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[転載]ダグラス・マッカーサー

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ダグラス・マッカーサー

 
ダグラス・マッカーサー
Douglas MacArthur生誕地死没地所属組織軍歴最終階級廟署名
1880年1月26日 - 1964年4月5日(満84歳没)
Douglas MacArthur smoking his corncob pipe.jpg
コーンパイプを燻らすマッカーサー元帥(1945年
アメリカ合衆国の旗アメリカ合衆国アーカンソー州リトルロック
アメリカ合衆国の旗アメリカ合衆国ワシントンD.C.
Seal of the US Department of the Army.svgアメリカ陸軍
1903 - 1952
陸軍元帥(アメリカ陸軍)
陸軍元帥(フィリピン陸軍)
バージニア州ノーフォーク
DMacarthur Signature.svg
  
ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur, 英語発音: /ˌdʌgləs məˈkɑːrθər/グラス・マカーサ、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ軍将軍元帥)で、GHQ最高司令官であり、名誉勲章の受章者である。
 
 
 
太平洋戦争

現役復帰

フィリピン国内の基地で演説を行うマッカーサー
 
 1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、アメリカが対日戦に突入後の12月18日付で大将に昇進した。
 ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたが、マッカーサーは大変不満であった。一度は名目上とはいえ「元帥」に就いていたし、自分は中将なのに、同じくフィリピンを本拠地とするアジア艦隊の司令長官で、知り合いでもあったトーマス・ハートが大将なのも気に入らなかった。中将になってからも「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していた。

フィリピン撤退

 12月8日に、日本軍がイギリス領マレーハワイ州真珠湾などに対して攻撃を行い太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じた。
オーストラリアに退却したマッカーサー
 
 怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島コレヒドール島籠城する作戦に持ち込んだ。2ヶ月に渡って日本陸軍を相手に「善戦」していると、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。
 
 一方、ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、マッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。
 マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。
 
 コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇ミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17オーストラリアに飛び立った。
 
 この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。

フィリピン反攻

レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー
 
 南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。
 そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。
 
 1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。
 
 マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島レイテ湾に上陸し、フィリピンゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で抵抗を続けた。この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

GHQ最高司令官

バターン号」で厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー
 
 1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国オーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカ軍やイギリス軍中華民国軍フランス軍を中心とする連合軍の占領下に入った。
 マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県厚木海軍飛行場に到着した。厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声を以下の様に答えた。
 メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。
 各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。
 日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する
朝日新聞(1945年8月31)
 その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。
 
 1945年9月27日には、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招いて会談を行った。この会談においてマッカーサーは昭和天皇を出迎えはしなかったが、昭和天皇の話に感銘を受けたマッカーサーは玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。
 その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。なおマッカーサーは略装を好み、重要な場でも略装で臨むことが多かったために、その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともある。
 
 これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。また、連合国軍と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。
 
 占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機横浜野戦病院(現・横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。
 
 マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。なお占領当時のマッカーサーはフリーメイソンのフィリピン・グランドロッジに所属しており、32位階の地位にあったとされる。
 
原爆投下について
 マッカーサーは『日本がソ連に和平仲介を頼んだと知った1945年6月、私は参謀達に、戦争は終わりだ、と告げた。ところがワシントンのトルーマン政権は突如日本に原爆を投下した。私は投下のニュースを聞いたとき激怒した。』と当初は原爆投下を批判したが、朝鮮戦争の際には原爆投下を計画したために司令官を解任される。

その他

 

転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識


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