[転載]民族の英雄に祈り 北海道・新ひだかでシャクシャインの法要祭(2013/09/23)
[転載]鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう、1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1953年(昭和28年)1月14日)は、日本の人類学者(『ある老学徒の手記』)、考古学者、民族学者、民俗学者。
鳥居龍蔵 - Wikipedia
鳥居龍蔵
人物
フィールドワーク
鳥居龍蔵の千島調査 「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。 中川 裕 鳥居龍蔵が千島アイヌの調査を行ったのは、1899年(明治32年)のことである。一般に千島アイヌと呼ばれるのは、千島列島でもウルップ島以北の、いわゆる北千島に住むアイヌ人を指すが、当時すでに彼らは1884年(明治17年)の千島・樺太交換条約のあおりを受けて、色丹島に強制移住させられており、その人数も移住当時の97人から62人にまで減っていて、まさに消滅の危機に瀕していた。 そこで5日間ほど竪穴式住居と遺物の調査を行い、それが千島アイヌのものであることを確認。そして、6月5日に再び色丹島を訪れ、以後そこに24日間滞在して、彼らの形質、言語、民俗などを調査した。 その部分を含めた調査報告は、1919年(大正8年)に東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編として公刊された、"Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Aïnou des Iles Kouriles."にまとめられたが、これはフランス語で書かれており、そのために国内ではあまり利用されてこなかった[同論文は、1976年(昭和51年)になって『鳥居龍蔵全集』第5巻に「考古学民族学研究・千島アイヌ」として邦訳収録された]。 アイヌ説をとる小金井良精博士らがそれに意を得て、坪井と激しく論戦を交わしたことが記録に残っている。 とくにディボフスキのものは、千島方言の語彙集としては現在にいたるまで最大のものであり、『千島アイヌ』の三倍の分量があるのだが、同書がポーランド語で書かれている上、一般の手には入りにくい本であったため、村山七郎氏が『北千島アイヌ語』(1971吉川弘文館)で同書の解説を行うまで、ほとんど利用されてこなかった。そこで、国内では『千島アイヌ』の語彙集を、アイヌ語千島方言の例として引用するのが一般的であった。たとえば、1964年(昭和39年)に刊行された服部四郎編『アイヌ語方言辞典』(岩波書店)は、北海道から樺太にかけての9つの方言を現地調査して、それを一覧表にしたものだが、千島方言については当時すでに調査は不可能の状態であったので、『千島アイヌ』の語彙をそのまま引用して他の方言と同列に並べている。また、後に浅井亨氏がアイヌ語諸方言問の格差を統計学的に算出した際も、彼の語彙を千島方言のデータとして用いている。
■千島アイヌ関係著書・論文目録 以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第7巻、第12巻(1976年 朝日新聞社)によって作 成した。
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高知工科大学・総合研究所 博物資源工学センター 鳥居龍蔵資料アーカイブ推進協議会 |
[転載]北斗遺跡に行こう!6000年前に温暖ピークがあることが分かる。 北斗遺跡は、旧石器時代から縄文・続縄文時代を経て擦文時代で、釧路湿原を望む標高20m前後の台地上に
釧路市北斗遺跡ふるさと歴史の広場|釧路市立博物館
釧路市北斗遺跡ふるさと歴史の広場
過去の発掘調査では、旧石器時代の火を焚いた跡、縄文時代の住居跡・墓や小貝塚、擦文時代の住居跡などが確認されています。中でも擦文時代は、鉄器、繊維遺物、はた織具の一部、栽培植物の種子などが出土しています。
1977年7月、釧路湿原西縁において最も規模の大きい重要な遺跡であることにより、東側233,471平方メートルが国指定史跡となっています。
利用のご案内
- 開設期間:4月16日から11月15日
- 開館時間:午前10時から午後4時
- 休館日:月曜日(月曜が祝祭日の場合は開館)・11月16日から4月15日
- 入館料:無料
- 交通:
釧路駅からバスで40分(阿寒バス鶴居線北斗坂下下車徒歩5分)
駐車場:有(20台)
ふるさと歴史の広場の施設について
広場全体図
縄文海進

歴史
原因
周辺案内図・アクセスマップ
釧路市湿原展望台のご案内は、
[転載]北海道の史跡は、特別史跡1件を含む計51件が指定されている。
北海道
国指定
道南
- 特別史跡
- 史跡
- 大館跡(おおだてあと)〔松前郡松前町〕
- 松前氏城跡(まつまえししろあと)〔松前郡松前町・檜山郡厚沢部町〕1935年6月7日
- 松前藩主松前家墓所(まつまえはんしゅまつまえけぼしょ)〔松前郡松前町〕
- 松前藩戸切地陣屋跡(まつまえはんへきりちじんやあと)〔北斗市〕
- 茂別館跡(もべつたてあと)〔北斗市〕
- 大船遺跡(おおふねいせき)〔函館市〕
- 垣ノ島遺跡(かきのしまいせき)〔函館市〕
- 志苔館跡(しのりたてあと)〔函館市〕
- 四稜郭(しりょうかく)〔函館市〕 1934年1月22日
- 鷲ノ木遺跡(わしのきいせき)〔茅部郡森町〕
- 上之国館跡(かみのくにたてあと)〔檜山郡上ノ国町〕
- 花沢館跡(はなざわだてあと)
- 洲崎館跡(すざきだてあと)
- 勝山館跡(かつやまだてあと)
- ピリカ遺跡(ぴりかいせき)〔瀬棚郡今金町〕
道央
- 史跡
- 大谷地貝塚(おおやちかいづか)〔余市郡余市町〕 1999年5月21日
- 旧下ヨイチ運上家(きゅうしもよいちうんじょうや)〔余市郡余市町〕
- 旧余市福原漁場(きゅうよいちふくはらぎょば)〔余市郡余市町〕
- フゴッペ洞窟(ふごっぺどうくつ)〔余市郡余市町〕
- 忍路環状列石(おしょろかんじょうれっせき)〔小樽市〕
- 手宮洞窟(てみやどうくつ)〔小樽市〕 1921年3月3日
- 開拓使札幌本庁本庁舎跡および旧北海道庁本庁舎(かいたくしさっぽろほんちょうほんちょうしゃあとおよびきゅうほっかいどうちょうほんちょうしゃ)〔札幌市〕
- 琴似屯田兵村兵屋跡(ことにとんでんへいそんへいおくあと)〔札幌市〕 1982年5月7日
- 荘内藩ハママシケ陣屋跡(しょうないはんはまましけじんやあと)〔石狩市〕
- 旧島松駅逓所(きゅうしままつえきていしょ)〔北広島市〕 1984年7月25日
- カリンバ遺跡(かりんばいせき)〔恵庭市〕
- ウサクマイ遺跡群(うさくまいいせきぐん)〔千歳市〕
- キウス周堤墓群(きうすしゅうていぼぐん)〔千歳市〕
- 江別古墳群(えべつこふんぐん)〔江別市〕
- 音江環状列石(おとえかんじょうれっせき)〔深川市〕
- 入江・高砂貝塚(いりえ・たかさごかいづか)〔虻田郡洞爺湖町〕
- 北黄金貝塚(きたこがねかいづか)〔伊達市〕
- 善光寺跡(ぜんこうじあと)〔伊達市〕
- 東蝦夷地南部藩陣屋跡(ひがしえぞちなんぶはんじんやあと)
- 白老仙台藩陣屋跡(しらおいせんだいはんじんやあと)〔白老郡白老町〕
- 静川遺跡(しずかわいせき)〔苫小牧市〕 1987年1月8日
- シベチャリ川流域チャシ跡群及びアッペツチャシ跡(しべちゃりがわりゅういきちゃしあとぐんおよびあっぺつちゃしあと)〔日高郡新ひだか町・沙流郡日高町〕
道北
- 史跡
- 旧留萌佐賀家漁場(きゅうるもいさがけぎょば)〔留萌市〕 1997年3月17日
- 白滝遺跡群(しらたきいせきぐん)〔紋別郡遠軽町〕
- 常呂遺跡(ところいせき)〔北見市〕
- 桂ヶ岡砦跡(かつらがおかちゃしあと)〔網走市〕
- 最寄貝塚(もよろかいづか)〔網走市〕
道東
- 史跡
- オタフンベチャシ跡(おたふんべちゃしあと)〔十勝郡浦幌町〕
- ユクエピラチャシ跡(ゆくえぴらちゃしあと)〔足寄郡陸別町〕
- 釧路川流域チャシ跡群(くしろがわりゅういきちゃしあとぐん)〔釧路市・川上郡弟子屈町・川上郡標茶町・釧路郡釧路町〕2015年3月17日統合・追加指定・名称変更
- 春採台地竪穴群(はるとりだいちたてあなぐん)〔釧路市〕
- 東釧路貝塚(ひがしくしろかいづか)〔釧路市〕
- 北斗遺跡(ほくといせき)〔釧路市〕
- 国泰寺跡(こくたいじあと)〔厚岸郡厚岸町〕
- 伊茶仁カリカリウス遺跡(いちゃにかりかりうすいせき)
- 古道遺跡(ふるどういせき)
- 三本木遺跡(さんぼんぎいせき)
道指定
[転載]102歳まで岩を穿った周藤弥兵衛は、江戸中期の切通水路の開削,新田開発の功労者。私財を投じて着手,延享4(1747)年まで42年間をかけて完成した。
周藤弥兵衛(すどう・やへえ)とは - コトバンク
生年:慶安4(1651)
江戸中期の切通水路の開削,新田開発の功労者。出雲国(島根県)意宇郡日吉村の下郡役を勤める家に生まれる。のち出家して良刹と名乗る。祖父弥兵衛(初代)家正が村の度々の水害を救うため岩山を開削し,かつ築堤して新田も開いていたが,承応3(1654)年の堤防決壊,元禄15(1702)年の大洪水で本田新田とも跡形もなく破壊された。孫の3代目弥兵衛良刹は祖父の偉業を継承,宝永3(1706)年岩山開削,川違工事を松江藩に願い出,私財を投じて着手,延享4(1747)年まで42年間をかけて完成した。また貞享・元禄期(1684~1704)には,下郡役として意宇郡古志原村(松江市)の開発にも尽力した。<参考文献>島根県内務部編『島根県旧藩美蹟』
周藤弥兵衛の画像
-Yahoo!検索(画像)[転載]五島列島のいろいろ-五島市-奈留町「ユーミンの碑」編
5月に奈留町に行ったときの記事を紹介していきます。
今回は奈留町を代表する観光地ともなっている「ユーミンの碑」をご紹介します。
もはや説明の必要はないと思いますから、興味ある方はネットで調べてみてください。
奈留町の高台に位置し、小中高一貫の教育となっています。
記念撮影用でしょうか、手作りの長椅子もあります。
御影石もピカピカに磨いてあり、金箔の文字もしっかりと箔押しがなされていました
碑の建立からかれこれ30年が経過しているにも関わらず、綺麗な状態を保っており、これほど管理に手を入れているとは思ってもみませんでした。
きっと島のみんな、卒業生の心のよりどころになっているのでしょう。
[転載]アコウ(新上五島市奈良尾)
覚えていたのより又一回り大きくなってました。
青々と茂り元気そうです。
五島には渡り鳥によって種がはこばれたようです。
実がなるようですが、私は覚えてません。
地上3.5mのところから二俣に分岐した根は、奈良尾神社の参道を跨ぐように根を下ろしています。
根回りは12m以上。
樹齢650年。
国の天然記念物に指定されてます。
妖気漂う雰囲気です。
[転載]五島列島のいろいろ-五島市-展望所巡り「箕岳園地展望所」編
私は高いところから見る景色が好きで、旅行に行くと各地の展望所を見て回るのですが、福江島にもいくつか展望所があるので、何回かに分けて島内の展望所、展望台をご紹介します。
今回は五島市の鬼岳の麓の崎山町に至る「箕岳園地展望所」をご紹介します。
途中に、歩いているとサルトリイバラを見かけました。
西日本ではお馴染みのお饅頭に敷く葉っぱです。
柏の葉っぱの代用ですね~というより、こちらではこれが主流ですが。
子供連れで遊びに来るのに最適な広い原っぱです。
暑くなれば桜の下が日陰になります。
今後、あと9基を追加で設置する計画とのことです。
一時期は無人島になる危機がありましたが、U、Iターン者が暮らしています。
島には商店や飲食店はなく、さらには水道がないので、島に遊びに行く際には注意が必要です。
島には民宿が2軒あるのみで、商店や飲食店はありません。
唯一の観光スポットとして、溶岩トンネルがあります。
全長132mにも及ぶトンネルは、福江島の富江町の「井坑」に繋がっているともいわれており、謎の多い溶岩トンネルです。
近い将来、無人島になる可能性が一番高い島です。
島に行くなら今のうちかもしれません。
当然ですが、島には何もありません。
ぜひ、皆さんも足を運んでみてください。
https://yahoo.jp/IAICEX
[転載]新上五島町(観光その3)
↑2:オリジナル画像:内部。新上五島町では、撮影OKです♪
↑3:オリジナル画像:教会のステンド・グラス。
↑4:オリジナル画像:若松大橋。
↑5:オリジナル画像:奈良尾神社のアコウ。
↑6:オリジナル画像:説明板。
[転載]壱岐に行きましょう 歴史を学ぼう 元寇まで
旧石器時代後期~終末期 カラカミ遺跡〔勝本町〕から、この頃に使われたナイフ形石器や台形状石器が見つかる 縄文時代前期~晩期 名切遺跡〔郷ノ浦町〕にドングリを貯蔵する穴が造られる
弥生時代中期前葉 原の辻遺跡のある丘陵部のまわりに環濠が掘られ、船着き場が完成する 弥生時代後期 カラカミ遺跡でシカ・イノシシの肩甲骨を使ったト骨が行われる 千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」の57文字で一支国の様子が記載されている 古墳時代前期 4世紀中頃、原の辻遺跡にあった環濠集落が解体される 古墳時代中期 5世紀後半頃、大塚山古墳〔芦辺町〕に竪穴系横口式石室の小型円墳が築造される 古墳時代後期 6世紀後半頃、松尾古墳〔郷ノ浦町〕に円墳が築造される 487年 月読神社(芦辺町)に天月神命を祀り、高御祖神社には天月神命の祖高産霊尊を祀る【神社考】 632年 犬上御田鍬帰朝の記事中に伊岐史乙等の名有り 700年 伊吉博徳が大宝律令の編纂に参与し、功績が認められ賜禄される【続日本紀】
759(天平宝字3)年 大宰府や壱岐などに軍船100を置く事を上申するものの実現せず【続日本紀】 804(延暦23)年 壱岐島の防人に筑前の穀米を送る【日本後紀】 804(延暦23)年 壱岐島に配した大宰府管内6国の防人20人を廃止する 壱岐島の兵士300人を分番配置する【日本後紀】 782~806年〔延暦年間〕 桓武天皇の命により兵主神社〔芦辺町〕を建立する【壱岐国神名記】 806(大同1)年 壱岐が水害と疫病に見舞われたため、1年間、税を免除される【類聚国史】 815(弘仁6)年 壱岐島医師に大初位下蕨野勝真吉の名有り【続日本後紀】 816(弘仁7)年 異賊襲来に備え、壱岐島内の2か所の関を置き、14ヵ所の要害を構える【日本後紀】 828(天長5)年 壱岐直方磨を壱岐国造に任命する 835(承和2)年 新羅人の来航に備え、壱岐島内を防人330人に守らせる【続日本後紀】 837(承和4)年 第17回の遣唐使船が逆風に遭い遭難する 第1船と第4船は壱岐に、第2船は値嘉島に漂着する【続日本後紀】 838(承和5)年 新羅商人の往来に備え、壱岐島に弩師を置く 壱岐島内には弩100脚有り【類聚三代格】 844(承和11)年 諸国の例に準じ薩摩・大隅・壱岐諸国に講師を置く【続日本後紀】 845(承和12)年 日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬諸国の博士・医師の任期を6年とし、内位に叙する【続日本後紀】 851(仁寿元)年 この頃、壱岐の人口10,600人、対馬7,400人と記されている【類聚三代格】 856(斉衡3)年 ト部雄貞が「ト部」を改めて「占部宿禰」を賜う【壱岐神社誌】 859年 海神社〔勝本町〕を従五位にする【日本三大実録】 863(貞観5)年 石田郡の占部是雄と占部業孝に「壱岐宿祢」の姓を授ける【日本三代実録】 866(貞観8)年 伴秋実、応天門の変により壱岐に流罪となる【日本三代実録】 869(貞観11)年 伊岐宿禰是雄を「丹波権椽」に任命する【壱岐神社誌】 870(貞観12)年 壱岐島に武具〔冑・手纒各200〕を送る【日本三代実録】 870(貞観12)年 筑前・肥前・壱岐・対馬などの国に対し、外敵に備えさせる【日本三代実録】 871(貞観13)年 壱岐島に冑などの武具400具備える 872(貞観14)年 従五位下宮主伊伎宿袮是雄が没する〔享年54歳〕【日本三代実録】 876(貞観18)年 壱岐の水田616町有り これは『倭名抄』の620町におおむね一致する【日本三代実録】 880(元慶4)年 伴秋実、恩赦により放免となる【日本三代実録】 883(元慶7)年 朝廷は周防国司に命じて、再び伴秋実を壱岐へ配流する【日本三代実録】 894(寛平6)年 新羅の賊が壱岐を襲い、官舎などを焼き払う 895(寛平7)年 大宰府に新羅の賊が壱岐島に襲来したことを報告する【日本紀略】 906(延喜6)年 豊前国宇佐郡より異国降伏国家擁護の神を白沙八幡に移す 927(延長5)年 『延喜式』神名帳に壱岐島内に24座(大7、小17)有りと記されている 935(承平5)年 壱岐の戸数2,070戸、人口10,350人、と記載有り【倭名類聚抄】 997(長徳3)年 南蛮人〔奄美人〕が、壱岐・対馬を襲う【小右記】
1266(文永3)年 壱岐の白沙八幡宮の大宮司源季重家職継承が鎮西守護所へ見参料として牛一頭を進上する【壱岐史拾遺】
海とみどり、歴史を活かす癒しのしま、壱岐
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[転載]壱岐の歴史 パンフレット 壱岐日記 原の辻一支国王都復元公園 古墳群散策
串山ミルメ浦遺跡 | 貝塚・遺物包含地 | 縄文時代~古代 | 壱岐市 |
天ケ原遺跡 | 祭祀跡・遺物包含地 | 弥生時代、古墳時代 | 壱岐市 |
遺跡名 | 天ケ原遺跡(あまがはらいせき) | ||
所在地 | 壱岐市勝本町東触字菖蒲坂 | ||
緯度 | 北緯33°51′21″ | 経度 | 東経129°42′30″ |
標高 | 5m | 地形 | 砂丘 |
種別 | 祭祀跡・遺物包含地 | 時代 | 弥生時代、古墳時代 |
資料所在地 | 壱岐市教育委員会 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 『串山ミルメ浦遺跡』勝本町文化財調査報告書第4集 1985 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は、壱岐の最北端に位置し、天ケ原から小串へと伸びる砂州上にあり、北東側は外海に接している。遺跡内の道路工事および護岸工事の際に、朝鮮半島系の無文土器、古墳時代~奈良時代の土師器・須恵器などが出土している。また、昭和36年(1961)には、海岸の波打際にあったセジョウ神と呼ばれていた石祠の地下80cmほど下から、中広銅矛3本が出土している。この遺構は、青銅器の埋納遺構と考えられ、壱岐の最北端に位置することから、異国から招来する悪霊や疫病等対しての境界祭祀の可能性をもっている。壱岐では、銅矛は天ケ原遺跡の3本と原の辻遺跡の2本、熊野神宮に伝世する1本の合計6本が知られるに過ぎないが、対馬では100本を超える数の銅矛が出土しており、航海安全を祈る祭祀にも使われたことが推測されている。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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松崎遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代 | 壱岐市 |
カラカミ遺跡 | 遺物包含地・貝塚 | 旧石器時代、弥生時代 | 壱岐市 |
遺跡名 | カラカミ遺跡(からかみいせき) | ||
所在地 | 壱岐市勝本町立石東触字カラカミ、国柳、川久保 | ||
緯度 | 北緯33°47′28″ | 経度 | 東経129°41′48″ |
標高 | 80m | 地形 | 丘陵 |
種別 | 遺物包含地・貝塚 | 時代 | 旧石器時代、弥生時代 |
資料所在地 | 壱岐市教育委員会 | 指定状況 | 市指定 |
参考文献等 | 『カラカミ遺跡』勝本町文化財調査報告書第3集 1985、同6集 1988 『地域拠点遺跡内容確認発掘調査報告書2』長崎県文化財調査報告書第185集 2005 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は、壱岐島の中央よりやや西側に位置し、刈田院川上流の標高80mほどの丘陵に立地する。大正8・9(1919・20)年頃に発見され、昭和初期に在地の研究者松本友雄によって中央学会に紹介された。昭和27(1952)年には東亜考古学会、昭和52(1977)年には九州大学、昭和57~59(1982~84)、62(1987)年には勝本町教育委員会が主体となり、発掘調査が実施され、鯨骨や獣骨製、石製の漁労関係遺物、楽浪土器や三韓土器などの大陸から舶載された土器、後漢鏡片などの青銅器、鉄器、占いの卜骨などが出土し、原の辻遺跡に比較すると農耕的な要素が乏しく、漁労や交易(南北市糴)に従事した集団の基地的な集落跡であったことが推測される。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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対馬塚古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
双六古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
笹塚古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
掛木古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
石路遺跡 | 集落跡 | 弥生時代・古墳時代 | 壱岐市 |
遺跡名 | 石路遺跡(いしろいせき) | ||
所在地 | 壱岐市勝本町立石西触字樽見 | ||
緯度 | 北緯33°47′57″ | 経度 | 東経129°40′42″ |
標高 | 50m | 地形 | 丘陵 |
種別 | 集落跡 | 時代 | 弥生時代・古墳時代 |
資料所在地 | 壱岐市教育委員会 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 『片苗イシロ遺跡』勝本町文化財調査報告書第5集 1987 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は壱岐島の西岸、勝本町と郷ノ浦町との境界に近い湯ノ本湾の支湾の一つで、片苗湾に面した丘陵部に位置する。遺跡は、地元研究者の松本友雄によって大正末年から昭和初年に発見された。1986年には、個人の畑地基盤整備に伴って勝本町教育委員会が発掘調査を行い、古墳時代初頭の竪穴住居跡1軒、石囲墓4基、多数の柱穴跡が確認されている。この片苗湾東岸の丘陵は、中世に「片苗千軒」と称され、多くの人が住みつき栄えていたといわれており、弥生時代から引き続いて生活が営まれた海民集落であったことが考えられる。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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勝本城跡 | 城館跡 | 中世(近世初期) | 壱岐市 |
百合畑古墳群 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
鬼屋窪古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
大原天神の森古墳群 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
松尾古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
鎌崎遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代 | 壱岐市 |
名切遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代 | 壱岐市 |
亀丘城跡 | 城館跡 | 中世、近世 | 壱岐市 |
車出遺跡 | 遺物包含地 | 弥生時代 | 壱岐市 |
大米古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
大宝遺跡 | 遺物包含地 | 旧石器時代、古代、中世 | 壱岐市 |
遺跡名 | 大宝遺跡(たいほういせき) | ||
所在地 | 壱岐市郷ノ浦町志原南触字大宝 | ||
緯度 | 北緯33°44′43″ | 経度 | 東経129°43′14″ |
標高 | 54m | 地形 | 丘陵 |
種別 | 遺物包含地 | 時代 | 旧石器時代、古代、中世 |
資料所在地 | 原の辻遺跡調査事務所 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 『大宝遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書第14集 1999 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
本遺跡は、壱岐島南部の内陸にあり、谷底平野の谷頭の標高54mの丘陵に立地している。県営ほ場整備事業に伴って、平成10年度(1998)に発掘調査が実施され、古代から中世にかけての遺構・遺物が出土した。遺構では、掘立柱建物4棟、溝4条、柱跡群などが検出された。遺物では、奈良時代8世紀~9世紀の須恵器・土師器、9世紀~13世紀代の中国製青磁・白磁、新羅土器、国産の緑釉陶器、瓦質土器、玄界灘式製塩土器、滑石製石鍋、鞴の羽口、鉄滓などが出土している。遺構や遺物の出土状況から判断すれば、官衙的な施設というよりも地元有力者の居館的な様相をもっていることが推測される。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鬼の窟古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
兵瀬古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
壱岐嶋分寺跡 | 社寺跡 | 古代 | 壱岐市 |
[転載]壱岐の歴史 一支国 壱岐にイキましょう
壱岐の歴史
原始・古代
縄文時代
弥生時代
古墳時代
律令制
経緯
日本沿岸での海賊行為頻発
侵攻の主体
日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族
刀伊の入寇までの北東アジア情勢
対馬への襲撃
壱岐への襲撃
筑前国怡土郡への襲撃
藤原理忠
中世・近世
元寇 文永の役 壱岐侵攻
- 元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた[145]。高麗軍の将である朴之亮および金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った[145]。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、後になって元軍に攻撃を仕掛けてきた[145]。これに対して蒙古・漢軍の右副都元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は応戦し、日本兵を1,000余り討ち取ったという[145]。
平景隆
一支国
概要
魏志倭人伝
- また南に瀚海(かんかい)と呼ばれる一つの海を渡り、千余里を行くと一大國に至る。また長官を卑狗(ひく)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。広さは約三百里四方ばかり。竹や木のしげみが多い。三千ばかりの家がある。田畑が少しあり、農耕だけでは食料には足らず、また、南や北に海を渡って穀物を買い入れている。
海東諸国紀
内容
壱岐国の沿革
国内の施設
国府
島分寺・島分尼寺
- 壱岐国分寺跡
- 長崎県壱岐市芦辺町中野郷西触。
神社
[転載]北九州 元寇資料館にはぜひ行きましょう。博多から一駅北の古塚駅から5分 福岡県庁の近く
[転載]沖縄の近世
沖縄の近世
江戸幕府の明通商計画
薩摩の侵攻
王国の再建(羽地朝秀・蔡温らの改革)
中継貿易の衰退
琉球征伐
戦争:琉球征伐 | |
年月日:慶長14年(1609年)3月7日 - 同年4月5日 | |
場所:琉球王国(現・沖縄県、鹿児島県奄美群島) | |
結果:薩摩藩の勝利、琉球の降伏 | |
薩摩藩![]() | 琉球王国![]() |
樺山久高 平田増宗 など | 尚寧王 謝名利山 名護良豊 豊見城盛続 今帰仁朝容 † など |
3,000人 | 10,000(沖縄本島、4,000人) |
100~200人[1] | 不明 |
原因
奄美大島へ
徳之島へ
本島
[転載]港川人&沖縄県立博物館
港川人
沖縄県立博物館・美術館交通・時間・料金
http://www.museums.pref.okinawa.jp/guidance/access_price/image/map2.jpg
1 ご案内
- 主な交通
- 沖縄モノレール・バス・タクシー
- 路線バス
- おもろまち駅前下車(琉球バス、沖縄バス、那覇交通)
- バス
- 那覇空港発 99番線 おもろもまち3丁目バス停下車 徒歩5分
那覇空港発 120番線 上之屋バス停下車 徒歩10分
市内線 3・7・10番線 県立博物館前バス停下車
市内線 6番線 那覇メインプレイス東口バス停下車 徒歩5分
市外線 バイパス経由 おもろまち駅前バス停下車 徒歩10分
おもろまち行 おもろまち1丁目バス停下車 徒歩3分 - 沖縄都市モノレール
- ゆいレール おもろまち駅下車 徒歩10分
- 中北部から
- 空港線及びおもろまち行各社バスで交通広場下車徒歩5分
- 南部から
- バスターミナルから沖縄モノレール乗り換えおもろまち下車徒歩10分
- 空港から
- 沖縄モノレールおもろまち下車徒歩10分
タクシーで、博物館・美術館まで、約30分 - 第1回の江戸上りでは、実際は京都に滞在し、江戸下向はなかった。
- 第1回・第7回・第8回は慶賀使と謝恩使が同時に派遣された(下表参照)。
- 第11回の慶賀使の薩摩藩側の引率者は平田靱負。
常設展(総合展示)
古来より、沖縄の島々は海によってたがいに隔てられると同時に、海によってアジア、太平洋地域と深く結びつけられてきました。島には固有の自然があり、人々の営みがあり、そのひとつひとつが沖縄県の特徴ある自然・歴史・文化を形作っています。島に息づく豊かな自然と、島をとりまく海を媒介とした人々の営みを紹介するとともに、トー(唐:中国)とヤマト(日本)との間で花開いた琉球王朝文化、そして目まぐるしい世替わりを体験してきた沖縄の近代史と戦中、戦後史を射程に入れ、常設展のメインテーマを「海と島に生きる-豊かさ、美しさ、平和を求めて-」としました。
総合展示
また、展示室中央に設けられた「シマの自然とくらし」のコーナーには、鹿児島から台湾まで東西1000キロ、南北400キロの海域に散在する琉球列島の大小の島々を壮観できる大型ジオラマを配置し、島々の特徴ある自然・歴史・文化を情報端末機を用いて紹介しています。また、人工衛星によって撮影された画像を用いて、島々を観察することができます。
プロローグ ニライカナイの彼方から
1 海で結ばれた人々
サークルホールの展示
古我地原貝塚模型
2 貝塚のムラから琉球王国へ
概要
旅程・道中
文化交流
江戸上り18回の詳細
3 王国の繁栄
4 薩摩の琉球支配と王国
5 王国の衰亡
[転載]既ニ本涯ヲ辞ス
仏道修行
入唐求法
虚しく往きて実ちて帰る
明星院 (五島市)
![]() | |
五島市吉田町1905番地 | |
![]() 東経128度49分19.5秒座標: ![]() | |
真言宗 | |
高野山真言宗 | |
虚空蔵菩薩 | |
明星院 | |
五島八十八カ所霊場第一番札所 | |
銅造如来立像 本堂 木造阿弥陀如来立像 | |
歴史
寺院
また、かつては拝観料がかかっていたが、現住職になられてから(2010年10月現在)拝観料は無料になっている。
五島市三井楽(みいらく)
江戸時代に入ると、五島は捕鯨で栄えますが、この柏地区にも捕鯨の一団が移住してきて、冬場だけを猟期として活躍したそうです。当時は、「鯨一頭捕れれば七浦潤う」といわれ、五島藩財政にとっても重要な資源でした。しかし、鯨の減少により幕末にはほとんどの鯨組が解散しました。
- 『性霊集』は真済と空海の共同編集であるとの見地から、高雄山で真済が空海から密教の奥義を授けられた(その記録が『高雄口訣』といわれる)と伝えられる期間に編纂されたとするもの。
- 序文に「西山禅念沙門真済撰」とあることから、真済が高雄山=西山に住した天長9年以降[5]とし、「執事年深くして、未だその浅きを見ず」とあることから、現に真済が空海に師事していた間、すなわち空海存命中とするもの。
- 承和2年3月(835年4月)の空海入滅直後[6]
- 序文に「謂ゆる第八の折負たる者は吾が師これなり」とあり、空海を密教の第八祖としていること、「大遍照金剛」と空海を尊称していることから、空海没後とするもの。
034 既ニ本涯ヲ辞ス
船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きるのである。
列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。
この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つのである。
風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのである。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。
やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。
久賀島の田ノ浦を出帆したということについては『性霊集』では、
「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。(司馬遼太郎『空海の風景』)
[転載]遣唐使を五島列島福江島の道の駅で感じる
遣唐使
遣唐使の目的
- 貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)
- 太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)
回数
- 12回説:藤家禮之助
- 20回説:東野治之、王勇
1 | 舒明2年 (630年) | 舒明4年 (632年) | 犬上御田鍬(大使)・薬師恵日 | 唐使高表仁来日、僧旻帰国 | ||
2 | 白雉4年 (653年) | 白雉5年 (654年) | 吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使) | 道昭・定恵 | 2 | 第2船が往途で遭難 |
3 | 白雉5年 (654年) | 斉明元年 (655年) | 高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) | 2 | 高向玄理は帰国せず唐で没 | |
4 | 斉明5年 (659年) | 斉明7年 (661年) | 坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使) | 伊吉博徳 | 2 | 第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される |
5 | 天智4年 (665年) | 天智6年 (667年) | (送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 | 唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日 | ||
(6) | 天智6年 (667年) | 天智7年 (668年) | (送唐客使)伊吉博徳 | 唐使法聡を送る。唐には行かず? | ||
7 | 天智8年 (669年) | 不明 | 河内鯨(大使) | 第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか | ||
8 | 大宝2年 (702年) | 慶雲元年 (704年) | 粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使) | 山上憶良・道慈 | 4 | |
9 | 養老元年 (717年) | 養老2年 (718年) | 多治比縣守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使) | 阿倍仲麻呂・吉備真備・玄・井真成 | 4 | 残留した留学生を除き、使節は全員帰還。 |
10 | 天平5年 (733年) | 天平6年 (734年) | 多治比広成(大使)・中臣名代(副使) | 平群広成・大伴古麻呂 | 4 | 帰路、第1船の多治比広成は種子島に帰着(吉備真備・玄)。第2船の名代は唐に戻され、翌天平7年(735年)に帰国。第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず |
(11) | 天平18年 (746年) | - | 石上乙麻呂(大使) | - | 停止 | |
12 | 天平勝宝4年 (752年) | 天平勝宝6年 (754年) | 藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) | 4 | 鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず | |
13 | 天平宝字3年 (759年) | 天平宝字5年 (761年) | (迎入唐大使使)高元度・(判官)内蔵全成 | 1 | 藤原清河を迎えるために派遣され、渤海路より入唐も安史の乱のため清河の渡航を止められ、目的果たせず。内蔵全成は渤海路より帰国。高元度は唐からの送使沈惟岳と共に761年に大宰府に帰国。 | |
(14) | 天平宝字5年 (761年) | - | 仲石伴(大使)・石上宅嗣(副使)・藤原田麻呂(副使) | 船破損のため停止 | ||
(15) | 天平宝字6年 (762年) | - | (送唐客使)中臣鷹主・(副使)高麗広山 | 唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止。その後、沈惟岳は日本に帰化し、姓と官位が与えられた。 | ||
16 | 宝亀8年 (777年) | 宝亀9年 (778年) | 小野石根(持節副使)・大神末足(副使) /佐伯今毛人(大使)・大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使) | 4 | 大使佐伯今毛人、病と称し行かず。大伴・藤原両副使は更迭。第1船、帰途で遭難し副使小野石根、唐使趙宝英死亡。大伴継人と藤原清河の娘の藤原喜娘は漂流の後、来日。 | |
17 | 宝亀10年 (779年) | 天応元年 (781年) | (送唐客使)布施清直 | 多治比広成 | 2 | 唐使孫興進を送る |
18 | 延暦23年 (804年) | 大同元年 (806年)10月 | 藤原葛野麿(大使)・石川道益(副使) | 最澄・空海・橘逸勢・霊仙 | 4 | 石川道益、唐で没。往途、第3船、肥前松浦郡で遭難 |
19 | 承和5年 (838年) | 承和6年 (839年) | 藤原常嗣(大使) /小野篁(副使) | 円仁・藤原貞敏・長岑高名 | 4 | 承和3年・承和4年とも渡航失敗。その後小野篁、病と称し行かず流罪。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船、南海の地に漂着。知乗船事菅原梶成、大隅に帰着 |
(20) | 寛平6年 (894年) | - | 菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使) | 停止。ただし大使の任は解かれず。 |
- 次数は20回説を採用。
- ()は入唐しなかった遣唐使。
- 送使・迎使など正式な朝貢の使いでない役職は人名の前に付した。
歴史
航路と遣唐使船
- 北路
- 南路
- 南島路
遣唐使の行程
[転載]大阪~門司~博多~五島列島(福江)~長崎~門司~大阪
全国統一訴訟は国を相手にしていたが、福岡訴訟団は時間節約を目的として国を外しカネカ・カネミ倉庫を相手とした。
和解終結後の認定患者に対してはカネミ倉庫は訴訟患者の和解条件と同様の取り扱いをしているが、医療費自己負担分の支払い、一律23万円の一時金、死亡時3万円の葬祭料の支払い。
18:30 阪九夜行フェリー 出港 船中泊 7400+1000+1000
2日目
6:00 新門司港着 6:30 JR門司駅着
博多港へバスをご利用のお客様
- ●JR博多駅前よりバスで15分 博多ふ頭行き「博多埠頭」下車
- ●西鉄福岡駅前よりバスで12分 博多埠頭行き「博多埠頭」下車
23:45博多港 太古フェリー発
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ながい長い時を重ねて太古は再び生まれ変わりました。新しい太古の見どころや特徴をしっかりご紹介!
造船の過程や一新した内装など、美しく生まれ変わった新太古をぜひご覧ください。
- http://www.nomo.co.jp/wp-content/themes/taiko/images/info_intro_ph01.jpg http://www.nomo.co.jp/wp-content/themes/taiko/images/info_intro_ph02.jpg
- http://www.nomo.co.jp/wp-content/themes/taiko/images/info_intro_ph03.jpg
今までとはここが違う!8大ポイント
太古は博多から五島を結ぶ定期フェリーです。
中国は北栄時代の詩人『唐庚』による漢詩の一節「静如太古(しずかなることたいこのごとし)」より、
悠久の時を湛える海の静謐と、航海の無事への祈りをこめて名づけられました。
博多-五島航路発着時刻表
港名 博多 宇久 小値賀 青方 奈留 福江 下り便23:45発 | 3:55着 4:05発 | 4:40着 4:50発 | 5:40着 6:05発 | 7:25着 7:35発 | 8:15着 |
航海ルート
三日目
8:15 五島列島 福江港 着
五島観光歴史資料館など
カネミ油症研究 市役所
石田城五島氏庭園
石田城(福江城)跡
五社神社
五島観光歴史資料館
http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【五島のあけぼの】 http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/62_1.jpg |
[五島の遺跡] |
http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/61_2_1.jpg |
[ドングリピット] |
http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【遣唐使と倭寇】 |
[遣唐使] 西暦607年(推古15年)摂政であった聖徳太子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無き也」の有名な国書を隋に送り、修交を求めました。遣隋使の始まりです。 しかし、遣隋使の派遣は4回に止まり、その後の唐に、630年(舒明2年)遣唐使を派遣するようになりました。 18回計画され、そのなかで五島に立ち寄ったのは第14、15、16、17回の4回です。804年(延暦23年)第16次遣唐使船には、最澄、空海も乗船しており五島各地に足跡を残しています。 |
http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【五島の仏教文化】 |
[仏教文化] 西暦538年に日本に仏教が伝来してから160年余り後、五島の寺院として大宝寺が中国僧「道融」によって701年(大宝元年)に開創されました。 以来、仏教の広まりとともに五島各地に寺院が建立され、現在五島には50ヵ寺あります。 宗教活動の展開にともない、建造物、仏教、仏画など多くの仏教美術品がみられるようになりました。特に、真言密教関連の作品はもっとも多いうえ、五島の仏教美術の質の高さを物語っています。 |
http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【五島藩の形成】 |
[旧五島藩主「五島家」] 五島家の始祖は、源平の乱を避けて五島列島北端の宇久島にきて領主となった家盛公と伝えられています。 第4代進公の時には、五島全島を平定し、第20代純玄公が朝鮮出兵の時に宇久姓を五島姓に改めます。 内乱、朝鮮の役、密貿易、キリスト教伝来、福江城築城、異国船警備と波乱に満ちた五島藩の治世も、明治維新によって藩政奉還になり第31代盛徳公で終わりを告げます。 その後、第32代盛主公は子爵を授けられます。現在は、第35代五島典昭氏によって「五島家」は継承されます。 |
http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【五島藩富江領】 http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/62_13.jpg |
[富江領] 西暦1661年(寛文元年)、当時の五島藩主24第盛勝の叔父(23代盛次の弟)五島盛清が初代領主となり20ヵ村、禄高3千高をもって分藩し、旗本領として独立しました。 富江領主使用の衣服や扇子、盃など領主ゆかりの物が旧富江町に寄贈され保存されています。 |
http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【伊能忠敬】 http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/62_5.jpg |
[伊能忠敬の五島測量の足跡] 1813年(文化10年)5月3日に宇久島に着いてから8月2日に福江島を離れるまで五島列島を測量しています。その測量中であった7月15日に伊能忠敬の高弟であった坂部貞兵衛が福江で病死しています。資料館には坂部が伊能忠敬に宛てた最後の書簡が展示されています。 |
http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【キリシタン信仰】 |
[キリシタン文化] 西暦1566年(永禄9年)アルメイダとロレンソによって五島でのキリスト教布教が始まり、五島家第19代領主純堯公の洗礼(1571年)で五島キリシタンの全盛期を迎えましたが、徳川幕府のきびしい弾圧で途絶えました。 1797年(寛政9年)大村藩領外海地方から公式移住してきた農民が「潜伏キリシタン」、「カクレキリシタン」となり、1873年(明治6年)信教の自由がゆるされるまで守り継がれました。 |
[カトリック教会分布図] 江戸時代のきびしい弾圧や迫害にも耐えながら、先祖の信仰を守り続けた「カクレキリシタン」の人々や、信教の自由が許されると1873年、多くの人々はカトリック教に戻りました。 そして、苦しい生活の中で力を合わせて教会の建設に着手し、10年後には9教会を建て、次々と五島各地に建築していき、中には建築史上貴重な教会も数多くあります。 |
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白浜貝塚
常灯鼻
日本古代牛骨碑
福江武家屋敷通りふるさと館
明人堂
六角井(戸)
海の民宿 あびる宿泊
四日目
富江町・山崎の石塁石田城五島氏庭園 巌立神社社叢 浦頭教会聖教木版画(筆彩三幅) 江上天主堂 江袋教会
オーモンデー 黄島溶岩トンネル 大曾教会 鬼岳火山涙産地
頭ヶ島天主堂 岐宿町タヌキアヤメ群落 旧五輪教会堂 五島青方のウバメガシ
五島神楽
このように、ぐるぐるとめぐるような所作は古風で芸能の変遷の過程を示し、狭く限定された場所で舞うことで地域的特色を示すものである。(平成14年1月18日に国選択。)
五島樫の浦のアコウ 五島市久賀島の文化的景観
五島玉之浦のアコウ
嵯峨島火山海食崖 島山島のヘゴ自生地
下五島大宝郷の砂打ち、大宝郷の砂打ち
白鳥神社社叢 白浜貝塚 新魚目曽根火山赤ダキ断崖
新上五島町北魚目の文化的景観 新上五島町崎浦の五島石集落景観
丹奈のヘゴ,リュウビンタイ混交群落
大宝寺の梵鐘(一口)
男女群島 チャンココ 富江町・山崎の石塁 富江溶岩トンネル「井坑」
頓泊のカラタチ群落 堂崎教会 銅造如来立像(極楽寺) 銅造如来立像(明星院)
七岳のリュウビンタイ群落
日島の石塔群
大きな地図で見る
福江椎木山の漣痕
福江の大ツバキ
船廻神社社叢
へご自生北限地帯
へご自生北限地帯
明星院の木造阿弥陀如来立像
明星院本堂
寄神貝塚
漣痕
六角井
http://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php?mode=search&word=%E4%BA%94%E5%B3%B6&target=tag
福江島観光
五日目
http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/midashi_outline.gif
概要
http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/image_outline.jpg被害の発覚
人類初のダイオキシン類による食中毒被害
患者の症状
これまで多くの被害者たちが、がんなどを発症し、死亡している。ダイオキシン類は体内での残留性が高いことでも知られており、患者たちの症状は44年がたった今も続いているのが現状である。
次世代被害
差別と偏見
未認定問題と認定基準
裁判と仮払金問題
2008年には87年の裁判終了後に新たに認定された新認定患者がカネミ倉庫を相手取り損害賠償請求訴訟をおこし、現在も裁判は続いている。
取り残されていた患者救済(~2013年3月)
政権交代で芽生えた救済の機運
被害者救済法の成立
医療費の公的支給ならず・・・ カネミ油症被害者救済法
残された次世代被害
http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/midashi_archives.gif
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/mvimg/120824_kanemi_01.jpg
- 2012年8月24日放送
- 「待ち続けた44年・・・国の救済 患者達の思い」
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/btn_movie.gif
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/mvimg/101019_newspia_02.jpg
- 2010年10月19日放送 KBCニュースピアより
- 「生きているうちに救済を」再び始動
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/btn_movie.gif
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/mvimg/20100530_kanemi_01.jpg
- 2010年5月30日放送
- ドキュメンタリー
「救済のとき~カネミ油症42年 被害者たちの闘いの軌跡~」
より抜粋 - 「地方の時代」映像祭2010 入選
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/btn_movie.gif
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/mvimg/100407_kanemi_01.jpg
- 2010年4月7日放送 KBCニュースピアより
- 「救済法を」残された命捧ぐ
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/btn_movie.gif
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/mvimg/100416_kanemi_01.jpg
- 2010年4月6日放送 KBCニュースピアより
- 子や孫に継がれる“猛毒”
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/btn_movie.gif
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/mvimg/090516_kanemi_01.jpg
- 2009年5月16日放送
- ドキュメンタリー
「背負いし十字架~カネミ油症事件 40年目の証言~」 - 2010年度 プログレス賞 最優秀賞受賞
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/btn_movie.gif
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/mvimg/090312_kanemi_01.jpg
- 2009年3月12日放送 KBCニュースピアより
- 遠い未認定患者の救済
- ANN映像大賞 ニュース部門賞受賞
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/btn_movie.gif
- http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/mvimg/20040213_kanemi_01.jpg
- 2004年2月13日放送
- テレメンタリー2004
「もうひとつの油症事件~台湾で起きた悲劇~」
[転載]元寇750年イベントにご意見募集(転載歓迎)
[転載]渤海使の来航と若狭・越前国の対応 十世紀の事例
第五節 奈良・平安初期の対外交流
二 渤海使の来航と若狭・越前国の対応
十世紀の事例
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/1-s075.jpg
写真75 「扶桑集」
参考3 延長八年(九三〇) 前年の延長七年の十二月二十三日、丹後国竹野郡大津浜に東丹国使裴http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m21202.GIFら九三人が来航する(『扶桑略記』裏書 延長八年正月三日条)。