当館は、岐阜県百年公園(関市小屋名)内の自然豊かな里山に岐阜県初の「総合博物館」として昭和51年5月に開館しました。
日本のほぼ中央に位置する清流の国ぎふは、海抜0メートルから3000メートルを超える変化に富んだ地形を有しており、飛騨地方を中心とした「山の国」と、美濃地方平野部の「水の国」という特徴的な二つの地域からなっています。その本県の姿を、当館では、自然・人文両分野の資料を通して皆様に紹介して参りました。収蔵資料は自然分野を中心に13万点を数えます。
自然分野では、郷土の自然の展示や、特色ある自然物や事象を系統的に展示し、人文分野では、先史時代から現代に至るまでの郷土の歴史や特色ある民俗、美術工芸を部門別・時代別に展示しています。
また、これらの常設展示に加え特別展・企画展、資料紹介展の開催のほか、県内各地の文化施設で身近に博物館の企画展を観覧いただけるよう移動展も行っています。
さらに、生涯学習時代に県民が自ら調査、収集、研究した優れた資料コレクションや作品を企画展示する「マイミュージアムギャラリー」は、出展・観覧を無料で行うほか、高校生の文化芸術の成果発表・交流の場として「U-18ミュージアム」を開設しました。
また、教育普及活動として、観察会やワークショップ、講演会、各種イベントなど多彩な催しものを開催し、県民の生涯学習の場や学校教育の支援の場ともなるよう努めています。「教員のための博物館の日」を開催し、教員自身が自発的に博物館を楽しみ、親しんで、博物館の学習資源の魅力に理解を深めてもらい、児童・生徒と博物館をつなぐ人材がさらに増えていくことを期待しています。
博物館活動の在り方は、時代の変化と社会のニーズに応じて見直していくことも大切であると考えています。社会のための博物館という視点にも着目し、他の博物館、大学、研究機関との連携を深めて、互いが有する資源の有効活用を図り、さらには企業・業界団体など異分野とのコラボレーションを通じて、新たな切り口での企画展示や催しを開催するなど、皆様と共に新しい岐阜県博物館を展開していきたいと考えます。
ぜひとも博物館の様々な活動にご参加いただきますとともに、自由なご意見・ご提言をお寄せくださいますようよろしくお願いします。
平成29年4月
岐阜県博物館長
岐阜県博物館長
河童の外見

妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
体格は子供のようで、全身は緑色または赤色。頭頂部に皿があることが多い。皿は円形の平滑な無毛部で、いつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う、または死ぬとされる。口は短い嘴で、背中には亀のような甲羅が、手足には水掻きがあるとする場合が多い。
18世紀以前の本草・博物学書上では、河童のイメージは両生類的ではなかった[3]。例えば、文安元年(1444年)に成立した『下学集』には「獺(カワウソ)老いて河童(カワロウ)に成る」とある。また、『日葡辞書』の「カワラゥ」の項では、川に棲む猿に似た獣の一種と説明されている。18世紀半ばに、山がなく猿に馴染みのない江戸の人びとに受容しやすい、カエルやスッポンに似せた両生類的な江戸型の河童のモデルが生まれ、19世紀には出版物を通じて全国に伝播し、置き換えられていった[4]。
亀人形態
体はウロコで覆われ嘴があり、頭には皿を乗せている。頭の皿が割れると死ぬ、または力を失い衰弱する。背中に甲羅があり手足に水かきがある。爬虫類が原型なのか、絵では手の親指がないことが多い。亀のように四本足で歩く絵も見受けられる。キュウリを好む。
絵に書かれることは多いが、キュウリが好物という以外には具体的に何をしたという特徴もない。一般的な河童の想像図に近い反面、目撃談は意外に少ない。
類人猿形態
全身が毛に覆われている。口には牙があり、鼻の造形がはっきりしない。頭部にはくぼみがあり、そこに常に水を溜めている。その水が乾くと死ぬ、または衰弱する。手には親指があり、足にはかかとがある。相撲が得意でよく人間の子供と遊ぶ。
存在する河童絵の3割程度は猿型だが、中には背中の甲羅が書かれていないものもある。
昭和以降の目撃談で、遠目には人間に見えるというのはこの種類と見て間違いない[誰?]。甲羅を紐で結んでいる絵も多く見受けられるので、甲羅様の道具を蓑のように使っている人間であるとも考えられている。ごくまれに甲羅でなく蓑のようなものに背中を覆われている絵もある。
行動

葛飾北斎による河童
悪戯好きだが悪さをしない妖怪として伝えられる場合もあるが、多くは水辺を通りかかったり、泳いだりしている人を水中に引き込み、おぼれさせたり、「尻子玉」(しりこだま。尻小玉とも書く)を抜いて殺すなどの悪事を働く。抜いた尻子玉は食べたり竜王に税金として納めたりする。
尻子玉とはヒトの肛門内にあると想像された架空の臓器で、これを抜かれるとふぬけになると言われている。この伝承は溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子があたかも尻からなにかを抜かれたように見えたことに由来するようである(尻子玉は胃や腸などの内臓を意味するという説もある)。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様の溺死者の姿があたかも内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる[5]。
相撲が大好きでよく子供を相撲に誘う。相撲に負けた子供は尻子玉を抜かれる。河童は大人よりも力が強いが、仏前に供えた飯を食べた後に闘えば子供でも負けないと言われている。また相撲をとる前にお辞儀をすると河童もお辞儀を返し、それにより頭の皿の水がこぼれてしまうため、力が出せなくなるともいう。河童が相撲を好むのは相撲が元々水神に奉げる行事だったためとも言われる[6]。
好物はキュウリ、魚、果物。これにちなみ、キュウリを巻いた寿司のことを「カッパ巻き」と呼ぶ。キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり、キュウリは初なりの野菜として水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる[7]。
義理堅く、魚や薬の製法を恩返しとして提供する民話も多く存在する。
起源

歌川国芳画、多嘉木虎之助。田村川で川虎(河童)を生け捕る図
河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ、西日本では大陸からの渡来とされるが(河伯信仰を参照)、東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する。
河神[8]が秋に山神となるように、河童も一部地域では冬になると山童(やまわろ)になると言われる。大分県では、秋に河童が山に入ってセコとなり、和歌山県では、ケシャンボになる。いずれも山童、即ち山の神の使いである。また、河童は龍などと同じ水神ともいわれる。山の精霊とも言われる座敷童子などと同様に、河童も一部の子供にしか見えなかったという談がある。
頭の皿については、民俗学者の折口信夫が『河童の話』で興味深い指摘をしている[9]。皿などは食物を載せるための物で、つまりは生命力の象徴である。これに関しては椀貸し淵の伝承が興味深い。膳椀何人前と書いた紙を塚・洞・淵などに投げ込んでおくと翌日には木具が揃えてあった。だがある時借りた数を返さなかった日から貸してくれなくなった、というようなものである。貸し主ははっきりしないのが多く、龍宮・河童というのもあるが狐という所もある。ただ類似の説話に川上から箸や椀が流れてきたという隠れ里にまつわる話やそれに関する迷い家(マヨヒガ)のケセネギツ(米櫃)[10]、淵に薪などを投げ込むと恩返しで富貴になる話などがあり、これらのことからは椀類が生命力から富の象徴になったこと、椀が水と縁の浅からぬ物であることが分かる。
また折口は、壱岐の殿川屋敷で女が井戸に飛び込み、底に椀が沈んでいるという話も紹介した。これについては古くから水の神に捧げる嫁あるいは生け贄や、水に関わる土木工事での女の人柱が多く伝承されていることを挙げ、平戸に伝わる女河童の例で、ある侍屋敷に下女がいて皿を一枚落として割ったので主人が刀で斬りつけると海に逃げ、その姿を見れば河童であったという話を引いている。
岐阜県でも約3万年前に始まる後期旧石器時代には、濃尾平野北辺部の段丘上や台地(日野遺跡・寺田遺跡・椿洞遺跡)に人々が活動していた遺跡が確認されている。
他にも山中の狭い細尾根にある遺跡(揖斐川町藤橋村徳山寺屋敷遺跡)や低湿地の遺跡(飛騨市宮川村宮ノ前遺跡)が確認されている。それらの遺跡から石を割ってで切る剥片でつくった石器、例えばナイフ形石器・削器・細石刃・尖頭器など、また調理に使ったと考えられる礫郡、加工痕のある木片などのいろいろな生活用具が見つかっている[2]。
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岐阜県博物館の交通アクセス
http://www.gifu-kenpaku.jp/wp-content/uploads/2017/10/access_map.jpg所在地
〒501-3941 岐阜県関市小屋名1989(岐阜県百年公園内 →百年公園マップはこちら) |