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[転載]郡上八幡へ行こう!4夜徹夜で盆踊り=郡上の「徹夜おどり」

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4夜徹夜で盆踊り=郡上の「徹夜おどり」


www.gujohachiman.com/kanko/odori.html - キャッシュ
夜風が君の髪をなで、月がぽっかり浮かぶころ、. 「郡上のナァ〜」の唄声と、 三味(しゃみ)に太鼓に笛の音(ね)が、. 川の瀬音に重なって、郡上おどりの夜がひらく。 ゆれる提灯、ゆかたの影、 響く手拍子、げたの音。 忘れかけてた日本の夏。 心おどる夢一夜。
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郡上おどり 7月. 日曜日 日. 月曜日 月. 火曜日 火. 水曜日 水. 木曜日 木. 金曜日 金. 土曜日 土. 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7. 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14. 旧庁舎記念館前、おどり発祥祭 (7時30分~) おどり会場 ... 上殿町 八坂神社、天王祭 おどり会場の地図へ. 17, 18, 19  ...
www.gujohachiman.com/kanko/ - キャッシュ
8月13、14、15、16日の4夜、郡上おどりは徹夜おどりをむかえ郡上おどりは最高潮に達します。 全国から訪れる踊りファンや観光客で混雑が予想されますので、市街地全体にわたって交通規制が敷かれます。 こちらの地図をプリントアウトしていただきどうぞご ...


イベントの種類 会場
郡上おどり
Gujō Odori
屋形の周りで踊る郡上踊り
屋形の周りで踊る郡上踊り
祭り
岐阜県郡上市八幡町(郡上八幡
郡上おどり(ぐじょうおどり)は、岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り三大民謡郡上節)に数えられる。

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歴史

発祥

中世の「念仏踊り」や「風流踊り」の流れを汲むと考えられている。
盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758年〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。


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江戸時代中期

享保13年から17年間、飛騨国の代官であった長谷川忠崇が徳川吉宗の命を受けて著した『濃州志』の巻第七踏歌の中で、「転木麿歌(するまうた)」と題して「本土ノ民家於イテ籾オヒク礱也其時ウタフ歌也、郡上ノ八幡出テ来ルトキハ雨ハ降ラネトミノ恋シ(按スルニ濃州郡上ニ八幡町アリ飛州ノ隣国タリ)」と記している。これは飛騨の地で八幡のことを歌ったもので、郡上の八幡出て行く時は雨も降らぬに袖しぼる〜の替え歌と思われ、これが書かれた以前より郡上でこの歌が歌われていたことを物語っている。なお、この歌が踊り歌として歌われていたかは不明である。1840年天保11年)に書かれた郷中盛衰記によると「延享時代(1744〜1747年)までは神社の拝殿が九頭宮(くずのみや)と祖師野[1](そしの)だけにあって盆中は氏子がその拝殿で夜明かしして踊った」と書かれており、この時代より以前から郡上の盆踊りが徹夜で行われていたようである。

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1820年

郡上藩庁より触書「城番年中行事」で「盆中は踊り場所へ御家中末々まで妻子並びに召使いなど出かけていくことはならないと前々より禁じているから、固く心得て決して出かけていってはならない。今後年々この触れを出すことはやめておくが、違反のないように心得ておくこと」という意味の禁令(条令と御法度の覚書)が発せられた記録がある。これにより当時の武士やその家族の者たちが禁止されているにも関わらず、藩主や役人にこっそり隠れて踊りの輪に加わろうとしていたことが推察できる。

江戸時代後期

江戸時代後期において城下の盆踊りは、七大縁日が定められて行われていた。七大縁日とは7月16日の天王祭り(八坂神社)・8月1日の三十番神祭(大乗寺)・8月7日の弁天七夕祭り(洞泉寺)・8月14日〜16日の盂蘭盆会・8月24日の枡形地蔵祭り(枡形町)である。

1874年

明治政府により、禁止令が出される。神仏分離政策か近代化政策かの影響と思われる(顛末不明)。

1923年

大正12年郡上踊り保存会が発足する。初代会長は坪井房次郎。

1929年

昭和4年8月に保存会16名で松坂屋において東京初公演を行う。

1931年

昭和6年5月21日に東久邇宮稔彦王が来町し、愛宕公園において郡上踊りの実演を観覧した。この時保存会員十数名は「三百」「かわさき」を踊り、特に三百踊りは所望により二度踊った。

1934年

昭和9年愛知県名古屋市の新聞社であった新愛知(中日新聞の前身)により読者の投票による「郷土芸術十傑」の懸賞募集があった。 当時、保存会の人々は踊りを発展させるため、出場資格を得る票数を獲得しようと努力し郡上郡内で約四万票、更に郡外で約十万票を集め出場資格を得た。翌昭和10年の名古屋公演は非常に好評であったという。この時2日間の公演の演目は「川崎」「さば」「やっちく」「三百」であった。その様子は名古屋放送局で放送された(11月20日)。 この様にして郡上踊りは地元の人々以外にも次第に知られるようになっていった。

第二次世界大戦中

毎年8月15日のみ開催を許されていた。昭和20年8月15日の終戦日にも開催された。終戦日には官憲からの中止勧告があったとの証言があるが、「英霊を慰める」などの理由の下に中止は免れたという(保存会の事業経過報告書によれば15日は「終戦ノ玉音放送ノ為盆踊休止」となっているので、この日は住民が自然発生的に踊ったものと思われる)。



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郡上一揆


郡上八幡城内にある郡上義民顕彰碑。碑の形状は傘連判状をモデルにしている。
郡上一揆(ぐじょういっき)は、江戸時代美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)で宝暦年間に発生した大規模な一揆のことである。郡上藩では延宝年間にも年貢引き上げに藩内部の路線対立が絡んだ一揆が発生したが、一般的には郡上藩主金森氏が改易され、老中若年寄といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦期の一揆を指す。


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概要

郡上一揆は、郡上藩がこれまでの年貢徴収法であった定免法から検見法に改め、更に農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を行うことにより増税を行うことを決定し、それをきっかけとして発生した[1]。極度の財政難に悩まされていた郡上藩では、一揆開始前から各種の賦課が増大しており、一揆開始当初は豪農層や庄屋など豊かな農民や、郡上郡内でも比較的豊かであった、郡上八幡中心部よりも長良川の下流域にあった村々が一揆を主導していた[2]

農民らの激しい抵抗に直面した郡上藩側はいったん検見法採用を引っ込めたものの、藩主金森頼錦の縁戚関係を頼るなどして、幕領である美濃郡代の代官から改めて郡上藩の検見法採用を命じたことにより一揆が再燃した[3]。しかし藩側の弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層の多くは一揆から脱落し、その後は中農、貧農が運動の主体となる[4]。一揆勢は藩主への請願を行い、更には藩主の弟にとりなしを依頼するが、郡上藩側からは弾圧された[5]。また一揆本体にも厳しい弾圧が加えられたこともあって一揆勢は弱体化し、郡上郡内は寝者と呼ばれる反一揆派が多くなった。このような困難な情勢下、一揆勢は老中への駕籠訴を決行するに至る[6]

老中への駕籠訴が受理されたことによって郡上一揆は幕府の法廷で審理されることになり、一揆勢は勢いを盛り返した[7]。しかし当初進められていた審理は中断し、問題は解決の方向性が見られないまま長期化する[8]。そのような中、一揆勢は組織を固め、藩の弾圧を避けるために郡上郡外の関に拠点を設け、闘争費用を地域ごとに分担し、献金によって賄うシステムを作りあげるなど、優れた組織を構築していく[9]。また郡上一揆と同時期に郡上藩の預地であった越前国大野郡石徹白で、野心家の神主石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとしたことが主因である石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った[10]

最終的に郡上一揆と石徹白騒動はともに目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が幕府中枢部関与の疑いを抱いたことにより、老中の指揮の下、寺社奉行を筆頭とする5名の御詮議懸りによって幕府評定所で裁判が行われることになった[11]。裁判の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下されたが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦改易となり、幕府高官であった老中、若年寄、大目付勘定奉行らが免職となった。江戸時代を通して百姓一揆の結果、他にこのような領主、幕府高官らの大量処罰が行われた例はない[12]。また将軍家重の意を受けて郡上宝暦騒動の解決に活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとした勢力が衰退し、商業資本の利益への課税が推進されるようになった[13]

一揆の発生

宝暦4年8月2日(1754年9月18日)に郡上郡内の惣代寄合が行われ、年貢徴収法改正反対の結束を固めた南宮神社。

年貢徴収法改正の申し渡しと一揆の発生

宝暦4年7月20日(1754年9月6日)、郡上郡全域の庄屋を郡上藩庁に呼び出した上で、代官猪子庄九郎、別府弥格の名で年貢の徴収法を元禄12年(1699年)に定めた定免法から検見法に変えることを申し渡した。申し渡しの趣旨としては、現行の年貢徴収法である定免法は元禄12年(1699年)に定められたもので、幕領ではすでに年貢徴収法が改正されており、現在の年貢徴収法は定法と異なっているため改正が必要であり[† 3]、豊作年には多くの年貢を納め、凶作時には減免を行う検見法によって年貢を納めることは農民にとっても利益になるという内容であった[52]
申し渡しを受けた庄屋らは、その内容が重大であるため農民たちと相談の上で回答する旨を回答した。庄屋が郡上藩庁に呼び出された時点で、危機感を強めていた農民らは八幡榎河原に集結し始めていた。このような情勢下で帰村した庄屋は、各村で行われた寄合で農民の年貢徴収法改正への激しい反発に直面することになる[53]。各村はそれぞれ惣代を選び、宝暦4年8月2日(1754年9月18日)、郡上郡内の約120名の庄屋ら各村の惣代が郡上南宮神社に集まって惣代寄合を行い、神社の神前で一味同心の誓いを立てた上で傘連判状を作成し、年貢徴収法改正お断りの嘆願書を作成した[54]。しかし嘆願書は藩側に手渡されたものの、藩側からきちんとした年貢徴収法改正断念の返事はなかった、結局、庄屋たち中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決は断念され、農民らが直接藩に嘆願する方針に変更された[55]

転載元: フクロウとやまんばの眼差し、天網恢恢疎にして漏らさず


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