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[転載]渤海使の来航と縁海諸国の対応

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渤海使の来航と縁海諸国の対応

来航の年紀
 渤海使は何年に一度来航したのだろうか。初めの三回の渤海使は十二年(一紀)一貢のようであったが、八世紀中ごろからかならずしも一定せず、しだいに貿易目的から渤海使は頻繁に来航するようになる。
 そして、延暦十五年(七九六)十月、渤海側は日本からの使(御長広岳)の帰国に託して、日本に渤海使の来航の年限を決めるように申請してきたが、日本側は延暦十七年五月十九日に、遣渤海使(内蔵賀茂麻呂)に国書を託し、渤海に対して隔年で来航するのは大変であるから、六年一貢を告げ、使者の人数制限もなくした。だが同年十二月二十七日、隠岐国に来航した渤海使(大昌泰)が進めた国書によれば、渤海側は六年一貢の撤廃を要求してきた。
 これを受けて日本側は延暦十八年四月十五日、帰国する大昌泰に国書を授け、六年一貢を撤廃し、来航の年限を立てないことにし、五月二十日付「太政官符」で関係国にこの改定を伝達した。

そののち、来航の年限を決めないことにすると渤海使は頻繁に来航するため、財政難もあって、藤原緒嗣は渤海使の本質を「商旅」と認定し、たびたび上奏してこのことを訴えた結果、天長元年(八二四)六月二十日、渤海使の来航を一紀(十二年)一貢に改める太政官符を関係の「縁海」国郡に下した(『類聚三代格』)。以後、渤海使が来航すると、この官符により来航の年限に満たない場合は、入京させず現地より帰国させるケースが増えることになる。

 存問
 渤海使が来航した場合、宝亀四年の能登国の例のように、国司が使を現地に派遣していることがわかるが、具体的には、おそらくは近隣の住民より渤海使来航のことが郡家に連絡され、さらに国府に伝えられたあと、天長五年正月二日付「太政官符」(『類聚三代格』)にみえるように、まずは国博士などが派遣され、来航した理由を問う「存問」が行われた。「存問」とは安否を問うこと、または慰問することであるが、これとともに渤海使が「蕃客」としての条件を具備しているか否かを、使者の地位・身分・意識や持参した物などによって検問する意味がある(田村圓澄「『大宰府探求』補遺」『九州歴史資料館研究論集』一六)。

 さらに具体的には、存問使の主な任務は、渤海使が来航の年限を守っているか、来航にふさわしい国書を持参しているかを調べることであったと思われる。来航理由を伝える使節の解状の提出や簡単な質問と回答がなされて、それらも含め渤海使の消息が国司を通じて「解」で太政官に上申されたが、さらに詳しく調べるため、京から「存問使」が派遣された。当時の史料に「便処」とみえる場所、おそらくは郡家や国府(または客館)などに安置されている渤海使に対して詳しい尋問がなされた。
  『延喜式』太政官・治部省には、外国使が来航すると、その応接をするさまざまな使を任命することが規定されているが、そのなかに「存問使」二人とそれに従った「隨使」「通事」が各一人定められている(存問使は入京の際に領客使になった)。そして、存問使の報告は「解」によって太政官に上申されることになっていた。


 それらの尋問記は「存問記」というかたちで京進され、さらに、国書すなわち渤海国王の「王啓」や中台省の牒を開封しそれを書写して京進するとともに(原本は使節に返す)、もしも入京させるにふさわしくない内容の場合は、そのまま国書を返却して現地から渤海使を帰国させる任務も帯びていた(しかし、後述するようにたいていは太政官の判断によっている)。
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縁海」国司の外交に関する職務と国書の開封
 職員令によれば、大宝令制定当時は渤海使の来航は予想されなかったため、大宰府をはじめ「蕃夷」の人びとと接触する可能性のある地域の国ぐに(壱岐・対馬・日向・薩摩・大隅の諸国)にのみ、彼らへの対応・迎接が規定されていた。
 しかし、神亀四年(七二七)、渤海使が初めて来航すると、「壱岐」以下の規定や蕃客が来航してから入京するまでの対応の規定は、日本海沿岸諸国にも適用されたようである。公式令によれば、外国人が来航した時には「所在の官司」すなわちその国の国司にその容貌や衣服を描いて報告する義務が課せられていた。国司がまず渤海使の対応にあたったことがわかる。
 そして、主に渤海使の場合、天平宝字年間までは律令政府は縁海国司からの連絡を受け、ほとんど問題なく入京させていた。

       ところが、宝亀三年正月に平城京内に参進した渤海使壱万福らがもたらした表(国書)が無礼であったとして、表函・信物を使者にいったん返却し、表文を改修させた事件を境に、使が入京する以前に来航した縁海国で国書が開封されるようになった。宝亀十年十月九日には、来航した新羅使に関して、もし表(国書)があれば「渤海の蕃例」に準拠して写しを京に進上するようにとの命令が大宰府に下った。
 当時、渤海使は先に述べたように、「筑紫道」すなわち大宰府経由以外の来航を禁止されており、宝亀十年十月の段階でも解除されず、同じ政策がとられていた。したがって、この宝亀十年十月の記事にみえる「渤海の蕃例」は、それ以前に大宰府に対して渤海使がもたらす国書を、あらかじめ書写して京進することを命じたものである。さらに、宝亀四年六月には、能登国司は「表函」を開封して国書の内容を読み、それが「例」に違い無礼であるとの判断を下し、この報告を受けて太政官が使を派遣して、入京させずにそのまま帰国させる旨の太政官処分を宣告している。
 したがって、おそらくは宝亀三年に壱万福らの帰国に際して、大宰府に対して出されていた渤海使の国書を開封し、前例に叶っているか否かを調べる方針(「例」)を、宝亀四年六月段階ではすでに日本海「縁海」諸国にも適用させていたらしい(石井正敏「大宰府および縁海国司の外交文書調査権」『古代文化』四三―一〇、田島公「外交と儀礼」『日本の古代』七)。

 それ以後は渤海使のもたらした国書を国司が開封して調査し、書写して京進することとなったが、国書の内容はその使を入京させ「賓礼」に処するか否かの重要な判断基準であり、この変化はそののち、京内の外交儀礼の重要性を次第に軽くするという変化をもたらした(田島前掲論文)。ただし実際は、縁海諸国の国司がこの任務を果たしていたかというと、どうもそうではなかったらしい。
 それは、天長四年十二月二十九日に但馬国に来航した渤海使の処遇に関する翌五年正月二日付「太政官符」によると、渤海使が来航した国の国司に対して、再び国書の開見を命じているが、それ以前は「朝使」すなわち京から派遣された存問使が国書を開封していたことがわかるからである。そのあとも、承和八年・嘉祥二年(八四九)・貞観元年・同十四年・元慶元年(八七七)の例からもわかるように、渤海使を勘問し、国書を開封・書写して京進する主体となったのは国司ではなく存問使であり、入京か放還かの最終判断は天皇および太政官に委ねられていた。

      入京の規定

 渤海使の来航の年限および持参した国書を調べた結果、入京となるか現地より放還となるかのいずれにしろ、来航した現地では「安置」すなわち一時的に滞在させ、「供給」すなわち食料や衣料など生活物資を支給した。
 「安置」する場合は、史料には「便処」に「安置」したことがみえるが、先に述べたように具体的には「郡家」(天長五年正月二日太政官符)のほか、国府または駅館などが利用されたと思われる。そして北陸道の場合などでは、しばらくして能登あるいは松原の「客館」などに移送された可能性が高い。

       現地での「安置」「供給」のあと、渤海使は入京する。律令にみえる渤海使など「蕃客」が入京する際の規定について説明を加えると、軍防令・賦役令・儀制令によれば、外国使の一行は各国が徴発する兵士によって、国ごとにリレーされて送られ(逓送)、京まで護送された。そして、渤海使の入京にあたって、兵士のほか、車・牛なども用いられ、国郡に所在するさまざまな器物が用いられた。
 また、関市令によれば、「蕃客」が初めて関を通過する際には、関司と「当客の官人」(京より派遣された領客使)が所持品を記録して治部省に報告すること、途中に関がなければ、最初に通過する国の国司がこれに准じることになっていた。国司などが渤海使の所持品検査を行ったのである。
     
 雑令によれば、「蕃客」の往還のため、大路の近辺に「蕃人」および「蕃人」の奴婢を置いてはならず、伝馬子や援夫などに「蕃人」を徴発することも許されなかった。これは、機密の保持にかかわるものであるが、職制律にも機密事項である大事を外国使節に漏らした場合の罰則規定が定められている。
 律令国家は外国使節と官人をはじめ民間人が私的に交際することを禁止したのである。また、公式令によれば、「帰化」する外国人が滞在する客館でも私的な交流は禁止されていた。外国使節に関するこれら律令の規定は、令の施行細則である『延喜式』玄蕃寮の式文にまとめられている。
     
 このほか、入京する途中の路次では、さまざまな祭祀が行われた。渤海使以外の外国使に関しての規定も示すと、『延喜式』神祇には「唐客入京する路次祭」、「蕃客を堺に送る祭」、「障神祭」の三つの祭祀が規定されている。
 まず、「唐客入京する路次祭」は具体的な祭祀の実態は不明だが、畿内とそれ以外の諸国に使人各一人が遣わされるほか、中臣氏も派遣される規定になっており、「路次」すなわち入京途中で祭祀が行われた。また、「蕃客を堺(境)に送る祭」では、外国使節が入京する際、畿内の境に迎え、外国使節に付着してきた「送神」を「祭却」し、使節が京内に至るころ、祓麻を支給して祓を行ってから入京させることになっていた。さらに「障神祭」では、外国使節が入京する前の二日、京の四隅において「障神」のために祭りを行うことになっていた。
     
  このほか、『延喜式』玄蕃寮には新羅使に対して、摂津国の敏売崎や難波館で酒(神酒)を給う規定がみえる。後述のように、外国使節は穢れや異国の神を付着していると律令国家の支配者層には認識されており、その祓を行ったり、お神酒を飲ませることによって穢れを取り除いてから入京させなければならなかった。
 これらの規定は畿内周辺のことのみで、渤海使とも明示されていない規定もあるが、入京直前のみならず、来航直後および途中の路次、各国の国境などで渤海使に対しても祓を行うことが義務づけられていたと思われる。
     
 なお、渤海使は入京して天皇に拝謁し、渤海国王からの国書や信物を献上し、歓迎の宴会に参列したあと、天皇から国書や信物を受け取ると、「領帰郷客使」らに付き添われ、出航する北陸道の港をめざして帰国の途についた。
 途中の各国では入京時と同様に兵士(のちに駄夫)などによってリレーされ護送された。また、『延喜式』太政官によると、帰国時には馬が支給された。帰国の途中、「松原客館」などに安置され、天候の回復を待ったり、渤海使は来航の際に船をよく破損したため、船を修理また新造してもらい出航したのである。

転載元: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興


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