」(どうぞうやくしにょらいりゅうぞう)もご開帳された。こちらは高さ30センチほどで、飛鳥時代に作られた九州最古級の仏像。五十年に一度ご開帳されることになっており、今回の特別御開帳で27年ぶりのお目見えとなった。
この日、僧侶たちは万民の安泰を祈願して護摩焚きを行った。読経とともに火柱が高く上がると、炎の中に仏さまが見えてくるよう。秘仏を参拝した人たちは、熱心に護摩焚きを見守っていた。
五島市三井楽(みいらく)
五島市三井楽(みいらく)は、「肥前国風土記」に『美弥良久(みみらく みねらく)の崎』として登場する、遣唐使船最後の寄港地であるといわれています。遣唐使たちはこの柏崎を日本の見納めとし、決死の覚悟で東シナ海へと漕ぎ出していきました。その心境を記した空海の名文“日本最果ての地を去る”という意味の「辞本涯」の碑や、遣唐使として旅立つ我が子の無事を祈る母の歌を刻んだ碑が建立されています。この地に立って、大海原を眺めながら詠んでみると、とても感慨深いものがあります。
江戸時代に入ると、五島は捕鯨で栄えますが、この柏地区にも捕鯨の一団が移住してきて、冬場だけを猟期として活躍したそうです。当時は、「鯨一頭捕れれば七浦潤う」といわれ、五島藩財政にとっても重要な資源でした。しかし、鯨の減少により幕末にはほとんどの鯨組が解散しました。
江戸時代に入ると、五島は捕鯨で栄えますが、この柏地区にも捕鯨の一団が移住してきて、冬場だけを猟期として活躍したそうです。当時は、「鯨一頭捕れれば七浦潤う」といわれ、五島藩財政にとっても重要な資源でした。しかし、鯨の減少により幕末にはほとんどの鯨組が解散しました。
正しくは『遍照発揮性霊集』(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)。空海の詩、碑銘、上表文、啓、願文などを弟子の真済(しんぜい)が集成したもので、10巻からなる。正確な成立年は不明だが、遅くとも空海が没した承和2年(835年)をさほど下らない時期までに成立したとみられ、日本人の個人文集としては最古。
10巻のうち巻八〜巻十の3巻ははやくに散逸し、現『性霊集』の巻八〜巻十には、承暦3年(1079年)、仁和寺の済暹が空海の遺文を収集して編んだ『続遍照発揮性霊集補闕鈔』3巻が充てられている。なお、済暹の『補闕鈔』は、散逸した巻八〜巻十そのものの復元を図ったものではないし、後世の偽作と今日では判定されている作品もいくつか含んでいる。
『性霊集』の序文によれば、真済は、師空海が一切草稿を作らず、その場で書き写しておかなければ作品が失われてしまうため、空海作品を後世に伝えるべく、自ら傍らに侍して書き写し、紙数にして約500枚に及ぶ作品を収集した。そして、これに唐の人々が師とやりとりした作品から秀逸なものを選んで加え、『性霊集』10巻を編んだという。一般的には、『性霊集』の編纂過程は、この序文の内容に即して理解されている。
しかしながら、真済が15歳で出家し空海に弟子入りしたのは 弘仁5年(814年)なのに、入唐時などそれ以前の作品も『性霊集』に多数収録されている。序文には、真済が書写する以前の作品がどのように収集されたのか、説明されていない。
飯島太千雄は、空海が入唐時から、将来の文集編纂を企図して自らの作品の写しを取っていたほか、個々の作品に表題を付して10巻に編む最終的な編纂作業にも関与していたと推定している。
巻五の収録作品と同じものが単体の巻子本として伝存する「越州節度使に請ふて内外の経書を求むる啓」「本国の使に与へて共に帰らんと請ふ啓」は、筆跡などから空海真跡の控文と判定でき、さらに余白に付された表題も空海真跡とみられ、最終的な編纂作業に空海が関与していたことが窺えるという[1]。
空海は24歳のときに著した処女作『聾瞽指帰』の序文で、従来の中国と日本の文学を痛烈に批判し、文学における芸術性と真理の両立を理想として掲げている。そして、その文学改革の志は、『性霊集』巻一の冒頭「山に遊んで仙を慕ふ詩」の序でも表明されている。
文学の改革者たらんとしていた空海が、自らの作品を後世に残そうとしなかったはずがないし、収録作品の選択や配列といった最終的な編纂作業に、空海が関与していた可 能性も十分考えられよう。
『性霊集』の真済編纂分である巻一から巻七までのうち、年代の明らかな作品で最も新しいのは、天長5年2月27日(828年3月17日)[2]の「伴按察平章事が陸府に赴くに贈る詩」(巻三)である。弘仁14年1月20日(823年3月6日)の日付をもつ「酒人内公主の為の遺言」(巻四)を、酒人内親王が没した天長6年8月(829年9月)のものとし、これを下限とする説もある。いずれにせよ、『性霊集』は年代順でなく作品の種類別に編集されているので、失われた巻八〜巻十により年代の新しいものがあった可能性は乏しく、天長5、6年(828、829年)が下限と見られる。それが想定できる成立年代の上限となる。
成立年代をめぐる主な説は以下のとおり。
- 『性霊集』は真済と空海の共同編集であるとの見地から、高雄山で真済が空海から密教の奥義を授けられた(その記録が『高雄口訣』といわれる)と伝えられる期間に編纂されたとするもの。
- 序文に「西山禅念沙門真済撰」とあることから、真済が高雄山=西山に住した天長9年以降[5]とし、「執事年深くして、未だその浅きを見ず」とあることから、現に真済が空海に師事していた間、すなわち空海存命中とするもの。
- 承和2年3月(835年4月)の空海入滅直後[6]
- 序文に「謂ゆる第八の折負たる者は吾が師これなり」とあり、空海を密教の第八祖としていること、「大遍照金剛」と空海を尊称していることから、空海没後とするもの。
034 既ニ本涯ヲ辞ス
船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きるのである。
列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。
この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つのである。
風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのである。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。
やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。
久賀島の田ノ浦を出帆したということについては『性霊集』では、
「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。(司馬遼太郎『空海の風景』)