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[転載]民族の英雄に祈り 北海道・新ひだかでシャクシャインの法要祭(2013/09/23)

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2013/09/25 に公開
アイヌ民族の英雄シャクシャインをしのぶ「第67回シャクシャイン法要祭」が23日、新ひだか町内の真歌公園で開かれ、北海道各地のアイヌ民族関係者ら約千人が、祈りをささげた。 同公園内のシャクシャイン像前で行われた伝統儀式「カムイノミ」(神への祈り)には、鳩山由紀夫元首相や新党大地の鈴木宗男代表、同協会の加藤忠理事長らが出席し、祭壇に酒をささげた。大川支部長は「これまでもアイヌはこの地で結束し、シャクシャインエカシ(長老)の力を借りてきた」と述べた。(9月24日朝刊 苫小牧日高版に掲載)





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シャクシャインの戦い(シャクシャインのたたかい)は、1669年6月にシブチャリ(現北海道日高振興局新ひだか町静内地区)の首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。日本元号で「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)とも呼ばれる。


当時の状況

アイヌ民族集団間の対立

シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイ(現在の胆振総合振興局白老町)にかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた。両集団の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる1648年の戦いまで遡ることが出来る。

15世紀頃から交易や和人大和民族)あるいはアイヌ同士の抗争などによって地域が文化的・政治的に統合され、17世紀には、河川を中心とした複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合し、和人から惣大将と呼ばれる有力首長が現れていた。シャクシャインや、『津軽一統志』に現れるイシカリの首長ハウカセ、ヨイチの八郎右衛門やシリフカのカンニシコルなどがこれに相当する。

メナシクルの首長であるカモクタインやシュムクルの首長でありハエ(後の日高国沙流郡、現在の日高町門別地区)に拠点を持つオニビシもまた惣大将である。シャクシャインはメナシクルの副首長であったが、カモクタインは1653年にシュムクルによって殺害されたために首長となった。

惣大将間の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗り出し1655年に両集団は一旦講和する。この際シュムクルと松前藩は接近しシュムクルは親松前藩的な立場となる。しかし1665年頃から対立が再燃、1668年5月31日(寛文9年4月21日) にはメナシクルによってオニビシは殺害される。

松前藩による交易独占

アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などを北方産物である獣皮・鮭・鷹羽・昆布などと交易していた。

しかし17世紀以降、幕藩体制が成立すると幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなった。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し和人との自由な交易が阻害されることとなった。 これは松前家の事跡を記した『新羅之記録』より、まだ蠣崎姓の時代に、秀吉から、蠣崎に交易の独占を保証する朱印が与えられていることが分かる。徳川時代では、徳川家の歴史を記した『徳川実紀』より、家康から黒印状を与えられ、独占権をより強固なものとする。

幕府権力を背景にした松前藩では17世紀後半には対アイヌ交易は松前城下などでの交易から商場知行制に基づく交易体制へと移行した。これは松前藩が蝦夷地各地に知行主(松前藩主や藩主一族及び上級藩士など)と彼らの知行地である商場を設定して知行主には直接商場に出向きそこに居住するアイヌ民族との交易権を与える交易体制であった。

その商場に居住するアイヌ民族にとっては和人との交易が特定の知行主に限定される不自由な交易体制であった。この体制により交易レートは次第にアイヌ民族に不利なものとなっていった。このレートはシャクシャインの戦い前夜の1665年には松前藩の財政難から一方的に従来の米2斗(1俵=30kg)=干鮭100本から米7升(1俵=10.5kg)=干鮭100本と変更されアイヌ民族にとって極めて不利なものとなった。 このレートの上昇だが、全国的な飢饉が発生しており、まさに寛文年間がピークだった。蜂起が起こる二年前(寛文七年)、松前藩は米三千俵の拝借を言上している。

また和人からアイヌ民族に交易を一方的に強要する「押買」の横行や、大名の鷹狩用の鷹を捕獲する鷹待や砂金掘りの山師が蝦夷地内陸部を切り開く行為、松前藩船の大網による鮭の大量捕獲がアイヌ民族の生業基盤を脅かし和人への不満が大きくなった。 もしアイヌが交易に応じなかった場合、「子供を質に取る」と脅していたことが、『津軽一統志』など、津軽藩士が聴き取り調査をしたところ、証言を得ている。

発端

シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは松前藩庁に武器の提供を希望したが藩側に拒否されたうえ、サル(現日高振興局沙流郡)の首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせを、アイヌ人は「松前藩による毒殺」と流布した。

この誤報によりアイヌ民族は松前藩、ひいては和人に対する敵対感情を一層強めた。シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族へ松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応した。この背景には、本州に成立した徳川政権から松前氏にアイヌ交易の独占権が与えられ、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったことがあげられる。
 対アイヌ交易を独占したことにより松前藩によって和人側に有利な交易レートが一方的に設定され、アイヌ側は和人製品を得るためにより多くの干鮭、熊皮、鷹羽などの確保が必要となった。これが惣大将同士による天然資源の独占競争をもたらし、シャクシャインとオニビシの抗争の原因の一つともなった。また、不利なレートを嫌い、交易を拒否するアイヌに対し、和人が無理やり交易を強要する押買が横行しするなど、アイヌには和人への不満が広がっていた。 こうして事態は惣大将や地域集団同士の争いから多数のアイヌ民族集団による対松前藩蜂起へと移行した。

1669年6月21日寛文9年6月4日) 、シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した。突然の蜂起に和人は対応できず東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された。

松前藩の反撃

一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いてクンヌイ(現長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ弘前津軽氏・盛岡南部氏・秋田(久保田)佐竹氏の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、松前藩主松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。弘前藩兵700は藩主一門の杉山吉成石田三成の嫡孫)を大将に松前城下での警備にあたった。

シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍と戦闘を行った。戦闘は8月上旬頃まで続いたがシャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し松前軍は鉄砲を主体としていたことや、内浦湾一帯のアイヌ民族集団と分断され協力が得られなかったことからシャクシャイン軍に不利となった。

このためシャクシャインは後退し松前藩との長期抗戦に備えた。9月5日8月10日)には松前泰広が松前に到着、同月16日8月21日)にクンヌイの部隊と合流し28日9月4日)には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍した。さらに松前泰広は松前藩と関係の深い親松前的なアイヌの集落に対して、幕府権力を背景に恫喝して恭順させアイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化を進めた。

シャクシャイン軍の敗北

シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は謀略をめぐらしシャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは結局この和睦に応じ11月16日10月23日)、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。この他アツマ(現勇払郡厚真町)やサル(現沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛された。翌17日24日)にはシャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。

指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。翌1670年には松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は1672年まで続いた。

影響

このシャクシャインの戦いを経て、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。その後、松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた(『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』)。これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された。その一方でアイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートをいくぶん緩和するなど、融和策も行われた。

また『津軽一統志』にみられる惣大将というアイヌ有力首長によって統一されていた広大な地域は商場知行制や場所請負制が発展・強化されることによって場所ごとに分割されることとなり、「下人狄千人程」をもつ石狩の惣大将ハウカセの「松前殿は松前殿、我等は石狩の大将」と言う発言に象徴される強い自立性をもつアイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていった。

ヨイチなど地域によっては自分稼ぎと呼ばれるアイヌ民族主体の自主的な漁業も何とか維持されたが、松前藩による場所請負制の貫徹はアイヌ民族を次第に交易相手から場所での強制労働者へと転落させる。蝦夷地東部では和人商人による大規模な漁場開発に伴う強制労働者化による窮状がのちのクナシリ・メナシの戦いの原因となった。松浦武四郎の『知床日誌』には「女は最早十六七にもなり、夫を持べき時に至ればクナシリ島へ遣られ、諸国より入来る漁者、船方の為に身を自由に取扱はれ、男子は娶る比に成らば遣られて昼夜の別なく責遣はれ、其年盛を百里外の離島にて過す事故、終に生涯無妻にて暮す者多く」と記されている。

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転載元: 北海道にまた行きたいな


[転載]鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう、1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1953年(昭和28年)1月14日)は、日本の人類学者(『ある老学徒の手記』)、考古学者、民族学者、民俗学者。

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鳥居龍蔵 - Wikipedia

鳥居龍蔵

   
鳥居龍蔵(1952年)

鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう、1870年5月4日明治3年4月4日) - 1953年昭和28年)1月14日)は、日本の人類学者(『ある老学徒の手記』)、考古学者、民族学者、民俗学者。

人物

鳥居龍蔵生誕地記念碑
1870年、現在の徳島県徳島市東船場町で、煙草問屋の次男として生まれる。実家は裕福で、周囲から「旦那衆」と呼ばれていた[1]

1876年明治9年)、小学校に入学。学校ぎらいで入学当初は逃げ回ってばかりだったという。鳥居は自身の教育観として、学校は単に立身出世の場であり、裕福な家庭に生まれた自分に学校は必要ない。むしろ家庭で自習する方が勝っていたと語っている[1]

晩年の自伝「ある老学徒の手記」には「尋常小学校を中途で退学」と記されていたため、多くの資料でも同様の記載がなされていたが、のちに徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の所蔵資料から新町小学校尋常小学下等科の卒業証書が発見されており記憶に錯誤があったものとみられている[2]。また、上智大学文学部長だった1931年の日付が入った鳥居の履歴書も発見されており「尋常小学は寺町(現新町)小学校ニテ学修、高等は中途ニテ退学」と記載押印されている[2]

中学校の教師の教えを受けながら[1]、独学で人類学を学ぶ。『人類学雑誌』の購読者となったことが縁で東京帝国大学の人類学教室と関係を持ち[1]1894年(明治27年)には標本整理係として坪井正五郎の人類学教室に入り、12月に同門の伊能嘉矩と週1回行われる人類学講習会を催す。東京遊学を言い出した鳥居に両親はしぶしぶ賛成するが、結局煙草屋は廃業し、両親とともに上京して貧乏生活を送ることとなった[1]

1895年(明治28年)の遼東半島の調査を皮切りに、台湾中国西南部・シベリア千島列島沖縄など東アジア各地を調査した。中でも満州蒙古の調査は、鳥居と彼の家族のライフワークとも言え、たびたび家族を同伴して訪れている。妻のきみ子は現地で鳥居の助手を務めた。


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フィールドワーク

鳥居龍蔵のフイールド・ワークというと、海外での研究が著名だが、実際にはほとんどが日本国内各地での活動である。十代から、鳥居は徳島をはじめ、四国各地、後、東京帝大在職中も、日本各地のフイールド・ワークを行い、その度に展示会・講演会を開催、人類学・考古学の普及に努めた[3]

「(鳥居龍蔵の)アジアの大陸を歩いた旅程は、恐らく幾万キロに及んだであろう」と言われる[4]。「現在のような飛行機の便はなく、船・車・馬を利用し、又徒歩であった。しかも丹念に学問的観察をなし、その成果を発表した」「彼の足跡は当時、台湾・朝鮮・シベリア・蒙古・満州・シナ西南部・樺太等の各地に及んだ」[5]

鳥居は25歳から67歳に至るまで、幾度となく東アジアを中心に調査を行った。それは鳥居の学んだ人類学の手法、特に師と仰いだ坪井正五郎の観察を中心とした手法を採用したためであった。以下にその様子を年を追って記す。

1895年(明治28年)、鳥居が遼東半島へ調査に行くチャンスを得たのは、まったくの偶然だった。東京理科大学の地質学の教員・神保小虎アイヌの知人を助手として遼東半島へ地質学調査に赴く予定だったが、事情によりその知人が同地に行けなくなった。そのため、代理として鳥居が遼東半島に行くこととなったのである。この遼東半島での調査で、鳥居は析木城付近にドルメンを発見した。この発見は、まさに鳥居が海外調査を精力的に行うにいたる契機となった。

1896年(明治29年)、東京帝国大学は日清戦争によって日本が得た新たな植民地・台湾の調査を依頼された。その際、人類学調査担当として派遣されたのが鳥居であった。鳥居は台湾での調査の際、はじめて写真撮影の手法を導入した。また、特に台湾東部の孤島・蘭嶼に住む原住民族・タオ族について念入りな観察を行っている。

身体形態の測定、これは、世界の人類学とは、理系の地質学・医学などなどを基礎とする「形態人類学」であり、地層分析から人骨測量など客観的データをもって、研究を進める学問的方法であり、そのため、フイールド・ワークにより、発掘した「証拠物」を理学的に検証し、始めて仮説を立てる、という非常に実証的研究方式で、だから鳥居は常に現場にいたのである。

もちろん表面的「観察」も重要視するが、実証できないことにつき、鳥居は根拠にしない。明治の人類学は、理系に基づく欧米流人類学であり、人類学者は自然科学者である(鳥居龍蔵『日本の人類学』他)。生活に関する詳細な記録も残しており、その観察眼は大変細やかであったとされる[要出典][6]

しかし、一方でタオ族の文化的特徴である漁業のタブーなどを、鳥居は一切報告しておらず、観察できない宗教的現象などを調査することは苦手であった。写真撮影の手法の導入やスケッチ・大量の文章などを残すことになった素地には「観察重視」の態度があったと考えられている。

1899年(明治32年)、台湾調査の合間に、坪井正五郎の命を受けて千島列島北部とカムチャッカ半島へのフィールドワークに向かう。この北千島への調査によって、千島アイヌが最近まで土器や石器を使用し、竪穴式住居に住んでいたことを発見し、鳥居はコロポックル論争にひとつの決着をつけることになる。アイヌ民話に登場する小人・コロポックルは伝説であり、それはアイヌ民族を起源としたものにほかならないということを調査によって実証したのである。

これは結果的に師である坪井正五郎の説を覆すことになる。なお、坪井は自説を実証させるために弟子を派遣したが、裏切られるような結論になったことについても受け入れたとされる。この北千島の調査結果は、1901年(明治34年)東京地学会の例会で発表され、1903年(明治36年)に『千島アイヌ』と題して刊行された。本書はフランス語で発表されたもので、欧米のアイヌ研究者の必修本と位置づけられている(『鳥居龍蔵研究』第1号)。

1902年(明治35年)、鳥居は台湾への調査の成果をいかし、中国西南地域へと向かう。台湾の「蕃族(鳥居による表現。中国古典における表現のままである)」(『中国古典』多数あり)と中国西南のミャオ族が人類学上密接な関係をもっているのではないかとの学術的要請のためである。これは鳥居にとって初の自らの学術的要請による調査であった。1902年7月から1903年3月にかけて、9か月にわたって主として貴州省ミャオ族雲南省イ族の調査を行い、西南中国と台湾と日本の共通性を探る試みを行った。しかし、「ある人々に妨止せられて」[7]中国西南部へは二度目の調査を行うことはなかった。

1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけても鳥居は満蒙調査を行っている。
1911年(明治44年)からは朝鮮半島の調査に入る。韓国併合後、朝鮮総督府は教科書編纂のために資料収集の必要に迫られた。そこで、「体質人類学・民俗学・考古学それぞれの方面にわたる調査」を鳥居に依嘱したのである。鳥居は人類学のみならず石器・古墳も積極的に調査した。その際には考古学者関野貞との説の違いも生じ、対立を生んでいる。後軍国傾向が強まる情勢の中、学問的真実にこだわる鳥居が、徐々にはずされて行った経緯がある(『鳥居龍蔵研究』第1号)。

1916年大正5年)論文「古代の日本民族」で、アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族を挙げている。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきたと考えた。日本人混血民族説(『鳥居龍蔵研究』第1号)を掲げた[8]
1919年(大正8年)、鳥居は調査の目をシベリアへ向け、アムール川流域を中心に詳細な先住民族調査を行っている。

1928年(昭和3年)、多忙な調査の合間、鳥居は当時ドイツ系専門学校の上智につき、自ら文部省にかけあい、大学に昇格させた。実質創立者の一人と言えよう。(『鳥居龍蔵研究』第1号)。

1931年昭和6年)、鳥居は第6回目の満州調査に出かける。1931年(昭和6年)9月満州事変が勃発、満州は政情不安定な状態になっていた。そんな中でも鳥居は城郭・墳墓類を綿密に調査している。

1937年(昭和12年)、外務省の文化使節として南米へ派遣。67歳と高齢にもかかわらず鳥居は精力的な調査を進め、インカ帝国の興亡についても積極的に発言している。鳥居は人類学教室の助手だった時代から南米に触れる機会が多かったにもかかわらず、「日本に関係がない」との先輩の発言などもあり、調査を怠っていたと理解していたようである。

1939年(昭和14年)に鳥居はアメリカ・ハーバード燕京研究所の招聘を受け、その研究者として、「客座教授」(中文)名義で、中国北京にあるハーバード大学の姉妹校である、燕京大学に赴任(『鳥居龍蔵の生涯』鳥居記念館・徳島)。このあとも引き続き、山東省でのフィールドワークを続けていた。旺盛な学究意識は途絶えることなく、第二次世界大戦後にいたるまで、ながく研究をつづけることとなった。

第二次世界大戦終結後、日本に帰還する。留守宅は空襲を受け、書庫と貴重な蔵書こそすべて無事だったものの、母屋は焼失していた。そのため、帰国後の生活は困窮をきわめた。吉田総理大臣がその邸宅を一部かしたくらいだった(『朝日新聞』[いつ?])。その様子が新聞に取り上げられ、励ましの金品が贈られてくるほどであった[要出典]

鳥居龍蔵の、その雄大なフイールド・ワークの業績とは、「未開拓の大陸の考古学や人類学・民族学の方面に、自ら足を踏み入れ、自らその閉ざされていた扉を開いたことであろう」[9]



www.torii-museum.tokushima-ec.ed.jp/ - キャッシュ
鳥居龍蔵は、徳島が生んだ世界的な学者です。彼は、人類学、民族学、考古学など 多様な手法を駆使し、当時世界最先端の業績をあげましたが、その礎は、地元の歴史 や文化についてフィールドワークをもとに研究し、その成果を世に問いかけた少年時代の  ...
www.torii-museum.tokushima-ec.ed.jp/denki.htm - キャッシュ
鳥居龍蔵(1870~1953)は、明治から昭和にかけて活躍した人類学・考古学・民族学の 研究者です。1870年(明治3)4月4日、徳島市東船場に生まれました。小学校を中退し、 独学で人類学を学び、1890年には東京へ遊学、2年後の1892年には一家を挙げて ...






鳥居龍蔵の千島調査
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。


中川 裕



鳥居龍蔵が千島アイヌの調査を行ったのは、1899年(明治32年)のことである。一般に千島アイヌと呼ばれるのは、千島列島でもウルップ島以北の、いわゆる北千島に住むアイヌ人を指すが、当時すでに彼らは1884年(明治17年)の千島・樺太交換条約のあおりを受けて、色丹島に強制移住させられており、その人数も移住当時の97人から62人にまで減っていて、まさに消滅の危機に瀕していた。

1899年5月、鳥居は千島列島最北端の島であるシュムシュ島で発見された竪穴式住居と、そこに残された遺物を調査するため東京帝国大学人類学教室から派遣され、千島列島視察の任に赴く戦艦武蔵に便乗。同月6日函館を出航した。17日色丹島到着。そこで千島アイヌ人の通訳グレゴリー氏を雇い入れ、20日色丹島を発って、エトロフ、ウルップ、ブノレトン(マカンルル)、シムシル、ポロモシリの各島を歴訪、25日にシュムシュ島に到着。

そこで5日間ほど竪穴式住居と遺物の調査を行い、それが千島アイヌのものであることを確認。そして、6月5日に再び色丹島を訪れ、以後そこに24日間滞在して、彼らの形質、言語、民俗などを調査した。

 この報告は、1903年(明治36年)刊行の『千島アイヌ』にまとめられたが、予定されていた二巻のうち、研究史、地名、人名、人口、言語、考古学の一都を収めた前編しか刊行されず、民俗に関する部分などを報告するはずだった後編は刊行されずじまいだった。

その部分を含めた調査報告は、1919年(大正8年)に東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編として公刊された、"Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Aïnou des Iles Kouriles."にまとめられたが、これはフランス語で書かれており、そのために国内ではあまり利用されてこなかった[同論文は、1976年(昭和51年)になって『鳥居龍蔵全集』第5巻に「考古学民族学研究・千島アイヌ」として邦訳収録された]。

 しかしこの調査記録は、それ以前のクラシェニンニコフ、シュテラー、ディボフスキ、ミルン、スノウなどの報告を踏まえた上で、さらに細かいところまでに観察の及んだものであり、以後本格的な調査が行われないままに千島アイヌの人々の風俗習慣そのものがまったく消滅してしまった今日、アイヌ研究にとって必須の文献であり、その価値が減じられることは永久にないだろう。

鳥居の調査報告が当時直接的に影響を与えたのは、1887年(明治20年)頃から盛んになった、有名なコロポックル論争であろう。コロポックル論争というのは、北海道の先住民(さらには日本全土の先住民)がアイヌ人の先祖であるか、それともコロポックルというアイヌの伝説中に現れる民族であるかという論争であり、彼の師である坪井正五郎博士はこのコロポックル説の先鋒であったが、彼の調査ははからずもそれを否定する結果となった。

アイヌ説をとる小金井良精博士らがそれに意を得て、坪井と激しく論戦を交わしたことが記録に残っている。

一方、言語学の分野では、1903年(明治36年)の『千島アイヌ』で公表されたアイヌ語千島方言の語彙集がおおいに利用された。千島方言の語彙記録は1755年に公刊されたクラシェニンニコフのものが最初であり、その後シュチラー、ディボフスキなどによって発表されている。

とくにディボフスキのものは、千島方言の語彙集としては現在にいたるまで最大のものであり、『千島アイヌ』の三倍の分量があるのだが、同書がポーランド語で書かれている上、一般の手には入りにくい本であったため、村山七郎氏が『北千島アイヌ語』(1971吉川弘文館)で同書の解説を行うまで、ほとんど利用されてこなかった。そこで、国内では『千島アイヌ』の語彙集を、アイヌ語千島方言の例として引用するのが一般的であった。たとえば、1964年(昭和39年)に刊行された服部四郎編『アイヌ語方言辞典』(岩波書店)は、北海道から樺太にかけての9つの方言を現地調査して、それを一覧表にしたものだが、千島方言については当時すでに調査は不可能の状態であったので、『千島アイヌ』の語彙をそのまま引用して他の方言と同列に並べている。また、後に浅井亨氏がアイヌ語諸方言問の格差を統計学的に算出した際も、彼の語彙を千島方言のデータとして用いている。

 今回発見された写真原版のうち、当初千島のものとして分類されていたものは82点あった。そのうち48点は、1919年の論文に掲載された写真と同一であり、他の文献の挿図や、焼きつけされた写真そのものを撮影したようなものも多く、大部分は同論文の出版のために東京で撮影されたものと思われる。うち15点が、千島で採集されたと思われる民具類だが、ほとんどのものは写真に写っている原物そのものが、現在大阪の国立民族学博物館に所蔵されている。また、実際には掲載されていないが、おそらく同論文中に使うつもりで撮影されたと思われる写真がその他に11点ある。

次に、千島(おもに色丹島)で撮影したと思われる人物や風景のスナップ写真が13点ある。そのうち、1903年および1919年の論文で用いられているものは、武蔵船上で撮影されたわずか1点であり(48点の中に含めて数えてある)、あとの12点はむしろ論文に掲載したものの残りという感じがする。また、1912年(大正1年)に上野で開かれた拓殖博覧会会場で撮ったと思われる、ニヴフ、樺太アイヌ、北海道アイヌの人々と、その展示家産の写真が8点ある。写真の同定については、北海学園大学の藤村久和氏及び東京国立博物館の佐々木利和氏に御協力をいただいた。

http://www.muse.or.jp/torii/img/torii_camera30.jpgフォト・ギャラリーへ

http://www.muse.or.jp/torii/map/chishima_1m.jpghttp://www.muse.or.jp/torii/map/chishima_2m.jpg
[千島列島の民族分布図][鳥居龍蔵の千島調査地図]


■千島アイヌ関係著書・論文目録

以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第7巻、第12巻(1976年 朝日新聞社)によって作 成した。

1895(明治28)「アイヌの木偶と云へる物」『東京人類学雑誌』109号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:441-443
1899 (明治32)「千島土人制作の木偶」『東京人類学雑誌』163号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:443-445
1902 (明治35)「千島土人の土俗」『東京人類学雑誌』190号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:439-441
1903 a (明治36)『千島アイヌ』吉川弘文館;『鳥居龍蔵全集』第7巻:1-98
1903 b (明治36)「北千島アイヌの入墨に就て」『東京人類学雑誌』;『鳥居龍蔵全集』第7巻:445-447
1904 (明治37)「千島アイヌに就いて」『地学雑誌』16巻191・192号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:425-435
1913 (大正2)「民族学上千島アイヌの位置」『民俗』1年2報;『鳥居龍蔵全集』第12巻:700-706
1919 (大正8)『考古学民族学研究・千島アイヌ』Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Aïnou des Iles Kouriles.東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:331-553
1933 (昭和8)「北千島アイヌの仮面」『ドルメン』2巻1号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:447-449
1939 (昭和14)「ミルン氏と私の北千島探査に就て」『武蔵野』26巻4号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:435-438

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高知工科大学・総合研究所 博物資源工学センター 鳥居龍蔵資料アーカイブ推進協議会
www.torii-museum.tokushima-ec.ed.jp/our.../default.html - キャッシュ
城山貝塚」は、徳島駅の北側、城山のふもとにあり、発見者鳥居龍蔵の名とともに、徳島 公園を訪れる人に親しまれている遺跡です。 今から87年前、鳥居龍蔵は、この場所から 貝殻が出





転載元: 北海道にまた行きたいな






[転載]北斗遺跡に行こう!6000年前に温暖ピークがあることが分かる。 北斗遺跡は、旧石器時代から縄文・続縄文時代を経て擦文時代で、釧路湿原を望む標高20m前後の台地上に

Next: [転載]北海道の史跡は、特別史跡1件を含む計51件が指定されている。
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北斗遺跡(釧路市北斗)を見学 H28/5/24  





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釧路市北斗遺跡ふるさと歴史の広場|釧路市立博物館

釧路市ホームページ博物館埋蔵文化財調査センター北斗遺跡釧路市北斗遺跡ふるさと歴史の広場

釧路市北斗遺跡ふるさと歴史の広場


北斗遺跡は、旧石器時代から縄文・続縄文時代を経て擦文時代に至る重複遺跡で、釧路湿原を望む標高20m前後の台地上の東西2,500m・南北500mの範囲に、縄文・続縄文時代の浅い円形・楕円形竪穴102軒、擦文時代の四角形竪穴232軒がくぼんだ状態で残されています。

過去の発掘調査では、旧石器時代の火を焚いた跡、縄文時代の住居跡・墓や小貝塚、擦文時代の住居跡などが確認されています。中でも擦文時代は、鉄器、繊維遺物、はた織具の一部、栽培植物の種子などが出土しています。

1977年7月、釧路湿原西縁において最も規模の大きい重要な遺跡であることにより、東側233,471平方メートルが国指定史跡となっています。




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利用のご案内

  • 開設期間:4月16日から11月15日
  • 開館時間:午前10時から午後4時
  • 休館日:月曜日(月曜が祝祭日の場合は開館)・11月16日から4月15日
  • 入館料:無料
  • 交通:
    釧路駅からバスで40分(阿寒バス鶴居線北斗坂下下車徒歩5分)
    駐車場:有(20台)
※下のアクセスマップもご覧ください。



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ふるさと歴史の広場の施設について

史跡北斗遺跡展示館には、北斗遺跡で出土した土器・石器・金属製品などの実物資料のほか、復元住居、遺構全体模型を展示しています。


館内の復元住居は屋根の一部を切り取る形で住居内の構造を見ることができます。遺構全体模型は、史跡東端部の竪穴住居跡が最もよく保存されている部分を1/150で表しています。竪穴の窪み、復元住居、人物などを入れ、背景には湿原を描きジオラマ仕様になっています。


展示館から屋外の復元住居へは木道・チップ敷きの道を歩きます。窪みが観察できる竪穴群のほか、史跡展望台からは、雄大な釧路湿原に面した復元住居を望むことができます。


広場全体図

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縄文海進

縄文海進


        
縄文海進(じょうもんかいしん)は、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。約6,500年前-約6,000年前にピークを迎え、ピーク時の海面は現在より約5m高く、気候は現在より温暖・湿潤[要出典]で平均気温が1-2℃高かった[1]地質学的には有楽町海進(日本では有楽町で最初に調べられたことから)、完新世海進後氷期海進(Holocene glacial retreat)などと呼ばれる[2]


年平気気温(右が現在)
6000年前に温暖ピークがある


歴史

最終氷期の最寒冷期後、約19000年前から始まった海面上昇は、沖積層の堆積より速かったので、日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで浸食された河谷には海が入り込み、関東平野では古鬼怒湾鬼怒川)や奥東京湾[3]利根川渡良瀬川荒川(当時は入間川)、元荒川(当時の荒川)など。荒川付近の水域は「古入間湾」とも呼ばれる[1])を形成し、大宮台地[4]などは半島となっていた。その後は沖積層の堆積が追いつき、上記の湾は現在の低地平野となっている(霞ヶ浦は堆積が進まなかったので現在でも湖水を湛えている)。
1926年時点の関東平野地図に、縄文海進時代の海進領域(斜線部)を重ねた地図
最寒冷期後の海面は、氷床から遠く離れた場所で年速1-2cmで100m以上上昇した。しかしこの現象が見られるのは氷床から遠い地域だけであり、氷床のあったイギリス北米などでは見られない。これは、氷床が溶け重みがなくなり、海面上昇速度よりも速く陸地が隆起したからである[2]。その典型がノルウェーのフィヨルド地形である。
縄文海進は、貝塚の存在から提唱されたものである。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部で発見されたことから海進説が唱えられた。当初は、日本で活発に起きている火山噴火地震による沈降説も唱えられたが、その後、海水面の上昇が世界的に発生していたことが確認され裏付けられた。

原因

この時期は最終氷期終了の後に起きた世界的に温暖化の時期に相当する(完新世の気候最温暖期)。また、北半球の氷床が完新世では最も多く融けていたため、世界的に海水準が高くなった時期に当たる。この温暖化の原因は地球軌道要素の変化による日射量の増大とされている。しかし、日射量のピークは9000年前であり、7000年前の海進と異なる[2]。近年の地球温暖化の議論では、過去の温暖化の例として、小説[5]などでもしばしば取り上げられている。


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周辺案内図・アクセスマップ

北斗遺跡ふるさと歴史の広場のチップ敷きの道は、釧路市湿原展望台の木道とつながっています。
釧路市湿原展望台のご案内は、


関連情報



【360°空撮】北海道釧路市/史跡北斗遺跡

          
 
www.kyowa-sogo.com/siteikanri_kusiroshi.html - キャッシュ
ふるさと歴史の広場 史跡北斗遺跡釧路市教育委員会. 〒084-0922 釧路市北斗6番7 号 電話(FAX):0154-56-2677. 利用案内: 開設期間 4月16日~11月15日 開館 時間 午前10時~午後4時まで 休 館 日 毎週月曜日(11月16日より4月15日まで)
www12.plala.or.jp > 北海道一周で訪れたい観光地 > 釧路湿原 - キャッシュ
釧路の町から北西に11km、道道53号線沿いの釧路湿原を望む丘の上に遺跡がある。 これが旧石器時代から縄文時代、続縄文時代を経て擦文時代の長期にわたって営まれ た史跡北斗遺跡だ。
bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/200886 - キャッシュ
その後、昭和47・48年、遺跡の地形測量と1部の試掘調査によって、長さ2.5 キロメートルの範囲に、9地点にわたる遺構密集地点の存在が確認された。それらは、 先縄文時代最終段階に属する細石刃文化から、縄文時代早期の東釧路下層様式、 前期の綱文 ...
kotobank.jp/word/北斗遺跡-1444990 - キャッシュ
国指定史跡ガイド - 北斗遺跡の用語解説 - 北海道釧路市北斗にある、先縄文時代以降 近世にいたるまでの遺構・遺物を擁する重複遺跡。釧路市街地から北西約7kmの釧路 湿原に臨む段丘上に広がっている。1977年(昭和52)に国指定史跡となった。
www.jalan.net/kankou/spt_01206cc3290029850/ - キャッシュ
史跡北斗遺跡展示館は擦文時代の復元住居や北斗遺跡の出土遺物を展示している。

北斗遺跡の画像

-Yahoo!検索(画像)




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www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g298147-... - キャッシュ
2016年2月27日 - 北斗遺跡展示館、釧路市の写真: 北斗遺跡展示館3 - トリップアドバイザー メンバーが 投稿した写真 (1550 件) および北斗遺跡展示館の動画をチェック.
www.tripadvisor.jp > アジア > 日本 > 北海道 > 釧路 > 釧路市 観光 - キャッシュ
北斗遺跡展示館(釧路市)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(2件)、写真(4枚)、 地図をチェック!北斗遺跡展示館は釧路市で40位(54件中)の観光名所です。



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www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/skn/ssi/eco-tour/k33.htm - キャッシュ
釧路湿原の周縁台地には、旧石器時代から縄文、その後の北海道だけで見られる続 縄文、擦文(さつもん)時代の遺跡があります。北斗遺跡は湿原西側の台地上にあり、 縄文・続縄文と擦

転載元: 北海道にまた行きたいな

[転載]北海道の史跡は、特別史跡1件を含む計51件が指定されている。

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北海道

北海道では、特別史跡1件を含む計51件が指定されている。

国指定

道南

特別史跡
史跡

道央

史跡

道北

史跡

道東

史跡
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    • 伊茶仁カリカリウス遺跡(いちゃにかりかりうすいせき)
    • 古道遺跡(ふるどういせき)
    • 三本木遺跡(さんぼんぎいせき)
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道指定

北海道指定史跡については北海道指定文化財一覧#史跡を参照のこと。




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転載元: 北海道にまた行きたいな

[転載]102歳まで岩を穿った周藤弥兵衛は、江戸中期の切通水路の開削,新田開発の功労者。私財を投じて着手,延享4(1747)年まで42年間をかけて完成した。

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www.youtube.com/watch?v=5J6SGS16PuA
20090109<b>周藤弥兵衛</b> 大梶七兵衛 NHK報道DVD - YouTube
20090109周藤弥兵衛 大梶七兵衛 NHK報道DVD. HNS人間自然科学研究所. Loading ...
再生時間:24:07
投稿日:2013年10月23日





周藤弥兵衛(すどう・やへえ)とは - コトバンク

kotobank.jp/word/周藤弥兵衛-1134331 - キャッシュ
没年:宝暦2.12.18(1753.1.21)
生年:慶安4(1651)
江戸中期の切通水路の開削,新田開発の功労者。出雲国(島根県)意宇郡日吉村の下郡役を勤める家に生まれる。のち出家して良刹と名乗る。祖父弥兵衛(初代)家正が村の度々の水害を救うため岩山を開削し,かつ築堤して新田も開いていたが,承応3(1654)年の堤防決壊,元禄15(1702)年の大洪水で本田新田とも跡形もなく破壊された。孫の3代目弥兵衛良刹は祖父の偉業を継承,宝永3(1706)年岩山開削,川違工事を松江藩に願い出,私財を投じて着手,延享4(1747)年まで42年間をかけて完成した。また貞享・元禄期(1684~1704)には,下郡役として意宇郡古志原村(松江市)の開発にも尽力した。<参考文献>島根県内務部編『島根県旧藩美蹟』


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kotobank.jp/word/周藤弥兵衛%283代%29-1084436 - キャッシュ
デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 周藤弥兵衛(3代)の用語解説 - 1651-1753* 江戸時代前期-中期の治水家。慶安4年生まれ。出雲(いずも)(島根県)意宇(いう)郡の豪農。 日吉村意宇川の氾濫(はんらん)をふせぐため,祖父の初代弥兵衛の開削した日吉剣山 ...




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www.shoai.ne.jp/sanin/wagamachi/hiyoshinokiritooshi.htm - キャッシュ
村の大百姓周藤弥兵衛家正が、川がまっすぐ流れるように剣山を開削するようにと松江藩に陳情しましたが、「小さな村にそのような大工事はどうか」となかなか決まりませんでしたが、名君といわれた藩主松平直正公が取り上げ、3年かけて剣山は切り抜かれ、 ...




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blog.goo.ne.jp/.../3ccecf1236b79352512a245f5f330f5f - キャッシュ
ハロ~今日もいい日ですね~まいまいです♪出雲国ぷち旅。熊野大社を詣でて、剣神社に招かれ。お次は~周藤弥兵衛。誰???道すがら気になっていたのだけど、神社参道の横にも看板が。「もともと剣神社の隣に住んでいた周藤弥兵衛 ...



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周藤弥兵衛の画像

-Yahoo!検索(画像)
f0153475_15352349.jpgAZcWAfvq.jpgyuukyu_b.jpg
monument.from-matsue.net > ホーム > 08-や行 - キャッシュ
ここ日吉公園から、500mほど下ったところが八雲村の大切な史跡「日吉切通し(きりとおし)」です。1706年、56歳の三代目周藤弥兵衛翁(すとうやへえおう)は、意宇川が剱山にそって流れるためにおこる洪水から村を守るために、自分の ...


転載元: 環境歴史観光防災ボランティア

[転載]五島列島のいろいろ-五島市-奈留町「ユーミンの碑」編

Next: [転載]アコウ(新上五島市奈良尾)
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皆さん、こんにちは
5月に奈留町に行ったときの記事を紹介していきます。
今回は奈留町を代表する観光地ともなっている「ユーミンの碑」をご紹介します。
もはや説明の必要はないと思いますから、興味ある方はネットで調べてみてください。
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碑のある奈留高校へは途中の奈留小中学校の前を通っていきます。
奈留町の高台に位置し、小中高一貫の教育となっています。
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奈留高校正門。
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銘板。
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生徒の自筆で書かれているようです。
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正門を入って左手側ちょっと奥に碑があります。
記念撮影用でしょうか、手作りの長椅子もあります。
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ユーミンの碑。
御影石もピカピカに磨いてあり、金箔の文字もしっかりと箔押しがなされていました
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説明板。
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ユーミンの碑が置かれている一帯は特に念入りに清掃や草木の剪定が行き届いていました。
碑の建立からかれこれ30年が経過しているにも関わらず、綺麗な状態を保っており、これほど管理に手を入れているとは思ってもみませんでした。
きっと島のみんな、卒業生の心のよりどころになっているのでしょう。
因みに、ナビの地図画面に「ユーミンの碑」があったのは驚きでしたね。
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転載元: maronのブログ

[転載]アコウ(新上五島市奈良尾)

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https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-4d-e4/tiro0304tiro/folder/186325/61/40090861/img_0?20100531191343


今回の旅行の楽しみの一つは奈良尾のアコウの木を見に行くことでした。
覚えていたのより又一回り大きくなってました。
青々と茂り元気そうです。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-4d-e4/tiro0304tiro/folder/186325/61/40090861/img_2?20100531191343

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-4d-e4/tiro0304tiro/folder/186325/61/40090861/img_1?20100531191343

アコウは琉球系の植物です。
五島には渡り鳥によって種がはこばれたようです。
実がなるようですが、私は覚えてません。
地上3.5mのところから二俣に分岐した根は、奈良尾神社の参道を跨ぐように根を下ろしています。
根回りは12m以上。
樹齢650年。
国の天然記念物に指定されてます。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-4d-e4/tiro0304tiro/folder/186325/61/40090861/img_4?20100531191343

子供の頃はこの枝の具合がこわく、いつも中に魔女がいると想像したものです。
妖気漂う雰囲気です。

転載元: 夜明けの炭水化物

[転載]五島列島のいろいろ-五島市-展望所巡り「箕岳園地展望所」編

Next: [転載]新上五島町(観光その3)
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皆さん、こんにちは
私は高いところから見る景色が好きで、旅行に行くと各地の展望所を見て回るのですが、福江島にもいくつか展望所があるので、何回かに分けて島内の展望所、展望台をご紹介します。
今回は五島市の鬼岳の麓の崎山町に至る「箕岳園地展望所」をご紹介します。
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駐車場からちょっと歩いていくと「箕岳園地」という広い芝生の原っぱがあります。
途中に、歩いているとサルトリイバラを見かけました。
西日本ではお馴染みのお饅頭に敷く葉っぱです。
柏の葉っぱの代用ですね~というより、こちらではこれが主流ですが。
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「箕岳園地」。
子供連れで遊びに来るのに最適な広い原っぱです。
暑くなれば桜の下が日陰になります。
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トイレもあります。
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春のお花見のシーズンは賑わうことでしょう。
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園地の左脇のほうに展望台へ上がる階段があります。
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暑い日はお日様が直に当たり、日陰もないのでたいへんですが、せっせと歩いて上りました。
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左手に"火の岳"が見えます。
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麓には崎山町の住宅地、遙か遠くに霞んで見えるのは、上五島町の"中通島"のようです。
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左手の海上に、風力発電1基が設置されているのが判りますか?
今後、あと9基を追加で設置する計画とのことです。
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園地から10分ほど歩いて、展望台に到着です。
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展望台には望遠鏡が設置されており、島の名前が判る全方位の案内板もあります。
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赤島(人口10名ほど)。
一時期は無人島になる危機がありましたが、U、Iターン者が暮らしています。
島には商店や飲食店はなく、さらには水道がないので、島に遊びに行く際には注意が必要です。
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黄島(おうしま:人口40名ほど)。
島には民宿が2軒あるのみで、商店や飲食店はありません。
唯一の観光スポットとして、溶岩トンネルがあります。
全長132mにも及ぶトンネルは、福江島の富江町の「井坑」に繋がっているともいわれており、謎の多い溶岩トンネルです。
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黒島(人口2名)。
近い将来、無人島になる可能性が一番高い島です。
島に行くなら今のうちかもしれません。
当然ですが、島には何もありません。
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天気の良い日は、ここからの眺めは最高です。
ぜひ、皆さんも足を運んでみてください。
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箕岳園地展望所(Yahoo!地図)
https://yahoo.jp/IAICEX
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転載元: maronのブログ


[転載]新上五島町(観光その3)

Next: [転載]壱岐に行きましょう 歴史を学ぼう 元寇まで
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https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-43-5e/turbobf1516/folder/1507701/65/54672165/img_0?20180805181426

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https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-43-5e/turbobf1516/folder/1507701/65/54672165/img_4?20180805181426

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昼食前

大曽教会:ここは2月に母親たちと新上五島町を訪れた際、時間がなくてパスした場所。
   町内にあるほとんどの教会のステンド・グラスがツバキをモチーフにしているのに、
   ここだけはサクラです。

昼食後

若松大橋:中通島と若松島を結ぶ。桁下高さ26メートル。南詰の小さな公園から撮影しました。

長崎港に向かう前

アコウ:新上五島町のパワー・スポットのひとつとのこと☆

↑1:オリジナル画像:大曽教会。
↑2:オリジナル画像:内部。新上五島町では、撮影OKです♪
↑3:オリジナル画像:教会のステンド・グラス。
↑4:オリジナル画像:若松大橋。
↑5:オリジナル画像:奈良尾神社のアコウ。
↑6:オリジナル画像:説明板。

転載元: あしたのビルフィッシャーのために(その3)

[転載]壱岐に行きましょう 歴史を学ぼう 元寇まで

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壱岐の歴史情報

壱岐(1)/古代ロマンあふれる歴史と文化(長崎県観光)




             

旧石器時代後期~終末期 カラカミ遺跡〔勝本町〕から、この頃に使われたナイフ形石器や台形状石器が見つかる
旧石器時代後期~終末期 原の辻遺跡〔芦辺町・石田町〕から、この頃に使われたナイフ形石器や台形状石器が見つかる
旧石器時代後期~終末期 原の辻遺跡から この頃に生きていた ナウマン象やオオツノジカの化石が見つかる


縄文時代前期~晩期 名切遺跡〔郷ノ浦町〕にドングリを貯蔵する穴が造られる
縄文時代早期~後期 松崎遺跡〔勝本町〕から、この頃に使われていた縄文土器や石器が見つかる
縄文時代前期~後期 鎌崎遺跡〔郷ノ浦町〕から、この頃に使われていた縄文土器や石器が見つかる


弥生時代前期末 原の辻遺跡の丘陵部に集落が形成される
弥生時代前期末 カラカミ遺跡に集落が形成される


弥生時代中期前葉 原の辻遺跡のある丘陵部のまわりに環濠が掘られ、船着き場が完成する
弥生時代中期初頭 車出遺跡群〔郷ノ浦町〕に集落が形成される
弥生時代中期前葉 原の辻遺跡でシカ・イノシシの肩甲骨を使ったト骨が行われる


弥生時代後期 カラカミ遺跡でシカ・イノシシの肩甲骨を使ったト骨が行われる
弥生時代後期 原の辻遺跡が「一支国」の中心集落〔海の王都〕として栄える
弥生時代後期前葉 原の辻遺跡の低地にある居住地が丘陵部に集中する 船着き場が埋まり、環濠が再掘削される
弥生時代後期 天ヶ原セジョウ神遺跡〔勝本町〕に、中広形銅矛3本が埋納される
弥生時代後期 『魏志』倭人伝に「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大国官又曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三


千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」の57文字で一支国の様子が記載されている

古墳時代前期 4世紀中頃、原の辻遺跡にあった環濠集落が解体される
古墳時代前期 大久保遺跡〔石田町〕から、この頃に造られた積石の石棺墓が見つかる
古墳時代前期 片苗イシロ遺跡〔勝本町〕から、5世紀前半頃の住居跡が見つかる


古墳時代中期 5世紀後半頃、大塚山古墳〔芦辺町〕に竪穴系横口式石室の小型円墳が築造される
古墳時代中期 6世紀前半頃、妙泉寺古墳〔芦辺町〕に円墳が築造される


古墳時代後期 6世紀後半頃、松尾古墳〔郷ノ浦町〕に円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀後半頃から、百田頭古墳群・山の神古墳群・釜蓋古墳群〔芦辺町〕に円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀後半頃、双六古墳〔勝本町〕に全長約91mの前方後円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀後半頃、笹塚古墳や掛木古墳〔勝本町〕、兵瀬古墳や鬼の窟古墳〔芦辺町〕に横穴式石室の大型円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀中頃、対馬塚古墳〔勝本町〕に全長約63mの前方後円墳が築造される
古墳時代後期 この頃から、椿遺跡〔石田町〕に拠点が形成される
古墳時代後期 この頃から、串山ミルメ浦遺跡〔勝本町〕に集落が形成される
古墳時代後期 7世紀後半頃、鬼屋窪古墳〔郷ノ浦町〕に捕鯨を線刻した画が描かれた円墳が築造される
古墳時代後期 7世紀頃から、浜田遺跡〔石田町〕で製塩作業が行われる
古墳時代後期 7世紀頃から、中尾遺跡〔石田町〕で製鉄作業が行われる




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487年 月読神社(芦辺町)に天月神命を祀り、高御祖神社には天月神命の祖高産霊尊を祀る【神社考】
527年 押見宿禰が月読神社を祀る【顕宗天皇紀】
541年 伊吉公乙等を筑紫伊覩県に遣わし神石を求め、のちに山城国月読神社に奉納する



632年 犬上御田鍬帰朝の記事中に伊岐史乙等の名有り
642年 新羅吊使船と賀騰極船が壱岐に泊る【日本書紀】
659年 第四次遣唐使を派遣するが、唐は戦争準備のため派遣使を長安に幽閉する 壱岐出身の伊吉博徳がこの間の記録を残す【日本書紀】
664年 対馬・壱岐・築紫等に防人・烽を置き、大宰府防衛のため水城を築く【日本書紀】


700年 伊吉博徳が大宝律令の編纂に参与し、功績が認められ賜禄される【続日本紀】
706(慶雲3)年 九国三島の干害と風害に対し、使を遣わして調査し、被害の大きい所は調と課役を免じる【続日本紀】
717(養老1)年 勅命により聖母宮〔勝本浦〕を建立する【壱岐神社誌】
718(養老2)年 神岳三所権現〔新城西触〕を鎮座する【神岳三所大権現縁起】
718(養老2)年 壱岐と対馬を下国と規定する【養老令】
720(養老4)年 異族、数万艘の軍船で壱岐に襲来すると必ず北風が吹く これを“聖母の北風”という【聖母社記】
724(神亀1)年 聖母宮を再興し、ト部高巣が奉る【聖母社記】
729(天平1)年 壱岐郡と石田郡の郡境を定める

729(天平1)年 行基が刈田院覚音寺〔立石西触〕を開く
730(天平2)年 壱岐守板氏安麻呂と壱岐目村氏彼方が、大宰府帥老宅で九州全国官人の宴に出席する【万葉集】
731(天平3)年 壱岐・対馬に初めて医師を任命する【続日本紀】
736(天平8)年 雪連宅満が遣新羅使の一行に加わり新羅に向かうも壱岐で病死 のちに壱岐の石田野に埋葬される【万葉集】
737(天平9)年 筑紫配備の防人を本国に帰し、筑紫の人に壱岐・対馬を守らせる【続日本書紀】



741(天平13)年 壱岐・対馬に国分寺〔島分寺〕の建立が命ぜられる
742(天平14)年 壱岐島や対馬島の官人の禄は筑前国司に命じて、廃府の物の中から支給される
744(天平16)年 壱岐にも国分寺〔島分寺〕の設置が決まる【続日本紀】
744(天平16) 壱岐は国分寺を新たに建立せず、壱岐直の氏寺を壱岐国分寺〔壱岐嶋分寺〕と改める【類聚三代格】







759(天平宝字3)年 大宰府や壱岐などに軍船100を置く事を上申するものの実現せず【続日本紀】
763(天平宝字7)年 壱岐島が疫病に見舞われる【続日本紀】
765(天平神護1)年 石見・美作・紀伊・讃岐・淡路・壱岐・多褹の7国が飢饉に見舞われる【続日本紀】
768(神護景雲2)年 壱岐島が飢饉に見舞われる【続日本紀】
769(神護景雲3)年 外従五位下田部直息麻呂を壱岐島守に任命する【続日本紀】
771(宝亀2)年 日向・大隅・薩摩三国、壱岐・多褹両島の博士・医師は、終身の任を改めて八年交替とする【続日本紀】
772(宝亀3)年 貞婦玉主売の功績が称えられ「勅賜爵二級」を与え、田租を終身免ずる【続日本紀】
773(宝亀4)年 壱岐島天位ト部道作・和気清麻呂が宇佐八幡宮に於いて神意を問うにあたり、ト占の任を果たす【宇佐託宣集】
776(宝亀7)年 壱岐島に大風が吹き、苗を失ったため、今年の税を免じる【続日本紀】
787(延暦6)年 ト部道作、聖母神社(勝本浦)に奉仕する【聖母社記】
787(延暦6)年 月読神社(芦辺町)鎮座【月読神社記】
788(延暦7)年 壱岐島5社〔本宮・箱崎・筒城・印鑰・聖母〕を定める【壱岐神社誌】
795(延暦14)年 対馬・壱岐を除き、防人を廃止する




804(延暦23)年 壱岐島の防人に筑前の穀米を送る【日本後紀】
804(延暦23)年 壱岐島に配した大宰府管内6国の防人20人を廃止する 壱岐島の兵士300人を分番配置する【日本後紀】
782~806年〔延暦年間〕 桓武天皇の命により兵主神社〔芦辺町〕を建立する【壱岐国神名記】
806(大同1)年 壱岐が水害と疫病に見舞われたため、1年間、税を免除される【類聚国史】
815(弘仁6)年 壱岐島医師に大初位下蕨野勝真吉の名有り【続日本後紀】
816(弘仁7)年 異賊襲来に備え、壱岐島内の2か所の関を置き、14ヵ所の要害を構える【日本後紀】
828(天長5)年 壱岐直方磨を壱岐国造に任命する
835(承和2)年 新羅人の来航に備え、壱岐島内を防人330人に守らせる【続日本後紀】
837(承和4)年 第17回の遣唐使船が逆風に遭い遭難する 第1船と第4船は壱岐に、第2船は値嘉島に漂着する【続日本後紀】
838(承和5)年 新羅商人の往来に備え、壱岐島に弩師を置く 壱岐島内には弩100脚有り【類聚三代格】
844(承和11)年 諸国の例に準じ薩摩・大隅・壱岐諸国に講師を置く【続日本後紀】
845(承和12)年 日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬諸国の博士・医師の任期を6年とし、内位に叙する【続日本後紀】
851(仁寿元)年 この頃、壱岐の人口10,600人、対馬7,400人と記されている【類聚三代格】
856(斉衡3)年  ト部雄貞が「ト部」を改めて「占部宿禰」を賜う【壱岐神社誌】
859年 海神社〔勝本町〕を従五位にする【日本三大実録】
863(貞観5)年 石田郡の占部是雄と占部業孝に「壱岐宿祢」の姓を授ける【日本三代実録】
866(貞観8)年 伴秋実、応天門の変により壱岐に流罪となる【日本三代実録】
869(貞観11)年 伊岐宿禰是雄を「丹波権椽」に任命する【壱岐神社誌】
870(貞観12)年 壱岐島に武具〔冑・手纒各200〕を送る【日本三代実録】
870(貞観12)年 筑前・肥前・壱岐・対馬などの国に対し、外敵に備えさせる【日本三代実録】
871(貞観13)年 壱岐島に冑などの武具400具備える
872(貞観14)年 従五位下宮主伊伎宿袮是雄が没する〔享年54歳〕【日本三代実録】
876(貞観18)年 壱岐の水田616町有り これは『倭名抄』の620町におおむね一致する【日本三代実録】
880(元慶4)年 伴秋実、恩赦により放免となる【日本三代実録】
883(元慶7)年 朝廷は周防国司に命じて、再び伴秋実を壱岐へ配流する【日本三代実録】
894(寛平6)年 新羅の賊が壱岐を襲い、官舎などを焼き払う
895(寛平7)年 大宰府に新羅の賊が壱岐島に襲来したことを報告する【日本紀略】


906(延喜6)年 豊前国宇佐郡より異国降伏国家擁護の神を白沙八幡に移す
927(延長5)年 『延喜式』神名帳に壱岐島内に24座(大7、小17)有りと記されている
935(承平5)年 壱岐の戸数2,070戸、人口10,350人、と記載有り【倭名類聚抄】
997(長徳3)年 南蛮人〔奄美人〕が、壱岐・対馬を襲う【小右記】










1019(寛仁3)年 刀伊人が壱岐を襲来する 壱岐守藤原理忠が応戦するも戦死する
1046(永承1)年 安国寺大般若経に高麗国金海府許珍寿の墨書施入銘有り
1071(延久3)年 鉢形山出土の石造如来形坐像の背文に「延久3年」と国司正六位佐伯良孝の名有り
1099(康和1)年 盛林和尚が普陀山須仙庵〔坂本触、仙南寺〕を開く【壱岐国続風土記】


1266(文永3)年 壱岐の白沙八幡宮の大宮司源季重家職継承が鎮西守護所へ見参料として牛一頭を進上する【壱岐史拾遺】
1267(文永4)年 観世音寺〔立石南触〕に至元四年銘の銅造双龍文鏡(円錐紐)有り
1271(文永8)年 箱崎暦応寺〔芦辺町〕を開く【壱岐国続風土記】
1274(文永11)年 元軍、壱岐勝本付近に上陸する〔文永の役〕
1274(文永11)年 守護代平景隆が100余騎で応戦するも、樋詰城で戦死する





1281(弘安4)年 元軍、再び壱岐を襲来する 瀬戸浦付近に上陸する〔弘安の役〕
1281(弘安4)年 瀬戸浦の海戦で、守護代少弐資時が戦死する






1293(永仁1)年 唐津岸岳城主の波多宗無、亀丘城〔郷ノ浦町〕を築城する【三考譜録考鑑】
1294(永仁2)年 異国警護のため壱岐・大島・鷹島などに烽火を設置する







海とみどり、歴史を活かす癒しのしま、壱岐





TOP> 長崎県埋蔵文化財センター・壱岐市立一支国博物館アクセスについて



http://www.iki-haku.jp/schedule/img/c02.gif
〒811-5322
長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触(つるきふれ)515番地1
TEL:0920-45-2731 FAX:0920-45-2749



転載元: 海洋文化交流/貿易振興

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原の辻遺跡(はのつじいせき)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触、および同市石田町石田西触にかけて存在する遺跡。2000年(平成12年)には国の特別史跡に指定され、2013年には出土品1670点が国の重要文化財に指定されている。
壱岐島東部・幡鉾川下流にある、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落を中心とする遺跡である。魏志倭人伝に登場する「一大国」の国都とされている。

1993年平成5年)の大規模な調査で三重の濠を巡らせた大規模な環濠集落、祭祀建物跡が検出された。また、壕の外西北では日本最古の船着き場の跡も発掘された。原の辻の中心部分に当たる。 環濠集落の規模は東西約350メートル、南北約750メートルである。この東側に、魏志倭人伝に出てくる卑狗と卑奴母離などの役人の家や役所があったと想像される。壕の外の北、東、東南には墓地が見つかっている。また、遺跡全体の総面積は100ヘクタールにも及ぶ広大なものである[1]
これらの発掘調査結果から1995年(平成7年)に一支国の国都である可能性を指摘した[2]
出土物に大陸系の品が多く、中国鏡、戦国式銅剣、貸泉などの中国の銭貨、トンボ玉、鋳造製品、無文土器、三韓系土器、楽浪系の土器など。後期にはこれらの量が増加した。
また、弥生時代中期の竪穴住居址から炭化したが出土している。島の河川流域の低地に水田が広がり、水稲農耕が行われていた。対馬に比較して水稲農耕が広く行われていた。島には貝塚もあり、狩猟獣であるシカイノシシのほか、家畜であるウマをはじめ獣骨や魚骨が出土している。
石器では石斧・片刃石斧・石包丁に一部鉄器を交えるが、後期になうと石器はほとんど姿を消し、手斧・鎌・刀子など鉄器が豊富になる。なかには鉄器の原材料と想定できる板状のものがあり、これからさまざまな鉄器を造り出した。壱岐島の鉄器は舶載品であると考えられている。




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串山ミルメ浦遺跡

貝塚・遺物包含地縄文時代~古代壱岐市

天ケ原遺跡

祭祀跡・遺物包含地弥生時代、古墳時代壱岐市
  
遺跡名

 天ケ原遺跡(あまがはらいせき)

所在地 壱岐市勝本町東触字菖蒲坂
緯度 北緯33°51′21″経度 東経129°42′30″
標高 5m地形 砂丘
種別 祭祀跡・遺物包含地時代 弥生時代、古墳時代
資料所在地 壱岐市教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 『串山ミルメ浦遺跡』勝本町文化財調査報告書第4集 1985
遺跡・史跡の概略
 遺跡は、壱岐の最北端に位置し、天ケ原から小串へと伸びる砂州上にあり、北東側は外海に接している。遺跡内の道路工事および護岸工事の際に、朝鮮半島系の無文土器、古墳時代~奈良時代の土師器・須恵器などが出土している。また、昭和36年(1961)には、海岸の波打際にあったセジョウ神と呼ばれていた石祠の地下80cmほど下から、中広銅矛3本が出土している。この遺構は、青銅器の埋納遺構と考えられ、壱岐の最北端に位置することから、異国から招来する悪霊や疫病等対しての境界祭祀の可能性をもっている。壱岐では、銅矛は天ケ原遺跡の3本と原の辻遺跡の2本、熊野神宮に伝世する1本の合計6本が知られるに過ぎないが、対馬では100本を超える数の銅矛が出土しており、航海安全を祈る祭祀にも使われたことが推測されている。
主な遺構
 中広銅矛3本埋納遺構
    
主な遺物
 中広銅矛3本、無文土器、土師器、須恵器
                         出土土器                          出土銅矛   
        
遺構・遺物の写真
 
                         遺跡近景                          出土遺物(銅矛) 

松崎遺跡

遺物包含地縄文時代壱岐市

カラカミ遺跡

遺物包含地・貝塚旧石器時代、弥生時代壱岐市
  
遺跡名

 カラカミ遺跡(からかみいせき)

所在地 壱岐市勝本町立石東触字カラカミ、国柳、川久保
緯度 北緯33°47′28″経度 東経129°41′48″
標高 80m地形 丘陵
種別 遺物包含地・貝塚時代 旧石器時代、弥生時代
資料所在地 壱岐市教育委員会指定状況 市指定
参考文献等 『カラカミ遺跡』勝本町文化財調査報告書第3集 1985、同6集 1988
『地域拠点遺跡内容確認発掘調査報告書2』長崎県文化財調査報告書第185集 2005
遺跡・史跡の概略
 遺跡は、壱岐島の中央よりやや西側に位置し、刈田院川上流の標高80mほどの丘陵に立地する。大正8・9(1919・20)年頃に発見され、昭和初期に在地の研究者松本友雄によって中央学会に紹介された。昭和27(1952)年には東亜考古学会、昭和52(1977)年には九州大学、昭和57~59(1982~84)、62(1987)年には勝本町教育委員会が主体となり、発掘調査が実施され、鯨骨や獣骨製、石製の漁労関係遺物、楽浪土器や三韓土器などの大陸から舶載された土器、後漢鏡片などの青銅器、鉄器、占いの卜骨などが出土し、原の辻遺跡に比較すると農耕的な要素が乏しく、漁労や交易(南北市糴)に従事した集団の基地的な集落跡であったことが推測される。
主な遺構
 環濠、土坑、小児甕棺墓
                         調査区域図                          大溝,土層図 f遺構実測図  
主な遺物
 石製・骨角製・鉄製漁労具、中国製銅鏡、国産銅鏡・銅鋤先、銅鏃、ト骨、大陸系土器
                         漁労具(岡崎1968ほか)                          ト骨(木村1979)   
        
遺構・遺物の写真
 
                         遺跡遠景                          W4区3層遺物出土状況                          W15区ト骨出土状況 

対馬塚古墳

古墳古墳時代壱岐市

双六古墳

古墳古墳時代壱岐市

笹塚古墳

古墳古墳時代壱岐市

掛木古墳

古墳古墳時代壱岐市

石路遺跡

集落跡弥生時代・古墳時代壱岐市
  
遺跡名

 石路遺跡(いしろいせき)

所在地 壱岐市勝本町立石西触字樽見
緯度 北緯33°47′57″経度 東経129°40′42″
標高 50m地形 丘陵
種別 集落跡時代 弥生時代・古墳時代
資料所在地 壱岐市教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 『片苗イシロ遺跡』勝本町文化財調査報告書第5集 1987
遺跡・史跡の概略
 
  遺跡は壱岐島の西岸、勝本町と郷ノ浦町との境界に近い湯ノ本湾の支湾の一つで、片苗湾に面した丘陵部に位置する。遺跡は、地元研究者の松本友雄によって大正末年から昭和初年に発見された。1986年には、個人の畑地基盤整備に伴って勝本町教育委員会が発掘調査を行い、古墳時代初頭の竪穴住居跡1軒、石囲墓4基、多数の柱穴跡が確認されている。この片苗湾東岸の丘陵は、中世に「片苗千軒」と称され、多くの人が住みつき栄えていたといわれており、弥生時代から引き続いて生活が営まれた海民集落であったことが考えられる。
主な遺構
 竪穴住居跡、石囲墓
                         住居跡および石囲い墓    
主な遺物
 土師器、陶質土器、滑石製勾玉・平玉、石錘・礫器・凹石
                          出土装身具                           出土土器   
        
遺構・遺物の写真
 
                         遺跡遠景                          遺構出土状況                           住居跡                          出土遺物

勝本城跡

城館跡中世(近世初期)壱岐市

百合畑古墳群

古墳古墳時代壱岐市

鬼屋窪古墳

古墳古墳時代壱岐市

大原天神の森古墳群

古墳古墳時代壱岐市

松尾古墳

古墳古墳時代壱岐市

鎌崎遺跡

遺物包含地縄文時代壱岐市

名切遺跡

遺物包含地縄文時代壱岐市

亀丘城跡

城館跡中世、近世壱岐市

車出遺跡

遺物包含地弥生時代壱岐市

大米古墳

古墳古墳時代壱岐市

大宝遺跡

遺物包含地旧石器時代、古代、中世壱岐市
  
遺跡名

 大宝遺跡(たいほういせき)

所在地 壱岐市郷ノ浦町志原南触字大宝
緯度 北緯33°44′43″経度 東経129°43′14″
標高 54m地形 丘陵
種別 遺物包含地時代 旧石器時代、古代、中世
資料所在地 原の辻遺跡調査事務所指定状況 未指定
参考文献等 『大宝遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書第14集 1999
遺跡・史跡の概略
 本遺跡は、壱岐島南部の内陸にあり、谷底平野の谷頭の標高54mの丘陵に立地している。県営ほ場整備事業に伴って、平成10年度(1998)に発掘調査が実施され、古代から中世にかけての遺構・遺物が出土した。遺構では、掘立柱建物4棟、溝4条、柱跡群などが検出された。遺物では、奈良時代8世紀~9世紀の須恵器・土師器、9世紀~13世紀代の中国製青磁・白磁、新羅土器、国産の緑釉陶器、瓦質土器、玄界灘式製塩土器、滑石製石鍋、鞴の羽口、鉄滓などが出土している。遺構や遺物の出土状況から判断すれば、官衙的な施設というよりも地元有力者の居館的な様相をもっていることが推測される。
主な遺構
 掘立柱建物、溝
                         遺構配置図 (1/200)    
主な遺物
 輸入陶磁器、緑釉陶器、須恵器、土師器、玄界灘式製塩土器、瓦器、滑石製石鍋、鉄滓、羽口
                         出土遺物(1) (1/3) (須恵器)                          出土遺物(3) (1/3) (土師器、瓦器、輸入陶磁器など)   
        
遺構・遺物の写真
 
                         遺跡遠景                          建物跡出土状況                          1・4号溝出土状況                          土器出土状況 

鬼の窟古墳

古墳古墳時代壱岐市

兵瀬古墳

古墳古墳時代壱岐市

壱岐嶋分寺跡

社寺跡古代壱岐市

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壱岐の歴史

対馬とともに、古くから朝鮮半島九州を結ぶ海上交通の中継点となっている。なお、15世紀の朝鮮王朝との通交を記述した『海東諸国紀』(ヘドンチェグッキ)[5]にも、壱岐島や対馬島についての記事がみられる。

原始・古代

縄文時代

縄文時代の遺跡としては、後期と推定される郷ノ浦町片原触吉ヶ崎遺跡がある。弥生時代には、ほぼ全島に人々が住んだと思われる。中でも河川流域に遺跡が濃密に分布している。下流域の原の辻やミヤクリ、上流域の柳田田原地域の物部、戸田遺跡などは、その域内も広く遺物も豊富である[6]

弥生時代

  中国史書である『三国志』魏書の魏書東夷伝倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』においては、邪馬台国の支配のもと、「一大國」が存在したと記されている。『魏略』の逸文、『梁書』、『隋書』では一支國が存在したと記されている。1993年12月に長崎県教育委員会が島内にある原の辻遺跡を一支国の中心集落と発表し、話題となった。魏書の魏書東夷伝倭人条では「有三千許家(三千ばかりの家有り)」とあり、1家5人と仮定しても当時すでに15,000人もの人口が存在していたこととなり、当時の日本の中では人口が多い地域だった(2012年12月1日時点での壱岐市の推計人口は、28,290人である)。




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古墳時代

  河川の流域や島の中部、各地に横穴式石室墳群が分布している。前方後円墳は、長崎県内最大の勝本町百合畑触の双六古墳古墳をはじめとして数基が存在する。後期(6世紀)になると、島の中央部に鬼の岩屋古墳・笹塚古墳などの巨石石室墳が築造される。
  鬼の岩屋古墳の近くには島分寺があり、壱岐の住居を寺としたとの伝承がある。これらの巨石石室墳を、壱岐直の墓との推定も可能である。郷ノ浦町鬼屋久保古墳の横穴式石室の奥壁には、線刻で帆船とクジラと認められる画が描かれており、これは回遊するクジラを集落で浦に追い込んだ様子を描いたと考えられる[6]

律令制

 令制国としては、壱岐国となった。『和名抄』には壱岐郡と石田郡の2郡と11郷が伝えられる。原方と山方に相当する。壱岐値は壱岐県主で、中央に出仕した伊吉や雪連は一族であると考えられる[6]
 平安時代1019年(寛仁3年)には、女真族(満州族)と見られる賊徒が高麗沿岸を襲い、さらに対馬・壱岐にも現れた。この時、壱岐国国司藤原理忠は賊徒と戦い、討ち死にしている。一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された(刀伊の入寇)。






刀伊の入寇   

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
刀伊とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)つまり東夷を指すtoiに、日本文字を当てた物とされている[1]15世紀訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では(そのまま「トイ」)として表れる[2]
この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。
朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。

経緯

日本沿岸での海賊行為頻発

9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前筑後肥前肥後薩摩の九州沿岸であった。

侵攻の主体

刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそかに高麗に渡り情報を得た[3]。 長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったこと[3]などの情報を得た。

日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族

  「刀伊の入寇」の主力は女真族であったと考えられている。女真族とは、12世紀を、後の17世紀には満洲族として後金を経てを建国する民族である。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている[4][5]
 10世紀前後に資料に現れる東丹国熟女直の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる[6][7]

 13世紀初頭に蒲鮮万奴中国東北部大真国を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真族たちもこれに加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。

  しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13, 14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。
  替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる[8]
  また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている[9]

刀伊の入寇までの北東アジア情勢

 926年契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。

 1005年高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる[10]

 しかし、当時の女真族の一部は高麗朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張した[11]。また『小右記』でも海賊の中に新羅人が居たと述べている[12]

対馬への襲撃

 寛仁3年(1019年)3月27日、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。

壱岐への襲撃

 賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
 藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。

筑前国怡土郡への襲撃

 その後、刀伊勢は筑前国怡土郡志麻郡早良郡を襲い、さらに博多を攻撃しようとしたが、最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥藤原隆家により撃退された[13]。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日に肥前国松浦郡を襲ったが、源知松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した[14]


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藤原理忠   

藤原 理忠(ふじわら の まさただ、生年未詳 - 寛仁3年4月7日1019年5月14日))は、平安時代後期の武将。壱岐国国司
寛仁3年(1019年)、得体のしれない賊徒が島の人々を襲い、家畜を食い荒らしていると言う急報を聞いて、直ちに布代城から兵士を率いて賊徒の討伐に向うが、約3000人もの賊徒にはとても敵わず、奮戦するも味方の兵士147人と共に討ち死にした(刀伊の入寇)。長崎県壱岐市勝本町立石南触に、理忠の墓がある。

中世・近世

中世には松浦党の勢力下に置かれた。鎌倉時代中期、モンゴル帝国大元ウルス)とその属国・高麗により二度にわたり侵攻を受ける。一度目の文永の役の際には、壱岐守護代平景隆ら百余騎が応戦するが、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、島民が虐殺を受けるなど大きな被害をこうむった。
続く弘安の役でも元軍の上陸を受け、大きな損害を受けたが、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、苦戦を強いられた元軍は壱岐島から撤退した(壱岐島の戦い)。江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となった。




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元寇 文永の役 壱岐侵攻

壱岐守護代平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、平景隆は樋詰城で自害する[144]
高麗史金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた[145]。高麗軍の将である朴之亮および金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った[145]。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、後になって元軍に攻撃を仕掛けてきた[145]。これに対して蒙古・漢軍の右副都元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は応戦し、日本兵を1,000余り討ち取ったという[145]
日蓮は、この時の壱岐の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」[146]と記している。
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。



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平景隆

   
 平 景隆(たいら の かげたか、? - 文永11年10月15日1274年11月14日))は、鎌倉時代中期の九州の武士。壱岐国守護代。贈正四位。通称は内佐衛門。平経高平景高とも。

 壱岐国の守護少弐氏で、景隆はその家人であったと考えられる。『八幡愚童訓』によれば、文永の役の文永11年(1274年)10月14日申の刻(午後4時から6時頃) 、蒙古軍が壱岐島の西岸に上陸すると、景隆は百余騎の武士を率いて馳せ向かい、庄三郎という者の城の前で矢を射かけて蒙古軍を迎え撃った。
 しかし圧倒的大軍で押し寄せる蒙古軍にたちまち追い詰められ、景隆らは守護所の詰城である樋詰城に立て籠もった。日没とともに蒙古軍は船団に引き上げ、翌日景隆が篭る樋詰城を攻撃、景隆一同は城中で自害した。景隆の下人の宗三郎が博多へ渡ってこのことを報告した。景隆の自害により蒙古軍は壱岐を制圧し、多数の島民が殺害された。

 明治維新後、全国的に忠臣の顕彰運動が高まり、刀伊の入寇弘安の役の戦死者とともに新城神社長崎県壱岐市勝本町)に祀られた。
1896年(明治29年)11月2日には、正四位が追贈された[1]





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一支国

   
  一支国(いきこく、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。魏志倭人伝では「一大國」とされ他の史書では「一支國」とされることから、魏志倭人伝は誤記ではないかとされているが、誤記ではないとする説もいまだ根強い。
1993年長崎県教育委員会壱岐島原の辻遺跡が一支国の跡であると発表し、話題となった。

概要

魏志倭人伝

  魏志倭人伝において邪馬壹國(邪馬臺國)が支配下に置いていたとされる「一大國」という名の島国である。対海國(対馬国)から南に一千里(当時の度量衡で400Km)の所、ということになるが、仮に対海國を現在の対馬とすれば、これは鹿児島県の南方海上になるため、実際にどこであるかには論争がある。
※当時の中国では「一=400〜500m」という「長里」が使われて来た。 また。『三国史』の魏(・西晋)朝では、「一里=75mないし90mで、75mに近い」長さの「短里」が使用されている。なお日本の近代では一里=4Kmであり、中国の距離とは異なる。
魏志倭人伝には次のように記述される。
  • また南に瀚海(かんかい)と呼ばれる一つの海を渡り、千余里を行くと一大國に至る。また長官を卑狗(ひく)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。広さは約三百里四方ばかり。竹や木のしげみが多い。三千ばかりの家がある。田畑が少しあり、農耕だけでは食料には足らず、また、南や北に海を渡って穀物を買い入れている。

海東諸国紀   

海東諸国紀 各種表記ハングル漢字発音日本語読み:
해동제국기
海東諸國紀
ヘドンチェグッキ
かいとうしょこくき
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海東諸国全図

  『海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 韓国語: 해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)が日本国琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。 これに1501年燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。
  1443年世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500年燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。


内容

  海東諸国全図、西海道九州図、壱岐島図、対馬島図、琉球国図、朝鮮三浦(薺浦、富山浦、塩浦)図などの地図が冒頭に掲げられている。本文は「日本国紀」、「琉球国紀」、「朝聘応接紀」に分かれ、それぞれの歴史、地理、支配者、言語などを詳細に記す。また当時朝鮮を訪れていた日本の地方支配者(大名)使節の接遇方法も詳細に記されている。日本史琉球史の重要資料であるだけでなく、日本語史、琉球語史でも見逃せない資料を提供している。

壱岐国の沿革

 史料上の初見は、中国史書である三国志 (歴史書)のいわゆる魏志倭人伝に「一大國」としてある。『魏略』の逸文、『梁書』、『隋書』では一支國と記述される。

 古くは壱岐のほか、伊伎伊吉伊岐由紀由吉など様々に表記され、「いき」または「ゆき」と読んだ。令制国しての壱岐国が7世紀に設けられると、しだいに壱岐と書いて「いき」と読むことが定着した。壱岐国は、「島」という行政単位として壱岐島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。

国内の施設

国府

国府は石田郡にあった。壱岐市芦辺町湯岳興触の興神社付近ではないかと推測されるが、他にも場所は諸説あり遺跡もまだ見つかっていない。

島分寺・島分尼寺

壱岐国分寺跡
長崎県壱岐市芦辺町中野郷西触。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社7座7社・小社17座17社の計24座24社が記載されている。大社7社は以下に示すもので、海神社を除いて名神大社となっている。

転載元: 海洋文化交流/貿易振興

[転載]北九州 元寇資料館にはぜひ行きましょう。博多から一駅北の古塚駅から5分 福岡県庁の近く

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沿革

1904年(明治37年)に「元寇記念館」として設立されたが、これを東公園内の日蓮上人銅像護持教会敷地に移築して、1986年(昭和61年)に「元寇資料館」として再オープンした。

展示

展示室は元寇記念室と日蓮宗史、銅像史、武具の歴史、企画展示の二室からなり、元寇の際に鹵獲したモンゴル帝国軍の武器をはじめ、元寇に関する芸術品などが陳列されている。また、日清戦争で撃沈された清国海軍の戦艦「定遠」の護符も展示されている。

主な展示物

  • モンゴル型鎧
  • モンゴル型兜・短弓
  • 清国軍艦神符
  • 人形『侵略者を懲らしめる鎌倉武士』(白水六三郎・作)
  • 人形『日蓮上人佐渡流刑の景』(小島与一・作)
  • 絵画『元寇戦闘絵図』(矢田一嘯・画)
    • 元軍対馬襲来 島民を惨殺する之図
    • 元軍壱岐襲来之図
    • 壱岐守護代 平景隆一門自決する之図
    • 元軍九州博多再襲来之図  他


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元寇資料館
モンゴル型皮よろい

転載元: 海洋文化交流/貿易振興

[転載]沖縄の近世

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沖縄の近世

江戸幕府の明通商計画

 豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に、琉球へ兵糧米の供出を命じた。1603年江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府中国大陸と通航を考えるようになる。1602年に仙台藩領内に琉球船が漂着、徳川家康は彼等を送り返した。
 以後、家康への謝恩使の派遣と、日明貿易の仲介が琉球王府に繰り返し要求されたが、王府は謝名親方の反日思想に引きずられ、幕府の要求を一貫して無視した。これを受け、幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可した。

薩摩の侵攻

 第二尚氏第7代尚寧1609年3月4日樺山久高ら島津軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。3月8日奄美大島へ上陸した。大島は薩摩に非常に協力的で、物資補給も行った。この時点で琉球王府は天龍寺長老を大島に派遣して降伏しようとしたが、何故か薩摩軍と接触せず、失敗した。3月17日徳之島に13艘の先発隊が到達、一部で戦闘があったが速やかに制圧された。薩摩軍は3月26日沖縄本島北部の運天港に到達。27日、今帰仁城に向かったが、既に無人であった。またこの日、西来院菊隠が今帰仁に到着、正式に降伏を申し出た。
 これを受け、那覇で和睦の談合を行う事が決定した。しかし樺山は内心、琉球を信用しておらず、念のため主力は陸路で首里に向かわせる事とした。29日、海路で大湾に移動。4月1日、薩摩軍は軍使を那覇に向かわせる一方、主力は陸路で首里へ向かい、午後2時頃到着した。那覇では和睦調印が行われたが、首里では、薩摩軍の侵入によって混乱が生じた。これに対し、薩摩軍軍使・市来織部と村尾笑栖が首里に移動して尽力し沈静化。最終的に、摂政・三司官を人質として引き渡すのと引き換えに、首里侵入軍は那覇に退去した。島津軍は4月5日に首里城を接収し、5月半ばに尚寧と共に薩摩に帰った。

 翌1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。

 1611年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文を提出した。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。

 以後、尚氏代々の王は江戸幕府将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球ととの朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。すなわち、薩摩藩の密貿易である。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、にも朝貢を続けた。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させた。

王国の再建(羽地朝秀・蔡温らの改革)

 島津侵攻から約50年後の1665年羽地按司朝秀が摂政に就任し、疲弊した琉球を立て直すために一連の改革に乗り出した。羽地仕置(1673年)を制定して、人心の立て直しを図る一方、系図座を新たに設けるなど、王府機構の改革を行った。また、琉球初の正史『中山世鑑』を編纂した。他にも新たに行政区として間切を新設し、各間切には間切番所を設置するなどして地方改革も実施した。

 羽地朝秀の改革は蔡温へと受け継がれる。蔡温は、農作業の手引き書『農務帳』1734年を発布して農業生産の向上を目指し、治水・灌漑事業を実施して、全国の河川改修を行った。改修された河川は数十にも上った。蔡温は自ら現地へ赴き、改修事業を指揮するなど、多大な情熱を注いで農業改革を実施した。また、「元文検地」を実施して全国の耕地の測量調査を行った。他に、山林改革、王府財政の建て直しなども実施した。

 この頃、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が麻平衡・儀間親方真常によって確立され、黒糖は貿易のための商品作物となった。また、琉球独自の格闘技・唐手(後の空手)やヌンチャクも生まれ、琉球唐手からはトンファーも生まれた。
 羽地朝秀、蔡温、儀間真常は琉球の五偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

中継貿易の衰退

 幕末の頃から、琉球王国には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用する為、開国の要求を行うようになった。1844年イギリスフランスが通商を求めて琉球を訪れた。薩摩藩は幕府に対応を求めたが、阿片戦争1840年)の情報を受けていた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可し、1847年に薩摩が琉球を英仏に開港した。

 1853年には米国マシュー・ペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城入場を果たし、国王に米大統領からの親書を渡すことに成功した。続いてペリーは江戸幕府との交渉を行った。1854年3月31日嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結び、日本は開国した(黒船来航)。その帰路に再び首里城を訪れたペリーは、同1854年7月11日咸豊4年6月17日)に琉米修好条約を結んだ。

 清が海禁政策を緩和し、日本も開国したことで、江戸時代の鎖国下での4つの貿易ルート(松前藩 - 沿海州対馬藩 - 李氏朝鮮長崎 - 清・オランダ薩摩藩 - 琉球 - 清)から、開港5港に貿易ルートの中心が移った。そのため、琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失った。

 なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられる。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙ったが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まった。



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琉球征伐    

琉球征伐 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
戦争:琉球征伐
年月日慶長14年(1609年3月7日 - 同年4月5日
場所琉球王国(現・沖縄県鹿児島県奄美群島
結果薩摩藩の勝利、琉球の降伏
薩摩藩Japanese Crest maru ni jyuji.svg琉球王国Hidari mitsudomoe.svg
樺山久高
平田増宗
など
尚寧王
謝名利山
名護良豊
豊見城盛続
今帰仁朝容 
など
3,000人10,000(沖縄本島、4,000人)
100~200人[1]不明
復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島先島諸島
旧石器時代先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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  琉球征伐(りゅうきゅうせいばつ)は、薩摩藩1609年に行った、琉球王国(中山)に対する軍事行動を指す。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、戦闘はほとんど起こらなかった[2][3][4]

  名称については、一次史料肝付兼篤書状」には琉球国御征伐と明記されている。また「琉球入ノ記」という二次史料が存在するほか、一次史料「琉球渡海日々記」には琉球入番衆主取なる役名が見られる。本項では琉球入りという呼称に対する批判[5]を尊重し琉球征伐を用いる。琉球側の史料『中山世鑑』には己酉の乱と呼されている[6]
 なお、戦前よりの日本史学上での用語としては、征縄役が使われる場合が多かった[7]


原因

 1602年仙台藩領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還された。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山は最後までこれに応じなかった。1608年9月には、家康と徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて大慈寺龍雲らを遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず朝聘するよう諭したが、謝名利山は聴従せず、かえって侮罵に至り、大いに使僧を辱めた[8]。こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となった。

 このため、本事件の根本的原因については謝名の人格的要因のため[3]とされている。

 もっとも、16世紀の後半に戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求して、琉球側がこれを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあり[9]、その両者の緊張関係が琉球征伐の至る過程に大きく影響したと考えられている。

奄美大島へ

 薩摩軍は総勢3000人、80余艘であった。大将は樺山久高、副将平田増宗である。1609年2月26日[10]山川港に集結し、家久の閲兵を受けた後、順風を待って3月4日寅刻に出港した。同日亥刻、口永良部島に着く。6日辰刻に出船し、7日申刻には奄美大島に到着した。大島では戦闘は一切無く[10]、大島の現地首脳は中山を見限り、全面的に薩摩に協力していた[11][12]

 7日申刻に大島深江ヶ浦に着き、8日には周辺を打廻った[13]。薩摩軍は、笠利の蔵元に人衆が集まっていると聞いていたが、そんな人衆はおらず何事も無く終わったという[13]。彼等は悉く山林に逃げ隠れたため、ようようにして年寄どもを呼び出し、皆々安堵すべき旨を申し聞かせてから帰った[10]。薩摩軍は、しばらく深江ヶ浦に滞在したが、12日には出船し、大和浜を経由して16日には西古見に着く。ここで順風を待ち、20日卯刻に出船し、徳之島に向かった。

 中山は3月10日、薩摩軍大島到着の報告を受け、降伏を申し入れるべく天龍寺以文長老を派遣したが、接触すらなかった[3]。以文はどこかに隠れていて薩摩軍と出合わず、後で勘気を蒙ったとする史料がある[10]。なお、戦闘があったことが記載されている史料もあり[14]、これを支持する研究者もいる[15]

徳之島へ

 3月16日、13艘が徳之島へ先行した[13]。これに対し徳之島では一部島民が果敢に抵抗したが、速やかに制圧された[10]。かなぐまには2艘が漂着したが、何事もなかった。

 湾屋には17日、8艘の薩摩船が漂着した。約1000人がこれを包囲したが、18日、船から降りた薩摩軍が鉄砲を撃ちかけて撃破し50人を殺害した。
 秋徳では、薩摩船3艘が到着したところを攻撃されたが、20人から30人を殺害して制圧した。指導者の掟兄弟は棍棒、手下の百姓は竹やりや煮えたぎった粥でもって、果敢に接近戦を挑み、薩摩軍も一時海中に追いこまれる勢いであったが、庄内衆の丹後守が見事な精密狙撃で掟兄を射殺した事から形勢が逆転したという[14]。しかし薩摩側も庄内衆が6、7人打臥せられ(生死不明)、七島衆からは6人の死者が出た[14]

 徳之島には与那原親雲上なる王府役人も派遣されていたが、島民を見捨てて山中に隠れているところを発見され、22日に生け捕りになっている[13]
 本隊は20日申刻に秋徳港に到着した。21日、樺山を含む10艘のみが沖永良部島に先発した。残りは22日に山狩りを行った後、順風を待って24日巳刻に出発、同日日没ごろ、奄美大島と沖縄本島の中間地点にあたる沖永良部に到着、樺山と合流し、夜を徹して本島に向かった。

本島

 3月25日酉刻過ぎ、薩摩軍は沖縄本島北部今帰仁運天港に到着した。27日には今帰仁城に行ったが、空き屋だったので、方々に放火した[13]。薩摩軍が向かう前に逃げ落ちたという[10]

 薩摩軍が今帰仁に到着すると、西来院菊隠が和睦の使者に選ばれた[3]。菊隠は琉球人だが、若くして出家して日本に十数年遊学し、帰国後は円覚寺住職を勤め、この頃は老齢のために退職していた[2]。人選の理由としては、島津三殿と知り合い[3]、日本語に達者[2]との説がある。菊隠は最初は断ったが国王に重ねて召されたため、国恩に報いるべく、已むを得ず詔に応じたという[2]

 『行向て無為和睦を申調られよ』との詔を奉じた菊隠使節団は、26日辰刻に陸路で出発した[3]。随行の人員には名護親方や喜安などがいた。26日午刻に久良波に着くが、ここで今帰仁までの道は敵で満ちており通れないと聞いた一行は、久良波から漁師の舟を出させて恩納に行った。27日払暁、恩納より船で出発、親泊で一時停泊して、「使者を出して趣意を述べさせる」案を議論していたところ、薩摩船一艘がやって来た。この船に乗り移り今帰仁に着いた[3]
 菊隠の趣意について兼篤は、「ただ合戦を止められるべし、進退は宣く乞に随うべし(進退はおっしゃる通りにいたします)」とし、さらに菊隠到着直後に、またまた使僧が到着したことも報告している[10]。運天で決定したのは、那覇で和睦の談合を行うという事であった。この結果、名護親方が人質になった[3]

 29日早朝[13]、菊隠は薩摩船団とともに運天を出港、同日酉刻大湾に着く。菊隠使節団のみすぐ再出港して亥刻に牧港に着いた。そこから徒歩で夜更けに首里城到着。報告を済ませて夜明け頃には那覇に下って待機した。

 運天での和睦申し入れを受けて、樺山は悉く那覇港に行くつもりであったが、ここで那覇港の入り口に鉄鎖が張ってあると聞いた。そこで4月1日、樺山は数人の物主を船で那覇港に向かわせる一方、残りは総て陸に挙げ[16]、1日卯刻、首里への行軍を開始した[10]。この頃、和睦の旨を万が一にも違えじということで、具志頭王子が大湾の沖まで出向いたが、薩摩軍は既に陸地から発向した後だったので虚しく帰った[10]

 薩摩軍は浦添城龍福寺を焼き払いつつ首里に接近した[3]。情報に基づいて、太平橋に宗徒の(むねと。中核となる侍)百余人を配置したところ、会敵には成功したが、雨のように鉄砲を打ちかけられ、城間鎖子親雲上盛増(城間盛久の長男)は被弾してそのまま首を取られ、その他全員は戦意喪失して首里城に逃げ込んで終わった。一方で中山王府の御典薬を勤めていた山崎二休なる越前人が、首里城のアザナに立てこもって法元弐右衛門の部隊を撃退した[17]
 このような戦闘行動について、小湾浜にいて、那覇首里の様子を聞き合せようとの議定だったが、足軽衆が首里へ差し掛かり、鉄砲を取合い、特に方々に放火したので、計らず軍衆は首里近く差し掛かったとする史料[13]があり、足軽衆が発砲して放火したものの、その他の軍衆については、あくまで仕方なく首里に接近しただけであると薩摩側では主張している。大湾・首里間で「和平を成するに狼藉然るべからず」との下知があった、そのうちいよいよ和議が成ったので諸軍勢は那覇に入った[10]

 4月1日未刻、薩摩船が那覇港に入り、和睦の調があった。列席者は薩摩側:大慈寺、市来織部、村尾笑栖。琉球側:具志上王子尚宏、西来院(菊隠)、名護、池城安頼豊美城續、江栖栄真、喜安、津見などであった。するとにわかに「首里で火事だ」と騒がしくなった。「昼なのだから、手あやまりによる火事ではない。敵が攻めてきて火をかけたのだろう」と思われた。止めてくるといって、市来織部と村尾笑栖が首里まで駆け上がり、程なくして静まった。
結局、首里侵入事件は、摂政・具志上王子と

転載元: 海洋文化交流/貿易振興

[転載]港川人&沖縄県立博物館

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港川人

   
港川人の復元模型。国立科学博物館の展示[1]。模型制作時は港川人は縄文人の祖先と思われていたため、日本人に似せて模型が作成されたが、後年、最新機器を使った人骨再調査によりこの模型とは異なり、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い復元図が発表された [2]

 港川人(みなとがわじん、Minatogawa people)は、約20000~22000年前に日本沖縄県に存在していたとされている人類
港川人(港川1号)の化石(レプリカ)。国立科学博物館の展示。

 1967年[2]から1970年[5]、沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場で骨が発見された。この人骨は、全身骨格の形で残っている日本の人骨の中で最も古いものである[3]

 身長は男性で約153〜155cm[6]、女性で約144cm[要出典]であった。全体的に小柄で腕は細めで胴長なのに対して手は大きく、下半身がしっかりとしていたとされている。また、顎ががっしりしていて、硬いものも食べていたとされている。

 かつて港川人は縄文人の祖先ではないかと考えられてきた[7]が、2009年の研究で、港川人を縄文人の祖先とする考えに疑問を投げかけるような分析結果が出ている。港川人は現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いのではないかという説である。 国立科学博物館の海部陽介研究主幹によると、港川人は本土の縄文人とは異なる集団だった可能性がある。つまり、港川人は5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来したことになる。その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたのではないかと述べられている[2][5]

 沖縄県立博物館・美術館には「港川人復元像」が所蔵されている。また、八重瀬町立具志頭歴史民族資料館には、常設展示の1つとして港川人コーナーがあり、全身骨格のレプリカやこれまでの研究成果が紹介されている。
2014年には、港川と近距離の沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡で少なくとも9000年以上前の人骨が発掘され、調査が進められている[3]

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港川(みなとがわ)採石場跡にある旧石器時代の遺跡。1967年~1972年にかけて、大山盛保氏によって港川石のフィシャー(石灰岩)内から約1万8000年前のものと推定される化石人骨が発見され、「港川人」と名付けられました。発掘された化石の骨格から、港川人は発達した筋肉を持ち、背の低いがっしりとした体格であったことがわかります。




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ホーム > ご利用案内 > 交通・時間・料金

沖縄県立博物館・美術館交通・時間・料金

1 ご案内

主な交通
沖縄モノレール・バス・タクシー
路線バス
おもろまち駅前下車(琉球バス、沖縄バス、那覇交通)
バス
那覇空港発 99番線 おもろもまち3丁目バス停下車 徒歩5分
那覇空港発 120番線 上之屋バス停下車 徒歩10分
市内線 3・7・10番線 県立博物館前バス停下車
市内線 6番線 那覇メインプレイス東口バス停下車 徒歩5分
市外線 バイパス経由 おもろまち駅前バス停下車  徒歩10分
おもろまち行 おもろまち1丁目バス停下車  徒歩3分
沖縄都市モノレール
ゆいレール おもろまち駅下車 徒歩10分
中北部から
空港線及びおもろまち行各社バスで交通広場下車徒歩5分
南部から
バスターミナルから沖縄モノレール乗り換えおもろまち下車徒歩10分
空港から
沖縄モノレールおもろまち下車徒歩10分
タクシーで、博物館・美術館まで、約30分



常設展(総合展示)

 常設展は、総合展示と専門分野ごとの部門展示からなり、沖縄の自然・歴史・文化を、「海洋性」と「島嶼性」という二つの側面から読み解いていきます。
古来より、沖縄の島々は海によってたがいに隔てられると同時に、海によってアジア、太平洋地域と深く結びつけられてきました。島には固有の自然があり、人々の営みがあり、そのひとつひとつが沖縄県の特徴ある自然・歴史・文化を形作っています。島に息づく豊かな自然と、島をとりまく海を媒介とした人々の営みを紹介するとともに、トー(唐:中国)とヤマト(日本)との間で花開いた琉球王朝文化、そして目まぐるしい世替わりを体験してきた沖縄の近代史と戦中、戦後史を射程に入れ、常設展のメインテーマを「海と島に生きる-豊かさ、美しさ、平和を求めて-」としました。

総合展示

 常設展へのアプローチでは、イノー(ラグーン)に広がるサンゴ礁を足元に見ながら、あたかも島に上陸するような感覚を体験することができます。そして正面のサークルホールでは、琉球列島の成り立ちと生物の進化をテーマとした映像とともに、1万8千年前の原始の沖縄に暮らした港川人とその時代の動物相の再現模型が展開します。
  これに続く総合展示では、「海で結ばれた人々」から「沖縄の今、そして未来へ」まで各テーマに沿って、沖縄の豊かな自然と海からの恵み、そしてそこにくらした先人たちの歴史・文化をたどっていきます。


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 また、展示室中央に設けられた「シマの自然とくらし」のコーナーには、鹿児島から台湾まで東西1000キロ、南北400キロの海域に散在する琉球列島の大小の島々を壮観できる大型ジオラマを配置し、島々の特徴ある自然・歴史・文化を情報端末機を用いて紹介しています。また、人工衛星によって撮影された画像を用いて、島々を観察することができます。

プロローグ ニライカナイの彼方から

 常設展へのアプローチです。足下にサンゴ礁を見ながら、沖縄へ上陸するイメージを演出しています。

1 海で結ばれた人々
サークルホールの展示

 「化石の宝庫・沖縄」から発見された、さまざまな化石を展示しています。クジラやアンモナイトなど、原始の海にくらした生き物をはじめ、1万8千年前の日本人のルーツと目される「港川人」や、その頃に生きていたリュウキュウジカ、ヤンバルクイナなどの化石が、ステージ上に展開します。また、正面のスクリーンでは、古生代から現在に至るまでの琉球列島の地史を映像で概観し、沖縄の自然・歴史・文化の旅へと誘います。

       
古我地原貝塚模型
 うるま市石川で発見された古我地原貝塚の発掘調査にもとづき、縄文人の生活を復元しています。東側に海を望む台地上に、小さなグループで暮らしていた縄文人たちの竪穴式住居や、ゴミ捨て場である貝塚など、縄文人の生活をみることができます。

2 貝塚のムラから琉球王国へ

 
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   グスク時代になり、それぞれの地域に有力者が登場するようになると、防御などを目的とした、さまざまなグスクがつくられていきます。また、有力者たちは中国への朝貢を通して文化の移入や交易に努め、富が築かれていきました。各地の勢力は、やがて北山、中山、南山の3つに収斂し、激しい抗争を繰り広げます。これらの3つの勢力は、15世紀はじめまでに尚巴志によって統一され、琉球王国が築かれました。ここからおよそ500年の長きにわたり、首里を拠点とする王国の歴史がはじまります。


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概要

 江戸上りは、薩摩琉球侵攻後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた。これらには、琉球国王即位の際に派遣される謝恩使と、幕府将軍襲職の際に派遣される慶賀使とがあった。
なお、1873年明治維新の慶賀使が上京したが、これは通常「江戸上り」としては数えない。

旅程・道中

天保3年(1832年)の琉球使節

 六月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関より船で瀬戸内海を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは十一月ごろである。1~2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。ほぼ一年掛かりの旅であった。

 その道中は「異国を支配する薩摩藩」および「異国からの使節の来訪を受ける幕府」を前面に出すことによって両者の権威高揚に利用された。

文化交流

 使節には、琉球音楽を演奏したり琉球舞踊を踊るための要員も含まれており(御座楽の項を参照)、特に路次楽は江戸上りのルート上にある地域の農村芸能にも影響を与え、また将軍や幕閣の前でも披露された。その他、随行員には和歌・茶道をはじめとする諸芸能に通じている者も派遣されており、これらの人的交流を通して中国と日本の文化が渾然一体となった琉球独自の文化が形作られていった。

江戸上り18回の詳細

  • 第1回の江戸上りでは、実際は京都に滞在し、江戸下向はなかった。
  • 第1回・第7回・第8回は慶賀使と謝恩使が同時に派遣された(下表参照)。
  •  第11回の慶賀使の薩摩藩側の引率者は平田靱負
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3 王国の繁栄

 琉球王国は独自の国家として成立しましたが、国内権力基盤の不安定さによって、第一尚氏から第二尚氏へ王統の交代が起こりました。この時代、中国との冊封・朝貢貿易を確立していた琉球は、中国・日本・東南アジアをつなぐ中継貿易を行います。東アジアの大海原の架け橋として船を操り、国際色豊かな産物が国中にあふれるさまを謳った旧首里城正殿鐘の銘文は、往事を偲ぶ貴重な資料です。ここでは、東アジア有数の貿易国家として繁栄したあと、より強固な国家体制がつくられた琉球王国の時代を紹介します。

4 薩摩の琉球支配と王国

 1609年、薩摩島津氏の侵攻によって琉球は江戸幕府の影響下に置かれましたが、中国との関係は引き続き維持されました。羽地朝秀、蔡温など政治家の強力なリーダシップによって、王国の経営が行われ、近世文化が創造されていきます。
  またこの時代、貝摺奉行所などによって優秀な工芸品が多くつくられるとともに、「中山世鑑」、「球陽」などの歴史資料が数多く著されました。


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 琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、沖縄本島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。

 最盛期には奄美群島沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。
勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国海禁日本鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国[1]との深い結び付きが知られる。 

 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けたりしていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。


5 王国の衰亡

 中国・日本という両大国との関係を維持しながら、王国を維持してきた琉球ですが、19世紀に入ると矛盾が深まります。農村の疲弊や首里王府の財政難などが原因で、王国の経営は行き詰まりが顕著となりました。さらに、アジア進出を目指す欧米諸国の外圧が琉球に押し寄せ、王国は危機的な状況に陥ります。


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転載元: 海洋文化交流/貿易振興


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仏道修行

 延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した[7]。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多い。しかし吉野金峰山四国石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。さらに中国語梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。

 ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されている。
 このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのはだけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかといわれている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。

 空海の得度に関しては、延暦12年(793年)に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、現在では、延暦23年(804年)、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知った、入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。無空や教海と名乗った時期があるとする文献もある。

入唐求法

  延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)としてに渡る。入唐(にっとう)直前まで一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している。伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもあるが定説はない。

第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。

 同年5月12日難波津を出航、博多を経由し7月6日肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。

 空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している(風信帖#入唐を参照)。同年11月3日長安入りを許され、12月23日に長安に入った。

 永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。
長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。

 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し[8]、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。

 8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。

 8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。

 同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(延暦25年、806年1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。

 そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。

 途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開たため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという[9]

虚しく往きて実ちて帰る

 「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。

 大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。

 空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。

 空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないが、大同元年(806年10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。

大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていた。


大宝寺(だいほうじ)は、長崎県五島市玉之浦町にある高野山真言宗の寺院である。
福江島の南西端、遣唐使が唐へ向かう際の最終寄港地であった玉之浦町にある。701年大宝元年)の創建と伝えられ、五島では最も古い歴史を持つ寺である。
遣唐使に随行してへ留学した空海が帰朝途次に立ち寄り、真言秘法を修したといわれる。
境内にある梵鐘応安8年(1375年)につくられたもので豊前小倉の鋳物師藤原顕宗の作。長崎県有形文化財に指定されている。

明星院 (五島市)

   
明星院 所在地 位置 宗旨 宗派 本尊 正式名 札所等 文化財
Gotoh fukue myohjohin02.jpg
五島市吉田町1905番地
北緯32度40分57.8秒
東経128度49分19.5秒
座標: 北緯32度40分57.8秒 東経128度49分19.5秒
真言宗
高野山真言宗
虚空蔵菩薩
明星院
五島八十八カ所霊場第一番札所
銅造如来立像
本堂
木造阿弥陀如来立像
テンプレートを表示
明星院(みょうじょういん)は、長崎県五島市にある高野山真言宗の仏教寺院。五島の真言宗本山
本尊は虚空蔵菩薩。五島八十八カ所霊場第一番札所。本尊は秘仏とされており容易に見る事はできない。

歴史

明星院の名は弘法大師空海により命名されたと伝えられている。 中国から帰った空海が明星院に虚空蔵菩薩が安置してあると聞き赴き、虚空蔵求聞持法にて真言「ナウ ボゥ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ」を100万回唱え終えた日の未明、明けの明星(火星)から凄まじい光が差すのをのを見て「中国で収めた密教が今後の日本の済世利民に役立つ事の仏の証明を頂いた」として大変お喜びになり、この寺を「明星院」と名づけたという。
五島では最も古くからある寺院で空海により真言宗へ改宗し、五島列島の大半を治めた福江藩五島氏代々の祈願寺とされ栄えた。

寺院

 注目すべきは、本堂の入り口上部の飾り彫りが龍や雲などではなく「象」である事。空海、最澄が帰国する前から存在している寺のためインド仏教の影響を伺える。
 本堂の天井には様々な仏教画が格天井に描かれており、四隅には「迦陵頻伽(かりょうびんが)」が描かれている。
 住職曰く「迦陵頻伽(かりょうびんが)」の美声を聞くと一瞬にして悟りを開いてしまうと言われている。
さらに、本尊側から本堂入り口に向かって格天井を見ると(通常は入れません)格天井の仏教画の色が光の加減で鮮やかになり、さらに美しく映える。

 また、かつては拝観料がかかっていたが、現住職になられてから(2010年10月現在)拝観料は無料になっている。

人々が迎えようとしていたのは、新しい住職だけではない。百年に一度しか拝観できない秘仏の特別御開帳を、今か今かと心待ちにしていた。厳かな読経とともに、普段は固く閉じられた厨司から「本尊虚空蔵菩薩」(ほんぞんこくぞうぼさつ)がお姿を現した。人々がそっと手を合わせる。
この仏さまは、百年に一度ご開帳されるはずだったが、公式の記録が残されておらず、前回は三百年前とも四百年前ともと伝えられている。秘仏のため、調査がされていないことから、作られた時期など詳しいことも謎に包まれている。
また、あわせて国指定重要文化財である「銅造薬師如来立像」(どうぞうやくしにょらいりゅうぞう)もご開帳された。こちらは高さ30センチほどで、飛鳥時代に作られた九州最古級の仏像。五十年に一度ご開帳されることになっており、今回の特別御開帳で27年ぶりのお目見えとなった。
この日、僧侶たちは万民の安泰を祈願して護摩焚きを行った。読経とともに火柱が高く上がると、炎の中に仏さまが見えてくるよう。秘仏を参拝した人たちは、熱心に護摩焚きを見守っていた。

 五島市三井楽(みいらく)



 五島市三井楽(みいらく)は、「肥前国風土記」に『美弥良久(みみらく みねらく)の崎』として登場する、遣唐使船最後の寄港地であるといわれています。遣唐使たちはこの柏崎を日本の見納めとし、決死の覚悟で東シナ海へと漕ぎ出していきました。その心境を記した空海の名文“日本最果ての地を去る”という意味の「辞本涯」の碑や、遣唐使として旅立つ我が子の無事を祈る母の歌を刻んだ碑が建立されています。この地に立って、大海原を眺めながら詠んでみると、とても感慨深いものがあります。
 江戸時代に入ると、五島は捕鯨で栄えますが、この柏地区にも捕鯨の一団が移住してきて、冬場だけを猟期として活躍したそうです。当時は、「鯨一頭捕れれば七浦潤う」といわれ、五島藩財政にとっても重要な資源でした。しかし、鯨の減少により幕末にはほとんどの鯨組が解散しました。




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性霊集』(しょうりょうしゅう)は、空海弘法大師)の漢詩文集。10巻。編者は弟子の真済。成立年不詳。

  正しくは『遍照発揮性霊集』(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)。空海の詩、碑銘、上表文、、願文などを弟子の真済(しんぜい)が集成したもので、10巻からなる。正確な成立年は不明だが、遅くとも空海が没した承和2年(835年)をさほど下らない時期までに成立したとみられ、日本人の個人文集としては最古。

 10巻のうち巻八〜巻十の3巻ははやくに散逸し、現『性霊集』の巻八〜巻十には、承暦3年(1079年)、仁和寺済暹が空海の遺文を収集して編んだ『続遍照発揮性霊集補闕鈔』3巻が充てられている。なお、済暹の『補闕鈔』は、散逸した巻八〜巻十そのものの復元を図ったものではないし、後世の偽作と今日では判定されている作品もいくつか含んでいる。

 『性霊集』の序文によれば、真済は、師空海が一切草稿を作らず、その場で書き写しておかなければ作品が失われてしまうため、空海作品を後世に伝えるべく、自ら傍らに侍して書き写し、紙数にして約500枚に及ぶ作品を収集した。そして、これに唐の人々が師とやりとりした作品から秀逸なものを選んで加え、『性霊集』10巻を編んだという。一般的には、『性霊集』の編纂過程は、この序文の内容に即して理解されている。

 しかしながら、真済が15歳で出家し空海に弟子入りしたのは 弘仁5年(814年)なのに、入唐時などそれ以前の作品も『性霊集』に多数収録されている。序文には、真済が書写する以前の作品がどのように収集されたのか、説明されていない。

 飯島太千雄は、空海が入唐時から、将来の文集編纂を企図して自らの作品の写しを取っていたほか、個々の作品に表題を付して10巻に編む最終的な編纂作業にも関与していたと推定している。
 巻五の収録作品と同じものが単体の巻子本として伝存する「越州節度使に請ふて内外の経書を求むる啓」「本国の使に与へて共に帰らんと請ふ啓」は、筆跡などから空海真跡の控文と判定でき、さらに余白に付された表題も空海真跡とみられ、最終的な編纂作業に空海が関与していたことが窺えるという[1]

 空海は24歳のときに著した処女作『聾瞽指帰』の序文で、従来の中国と日本の文学を痛烈に批判し、文学における芸術性と真理の両立を理想として掲げている。そして、その文学改革の志は、『性霊集』巻一の冒頭「山に遊んで仙を慕ふ詩」の序でも表明されている。
 文学の改革者たらんとしていた空海が、自らの作品を後世に残そうとしなかったはずがないし、収録作品の選択や配列といった最終的な編纂作業に、空海が関与していた可 能性も十分考えられよう。

『性霊集』の真済編纂分である巻一から巻七までのうち、年代の明らかな作品で最も新しいのは、天長5年2月27日828年3月17日[2]の「伴按察平章事が陸府に赴くに贈る詩」(巻三)である。弘仁14年1月20日823年3月6日)の日付をもつ「酒人内公主の為の遺言」(巻四)を、酒人内親王が没した天長6年8月(829年9月)のものとし、これを下限とする説もある。いずれにせよ、『性霊集』は年代順でなく作品の種類別に編集されているので、失われた巻八〜巻十により年代の新しいものがあった可能性は乏しく、天長5、6年(828、829年)が下限と見られる。それが想定できる成立年代の上限となる。
成立年代をめぐる主な説は以下のとおり。
『性霊集』は真済と空海の共同編集であるとの見地から、高雄山で真済が空海から密教の奥義を授けられた(その記録が『高雄口訣』といわれる)と伝えられる期間に編纂されたとするもの。
  • 天長9年(832年)から承和2年3月(835年4月)の間で空海在世中[4]
序文に「西山禅念沙門真済撰」とあることから、真済が高雄山=西山に住した天長9年以降[5]とし、「執事年深くして、未だその浅きを見ず」とあることから、現に真済が空海に師事していた間、すなわち空海存命中とするもの。
  • 承和2年3月(835年4月)の空海入滅直後[6]
序文に「謂ゆる第八の折負たる者は吾が師これなり」とあり、空海を密教の第八祖としていること、「大遍照金剛」と空海を尊称していることから、空海没後とするもの。
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トップページ > 空海の生涯 > 入唐留学 > 034 既ニ本涯ヲ辞ス

034 既ニ本涯ヲ辞ス

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きるのである。

 列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。
 この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つのである。
 風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのである。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。

 やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。
 久賀島の田ノ浦を出帆したということについては『性霊集』では、
「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。
(司馬遼太郎『空海の風景』)






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[転載]遣唐使を五島列島福江島の道の駅で感じる

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遣唐使   

遣唐使(けんとうし)とは、日本に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。
 中国では619年が滅びが建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。現在では中国側において派遣された遣唐使の墓が発見されたりしている。

  上海万博に際し復元された遣唐使船

遣唐使の目的

  海外情勢や中国の先進的な技術や仏教経典等の収集が目的とされた。旧唐書には、日本の使節が、中国の皇帝から下賜された数々の宝物を市井で全て売って金に替え、代わりに膨大な書物を買い込んで帰国していったと言う話が残されている。

 第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。本来、朝貢は中国の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。
  • 貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)

  • 太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)
 なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用しており、中国の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在しない。
 むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、日本が新羅より席次が下とされる事件があった。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。

 その後、唐僧維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。

 遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であったの文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。

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回数

 回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
他に14回、15回、16回、18回説がある。

次数 出発 帰国 使節 その他の派遣者 船数 備考
遣唐使派遣一覧
1舒明2年
630年
舒明4年
632年
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日  唐使高表仁来日、僧帰国
2白雉4年
653年
白雉5年
654年
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使)道昭定恵2第2船が往途で遭難
3白雉5年
654年
斉明元年
655年
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) 2高向玄理は帰国せず唐で没
4斉明5年
659年
斉明7年
661年
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使)伊吉博徳2第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される
5天智4年
665年
天智6年
667年
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日
(6)天智6年
667年
天智7年
668年
(送唐客使)伊吉博徳 唐使法聡を送る。唐には行かず?
7天智8年
669年
不明河内鯨(大使)  第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
8大宝2年
702年
慶雲元年
704年
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使)山上憶良道慈4 
9養老元年
717年
養老2年
718年
多治比縣守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使)阿倍仲麻呂吉備真備玄井真成4 残留した留学生を除き、使節は全員帰還。
10天平5年
733年
天平6年
734年
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)平群広成大伴古麻呂4帰路、第1船の多治比広成は種子島に帰着(吉備真備・玄)。第2船の名代は唐に戻され、翌天平7年(735年)に帰国。第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず
(11)天平18年
746年
-石上乙麻呂(大使) -停止
12天平勝宝4年
752年
天平勝宝6年
754年
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) 4鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず
13天平宝字3年
759年
天平宝字5年
761年
(迎入唐大使使)高元度・(判官)内蔵全成1藤原清河を迎えるために派遣され、渤海路より入唐も安史の乱のため清河の渡航を止められ、目的果たせず。内蔵全成は渤海路より帰国。高元度は唐からの送使沈惟岳と共に761年に大宰府に帰国。
(14)天平宝字5年
761年
-仲石伴(大使)・石上宅嗣(副使)・藤原田麻呂(副使)  船破損のため停止
(15)天平宝字6年
762年
-(送唐客使)中臣鷹主・(副使)高麗広山 唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止。その後、沈惟岳は日本に帰化し、姓と官位が与えられた。
16宝亀8年
777年
宝亀9年
778年
小野石根(持節副使)・大神末足(副使)
佐伯今毛人(大使)・大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使)
 4大使佐伯今毛人、病と称し行かず。大伴・藤原両副使は更迭。第1船、帰途で遭難し副使小野石根、唐使趙宝英死亡。大伴継人と藤原清河の娘の藤原喜娘は漂流の後、来日。
17宝亀10年
779年
天応元年
781年
(送唐客使)布施清直多治比広成2唐使孫興進を送る
18延暦23年
804年
大同元年
806年)10月
藤原葛野麿(大使)・石川道益(副使)最澄空海橘逸勢霊仙4石川道益、唐で没。往途、第3船、肥前松浦郡で遭難
19承和5年
838年
承和6年
839年
藤原常嗣(大使)
小野篁(副使)
円仁藤原貞敏長岑高名4承和3年・承和4年とも渡航失敗。その後小野篁、病と称し行かず流罪。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船、南海の地に漂着。知乗船事菅原梶成、大隅に帰着
(20)寛平6年
894年
-菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使)  停止。ただし大使の任は解かれず。
  • 次数は20回説を採用。
  • ()は入唐しなかった遣唐使。
  • 送使・迎使など正式な朝貢の使いでない役職は人名の前に付した。
  • 『日本三代実録』貞観16年6月17日(874年8月2日)条にある朝廷が香薬調達のために大神己井多治安江らを唐に派遣した一件も遣唐使に加えるべきとする説もある[1]

歴史

  日本が最初に遣唐使を派遣したのは、舒明天皇2年(630年)のことである。推古天皇26年(618年)のの滅亡と続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、聖徳太子蘇我馬子・推古天皇と国政指導者の相次ぐ崩御・薨去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、高句麗は唐成立の翌年、新羅と百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。
 唐は帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の言葉を伝える役目を果たせずに帰国した(争った相手については『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王とする)。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での賓礼以降、帰国までの記事が欠落すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを暗示している。
 詳細は不明であるが、唐側が日本への冊封を意図して日本がこれを拒んだなどのトラブルが想定されている。その後、しばらく日本からの遣使は行われず、唐側も突厥高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる。

 その後、白雉4年(653年)から天智天皇8年(669年)まで6度の遣唐使が相次いで派遣されているが、朝鮮半島情勢を巡って緊迫した状況下で行われた遣使であった。
 地理的に唐から離れていた日本は国際情勢の認識で後れを採り、特に斉明天皇5年(659年)の第4次遣唐使は唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって抑留され、2年後に解放されて帰国するまでの間に日本側では百済救援のために唐との対決を決断する(白村江の戦い)。

 その後の遣使は両国の関係改善と唐による「倭国討伐」の阻止に向けた派遣であったと考えられる。やがて、唐と新羅の対立が深まったことで危機的状況は緩和され、日本側も壬申の乱の混乱とその後の律令体制確立への専念のために再び遣使が行われなくなる。

 遣唐使の歴史にとって大きな画期になるのは、大宝2年(702年)に派遣された遣唐使である。日本側の遣使の意図は不明(一時期有力視された石母田正の「大宝律令を唐側に披露した」という説は、唐王朝は周辺諸国の律令編纂を認めなかったとする説が有力となったことから成立困難となっている)だが、当時則天武后の末期にあたり、唐(当時は「」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。

 日本国号変更(「」→「日本」、どちらも同じ国号「やまと」だが漢字表記を変更)が通告されたのもこの時と推定されているが、記録の不備あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったとみられている。

 8世紀になると東アジアの情勢も安定し、文化使節としての性格を強めていく。この時代には唐側は日本の遣唐使を朝貢使とみなして「20年1貢」を原則としたが、日本側は天皇の代替わりなどを口実にそれよりも短期間での派遣を行った。
 また、宝亀6年(775年)の遣唐使の際には唐の粛宗の意向で帰国する遣唐使に随行する形で唐側からの使者が派遣されている(ただし、大使の趙宝英は船の難破によって水死し、判官が代行の形で光仁天皇と会見している)。その一方で、正史や現行の律令など唐王朝にとって重要な書籍・法令などは持ち出しが禁じられており、また遣唐使を含む外国使節の行動の自由は制約されていた。

 9世紀に入ると遣唐使を取り巻く情勢が大きく変わってくる。まず、唐では安史の乱以後、商業課税を導入した結果、国家の統制下とは言え民間の海外渡航・貿易が許されるようになったことである(これは新羅に関しても同様で、9世紀前半の張保皐の活動はその代表的な存在である)。

 また、安史の乱以後の唐の国内情勢の不安定が外国使節の待遇にも影響を与え、延暦23年(804年)の遣唐使の時には唐側から厚く待遇されて帰国を先延ばしにすることを勧められる程(『日本後紀』延暦24年6月乙巳条)であったが、承和5年(835年)の遣唐使の時には唐側より遠回しに早急の帰国を促され留学生に対しても留学期間の制限を通告される(円仁『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条)などの冷遇を受けた。

 一方、日本側の事情としては遣唐使以外の海外渡航を禁止していた「渡海制」の存在も影響し、遣使間隔が空くことによって渡海に必要な航海技術造船技術の低下をもたらし、海難の多発やそれに伴う遣使意欲の低下をもたらした。
 結果的には「最後の遣唐使」となった承和5年(835年)の遣唐使は出発に2度失敗し、その間に大使藤原常嗣と副使小野篁が対立して篁が乗船を拒否して配流され、帰国時にもその航路を巡って常嗣と判官長岑高名と対立するなど諸問題が一気に露呈した。

 更に留学生・請益生(短期留学生)を巡る環境の悪化も問題として浮上していた。元来留学生は次の遣使(日本であれば次の遣唐使が派遣される20-30年後)まで唐に滞在し、費用の不足があれば唐側の官費支給が行われていたが、承和の留学生であった円載の時には官費支給は5年間と制約され、以後日本の朝廷などの支援を受けて留学を続けた(なお、円載の留学は40年に及んだが、帰国時に遭難して水死する)。また、留学――現地で長期間生活する上で必要な漢語(中国語)の習得に苦労する者も多かった。
 天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語(通訳)を務め、橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており(『性霊集』巻5「為橘学生与本国使啓」)、最終的に2年間で帰国が認められている[7]

 唐の衰退による政治的意義の低下、唐・新羅の商船による文物請来、留学環境の悪化など、日本国内の造船・航海技術の低下など、承和の遣唐使とそれに相前後する状況の変化は遣唐使を派遣する意義を失わせるものであり、寛平6年(894年)の遣唐使の延期とその長期化、ひいては唐の滅亡による停止(実質上の廃止)に至る背景が延暦・承和の派遣の段階で揃いつつあったと言える[6]

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航路と遣唐使船

遣唐使の航路

 遣唐使船は、大阪住吉住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川。細井川停留場)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て、那津福岡県福岡市博多区)に至り大海を渡る最後の準備をし出帆。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。
  1. 北路
    • 北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルート。
    • 630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢の変化により使用しなくなった。
  2. 南路
    • 五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。
    • 702年から838年までの航路。
  3. 南島路
    • 薩摩坊津鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。
    • 杉山宏の検討により、存在が証明できないことが判明している。気象条件により南路から外れた場合にやむを得ずとった航路と考えられ、南路を取って漂流した結果に過ぎず採用の事実はないとする説もある。

 663年白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、676年唐・新羅戦争新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため唐と新羅の関係が悪化し、日本は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から日本に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。

 839年の帰路は、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。

 遣唐使船はジャンク船に似た構造で帆を用いていた。耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人程度が乗船した。

 後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に佐伯有清は遣唐使船の大型化、東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げている。東野によれば、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたという。
 しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。


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遣唐使の行程

 羅針盤などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置を確認した上で近くの州県に赴いて現地の官憲の査察を受ける必要があった。
 査察によって正規の使者であることが確認された後に、州県は駅伝制を用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、安史の乱以後は安全上の問題から長安に入れる人数に制約が設けられた事例もあった。長安到着後は「外宅」と称される施設群が宿舎として用いられた(日本の鴻臚館に相当する)。

 長安に到着した遣唐使は皇帝と会見することになるが、大きく分けて日本からの信物国書があればともに)を奉呈する儀式の要素が強い「礼見」と内々の会見の要素が強い「対見」、帰国の途に就く際に行われた「辞見」が行われた。前者は通常は宣政殿にて行われ、信物の受納と遣唐使への慰労の言葉が下されるが、皇帝が不出御の場合もあった。後者は皇帝の日常生活の場である内朝(日本の内裏に相当する)の施設で行われ、皇帝からは日本の国情に関する質問や唐から日本に対する具体的な指示・意向が示され、遣唐使からは留学生への便宜や書物の下賜・物品の購入の許可などの要請がなされたと考えられている。
 また、遣唐使の滞在中に元日の朝賀朔旦冬至が重なった場合には関連行事への参列が求められ、その後の

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 カネミ油症被害者の提訴は、関係者の思惑から全国統一訴訟団と油症福岡訴訟団にわかれて提訴された。
全国統一訴訟は国を相手にしていたが、福岡訴訟団は時間節約を目的として国を外しカネカ・カネミ倉庫を相手とした。
和解終結後の認定患者に対してはカネミ倉庫は訴訟患者の和解条件と同様の取り扱いをしているが、医療費自己負担分の支払い、一律23万円の一時金、死亡時3万円の葬祭料の支払い。
鐘淵化学工業(カネカ)は新規認定患者約80人に対しては和解金300万円を支払っていない。理由として訴訟時に原告であった人だけを対象としてカネカに責任は無いとする条件で和解した為その後の認定患者への責任は無いとしている。

一方、水俣病では、チッソと一部の患者家族との間で,いわゆる見舞金契約が締結されました。この見舞金契約はわずかな補償と引き換えに将来新たな補償金の要求は一切行わないという内容でした。
 この見舞金契約は被害者の窮状と孤立に乗じて,被害者に無理矢理押しつけられたものといえます。この見舞金契約は,後の裁判(水俣病第1次訴訟熊本地裁判決)において,公序良俗に反し無効と断罪されました。


 野母商船 太古予約 は7日前なら予約金は不要です。   グリーン寝台

一日目

【2等自由席(スタンダード和室)利用】
*船内レストラン食事券(500円分)付き

大人おひとり様 7,400円
 

 16:35JR住吉着 16:48 JR住吉駅バス発、17:10港着 乗船

 18:30  阪九夜行フェリー 出港 船中泊  7400+1000+1000

2日目


 6:00 新門司港着 6:30 JR門司駅着

 

博多港へバスをご利用のお客様

  • ●JR博多駅前よりバスで15分 博多ふ頭行き「博多埠頭」下車
  • ●西鉄福岡駅前よりバスで12分 博多埠頭行き「博多埠頭」下車
http://www.nomo.co.jp/wp-content/themes/taiko/images/access_hakata_map.gif≫Googleマップで博多ふ頭 第2ターミナルを見る

21:45 乗船
23:45博多港 太古フェリー発 


http://www.nomo.co.jp/wp-content/themes/taiko/images/info_ttl01.png

新太古が2014年7月7日就航!
ながい長い時を重ねて太古は再び生まれ変わりました。新しい太古の見どころや特徴をしっかりご紹介!
造船の過程や一新した内装など、美しく生まれ変わった新太古をぜひご覧ください。
http://www.nomo.co.jp/wp-content/themes/taiko/images/info_ttl02.png

今までとはここが違う!8大ポイント

太古は博多から五島を結ぶ定期フェリーです。

大正5年創業以来、野母商船の数多くの船に命名され親しまれてきました。
中国は北栄時代の詩人『唐庚』による漢詩の一節「静如太古(しずかなることたいこのごとし)」より、
悠久の時を湛える海の静謐と、航海の無事への祈りをこめて名づけられました。

博多-五島航路発着時刻表

港名 博多 宇久 小値賀 青方 奈留 福江 下り便
23:45発3:55着
4:05発
4:40着
4:50発
5:40着
6:05発
7:25着
7:35発
8:15着

航海ルート

太古は博多と五島列島を結ぶ定期フェリーです。

三日目


 8:15 五島列島 福江港 着
  五島観光歴史資料館など


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五島を世界遺産に


レンタカーかんこう 
カネミ油症研究 市役所

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石田城五島氏庭園
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石田城(福江城)跡
http://www.gotokanko.jp/img/contents/pict/content/100_1_thum.jpg
五社神社
http://www.gotokanko.jp/img/contents/pict/content/54_1_thum.jpg
五島観光歴史資料館



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福江城二の丸跡にある天守閣を模した資料館です。旧福江市制施行35周年を記念して建設されました。3階建ての館内には古代の暮らしや遣唐使、倭寇、キリシタン信仰、五島藩の形成、観光名所、祭りなど五島の歴史文化が時代順に、分かりやすく紹介されています。また、一階のハイビジョンシアターでは、「バラモンの空」を随時上映しているほか、ロビーでは五島市の観光名所の検索や歴史ゲームなどを楽しむことができます。   五島観光の拠点ともいえる資料館です。ここで五島の歴史や文化を学べば、島での旅が一層楽しくなります。

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五島の縄文時代は、北九州より早かった
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http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【五島のあけぼの】
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[五島の遺跡]
 
五島列島に人が住むようになったのは、旧石器時代、今からおよそ2万年あまり前の昔からと言われています。五島の遺跡からは、縄文草創期~晩期、弥生・古墳後期時代の石器、土器、自然遺物が多く発見され、遺跡は150か所余りに及んでいます。
 五島で確認されている遺跡は、どこも海辺で、しかも山に近く、海の幸、山の幸に恵まれたところです。
 自然遺物には、貝類、鳥、鯨、いのしし、鹿、木の実などが多く出土し、自然の食べ物に恵まれた豊かな生活を送っていたことが分かります。

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[ドングリピット]
 
昭和60年、大浜地区中島遺跡に直径1m、深さ80cmの竪穴が12個発見されました。中には、ドングリなどが詰められており、澱粉を取る施設が縄文前期時代から弥生中期にかけて既に作られていました。






http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【遣唐使と倭寇】
 
[遣唐使]
 西暦607年(推古15年)摂政であった聖徳太子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無き也」の有名な国書を隋に送り、修交を求めました。遣隋使の始まりです。
 しかし、遣隋使の派遣は4回に止まり、その後の唐に、630年(舒明2年)遣唐使を派遣するようになりました。
 18回計画され、そのなかで五島に立ち寄ったのは第14、15、16、17回の4回です。804年(延暦23年)第16次遣唐使船には、最澄、空海も乗船しており五島各地に足跡を残しています。

http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【五島の仏教文化】
 
[仏教文化]
 西暦538年に日本に仏教が伝来してから160年余り後、五島の寺院として大宝寺が中国僧「道融」によって701年(大宝元年)に開創されました。
 以来、仏教の広まりとともに五島各地に寺院が建立され、現在五島には50ヵ寺あります。
 宗教活動の展開にともない、建造物、仏教、仏画など多くの仏教美術品がみられるようになりました。特に、真言密教関連の作品はもっとも多いうえ、五島の仏教美術の質の高さを物語っています。

http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【五島藩の形成】
[旧五島藩主「五島家」]
 五島家の始祖は、源平の乱を避けて五島列島北端の宇久島にきて領主となった家盛公と伝えられています。
 第4代進公の時には、五島全島を平定し、第20代純玄公が朝鮮出兵の時に宇久姓を五島姓に改めます。
 内乱、朝鮮の役、密貿易、キリスト教伝来、福江城築城、異国船警備と波乱に満ちた五島藩の治世も、明治維新によって藩政奉還になり第31代盛徳公で終わりを告げます。
 その後、第32代盛主公は子爵を授けられます。現在は、第35代五島典昭氏によって「五島家」は継承されます。

http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【五島藩富江領】
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[富江領]
 西暦1661年(寛文元年)、当時の五島藩主24第盛勝の叔父(23代盛次の弟)五島盛清が初代領主となり20ヵ村、禄高3千高をもって分藩し、旗本領として独立しました。
 富江領主使用の衣服や扇子、盃など領主ゆかりの物が旧富江町に寄贈され保存されています。

http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【伊能忠敬】
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[伊能忠敬の五島測量の足跡]
 1813年(文化10年)5月3日に宇久島に着いてから8月2日に福江島を離れるまで五島列島を測量しています。その測量中であった7月15日に伊能忠敬の高弟であった坂部貞兵衛が福江で病死しています。資料館には坂部が伊能忠敬に宛てた最後の書簡が展示されています。 

http://www.city.goto.nagasaki.jp/contents/special/images/gotorin1.gif【キリシタン信仰】
[キリシタン文化]
 
西暦1566年(永禄9年)アルメイダとロレンソによって五島でのキリスト教布教が始まり、五島家第19代領主純堯公の洗礼(1571年)で五島キリシタンの全盛期を迎えましたが、徳川幕府のきびしい弾圧で途絶えました。
 1797年(寛政9年)大村藩領外海地方から公式移住してきた農民が「潜伏キリシタン」、「カクレキリシタン」となり、1873年(明治6年)信教の自由がゆるされるまで守り継がれました。

[カトリック教会分布図]
 江戸時代のきびしい弾圧や迫害にも耐えながら、先祖の信仰を守り続けた「カクレキリシタン」の人々や、信教の自由が許されると1873年、多くの人々はカトリック教に戻りました。
 そして、苦しい生活の中で力を合わせて教会の建設に着手し、10年後には9教会を建て、次々と五島各地に建築していき、中には建築史上貴重な教会も数多くあります。
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白浜貝塚
住宅街のお花畑に看板が現れます。 そこは、縄文時代後期~弥生時代前期に及ぶ遺跡です。 かつてはこの辺一帯、砂浜海岸であったが現在は埋め立てられており、この貝塚だけが当時の面影を残すものとなっています。 貝類・鹿・猪・鯨やイルカなどの骨が出土しており、この土地の生活風景をうかがうことができます。昭和56年県の文化財に指定。

福江市の南郊,同市向町海岸の砂丘に立地する複合遺跡。縄文時代後期遺跡包蔵地,同晩期貝塚,弥生時代前期貝塚が複合する。縄文後期においては,鐘ヶ崎式土器と北久根山(きたくねやま)式土器に伴って,石錘(せきすい)(おもり)石匙(せきひ)(刃もの)等が多量出土した。同晩期貝塚においては,幼児を腕に擁した成人男性人骨の埋葬が見られ,弥生時代前期の貝塚においては,貝類,鹿,猪など陸獣,鯨,イルカなど海獣骨,魚骨等,豊富な自然遺物に伴って,鹿骨製ヤス,サメ歯製の鏃(やじり),鯨骨製アワビオコシなど,多数の骨角製品があり,漁労の伝統の強さを示すものが多い。また,各時代の遺跡が境界を接する状態で成立しており,砂丘の発達につれて生活の移動したことがわかるなど,生活実態をよく読みとることができる。


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常灯鼻
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日本古代牛骨碑
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福江武家屋敷通りふるさと館
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明人堂
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六角井(戸)
井戸枠を六角形に板石で囲み,井戸の中も水面下まで六角形の井壁が板石でつくられているので,ちょうど六角柱を地中にたてたような井戸である。このような六角井は県下に3個ある。その所在地はいずれも港町であり,唐船との交渉がもたれた場所である。五島市の場合は,天文9年(1540)五島主17代盛定のころ,活躍していた五峰王直(ごほうおうちょく)が交易を求めて来航したので,盛定は居城(江川城)の対岸に土地を与え,唐人町を開かせた。その際,来航してきた唐人達が江川城本丸下につくったのがこの井戸であると伝えている。五島における倭寇時代の遺跡の一つである。





      海の民宿 あびる宿泊

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四日目

富江町・山崎の石塁
よみがな 指定年月日 所在地
史跡(県指定) 
とみえちょう・やまさきのせきるい
1970年01月16日
五島市富江町岳
富江町南部の低い溶岩台地上の海岸部に構築された砦状の遺構。人頭大の火山礫によって構築され,複雑な平面構造をもち,蛸壺状の構築物を配している。狂人の大工,勘次が構築したともいわれ「勘次が城」の称もある。倭寇の根拠地であったという口碑もあるが明確ではない。明銭の出土例があり,後者の説をとる研究者もある。所在地「山崎郷」は松浦党の田尾氏の所領であり,田尾氏との関係ある構築物である可能性がある。
 
五島
 五島八朔鼻の海岸植物    青砂ヶ浦天主堂    荒川のハマジンチョウ    石田城跡
  石田城五島氏庭園    巌立神社社叢    浦頭教会聖教木版画(筆彩三幅)    江上天主堂     江袋教会
  オーモンデー   黄島溶岩トンネル   大曾教会   鬼岳火山涙産地
 
貝津の獅子こま舞
 
よみがな 指定年月日 所在地 管理・保護団体
無形民俗文化財(県指定)
かいつのししこままい
1977年01月11日
五島市三井楽町貝津
貝津獅子こま舞保存会
  三井楽町貝津に古くから伝えられている獅子舞で,正月の行事の一つでもある。正月二日,貝津神社において「獅子起こしの儀」があり,翌三日,同神社氏子の各家を訪ねて悪魔払いをする。役割は,男獅子,女獅子,それに天狗の面をつけた猿田彦で太鼓と笛の音に合わせて舞う。舞は「道中」「狂舞」「宮舞」「神楽舞」で構成されている。二人立ちの獅子舞は各地にあるが,頭を持つ獅子方のみが舞をして,後の獅子方はホロのすそを持つだけの古式の獅子である。

  頭ヶ島天主堂    岐宿町タヌキアヤメ群落   旧五輪教会堂     五島青方のウバメガシ

  五島神楽

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よみがな 指定年月日 所在地
無形民俗文化財(国選択) 
ごとうかぐら
2002年01月18日
長崎県五島列島

 五島神楽は、五島列島の各地で伝承され、地元の各神社の祭礼の折などで行われている。かつては列島全体で神楽が伝承されたが、現在、神楽が演じられる神社は、五島市、佐世保市宇久町、新上五島町の2市1町で確認されている。これらの神楽は、一間四方の畳二畳分という狭い場所の中をめぐるように舞うもので、二基の太鼓と笛、時に鉦の演奏にのせて舞われている。
 このように、ぐるぐるとめぐるような所作は古風で芸能の変遷の過程を示し、狭く限定された場所で舞うことで地域的特色を示すものである。(平成14年1月18日に国選択。)

  五島樫の浦のアコウ   五島市久賀島の文化的景観
  五島玉之浦のアコウ
  嵯峨島火山海食崖   島山島のヘゴ自生地
  下五島大宝郷の砂打ち、大宝郷の砂打ち

  下崎山のヘトマト行事
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よみがな 指定年月日 所在地 管理・保護団体
重要無形民俗文化財(国指定) 
しもさきやまのへとまとぎょうじ
1987年01月08日
五島市下崎山町
下崎山町内会
 五島市下崎山町に,古くから伝わる民俗行事で,白浜神社の境内で行われる。宮相撲,羽根つき,玉蹴り,綱引きの順で行われ,最後に大草履をかついで山城神社に奉納して終わる。この一連の行事をヘトマトと呼ぶが,このように豊作,無病息災を祈願する小正月の年占(としうら)行事が混合している類例はきわめて珍しい。

  白鳥神社社叢   白浜貝塚  新魚目曽根火山赤ダキ断崖
  新上五島町北魚目の文化的景観   新上五島町崎浦の五島石集落景観
  丹奈のヘゴ,リュウビンタイ混交群落

  大宝寺の梵鐘(一口)
 
よみがな 指定年月日 所在地 所有者
有形文化財(県指定) 
だいほうじのぼんしょう(ひとくち)
1964年03月16日
五島市玉之浦町大宝633
大宝寺
鐘身をつつむ輪郭は肩からやや張りのある曲線の裾広がりになり,下方で垂直にくだって均整のとれた姿をみせる総高1mほどの鐘である。上帯は素文,乳区には円錐形の笠をつけた乳が4段4列に配されている。そして,撞座は八葉蓮弁で,竜頭の長軸方向に配置されていて下帯も文様がない。池の間と縦帯に銘文が陰刻されていて,「大日本国関西路利肥前州五嶋珠浦弥勒山大宝寺」にはじまり,最後に「応安八年歳次乙卯二月十八日友瓚書之大工豊前小蔵藤原顕宗十方檀那院主賢仙」とあり,豊前小倉の鋳物師藤原顕宗が作者であることが知られる。なお縦帯には「大願主幡州多賀郡西林寺住増信」ともあり,かかわりの人々の海の道を介してのつながりがしのばれる。


  男女群島     チャンココ    富江町・山崎の石塁    富江溶岩トンネル「井坑」
  頓泊のカラタチ群落     堂崎教会    銅造如来立像(極楽寺)     銅造如来立像(明星院)

重要文化財(国指定) 
   
よみがな 指定年月日 所在地 所有者
どうぞうにょらいりゅうぞう(みょうじょういん)
1981年06月09日
五島市吉田町1905
明星院
やさしい慈愛あふれる表情には清楚な深みをたたえ,そこには明るい童顔の白鳳仏の笑みをも読みとることができる。螺髪(らほつ)は碁盤状にタガネを入れてつくり,両肩を通した衣の胸もとには僧祇支(そうぎし)がみえる。そして,腹部から下にはU字形を重ねた左右相称の形式的な襞(ひだ)を簡素にととのえている。反りの少ない単弁の反花を蹴込みのある丸框(かまち)でうける台座も,本体とともにろう型を用い,一度に鋳造している。しかし,左右の手先は別に造って袖先で鋲留めしているが左手先は失われている。薬師如来像と伝えられ,近隣の当院隠居寺東楽寺(廃寺)から貞享3年(1686)に移座されたことが木製厨子墨書でわかる。この愛すべき端正な小金銅仏が,遣唐使が最後にわが国を離れる西海の離島で見出されたことは感慨深く,上代金銅仏の分布を考える上での意義も大きい。

  七岳のリュウビンタイ群落 

  日島の石塔群
日島の石塔群
40基以上の墓碑・墓石がある中世古墓群
よみがな 指定年月日 所在地 管理・保護団体 最寄り駅
史跡(県指定) 
ひのしまのせきとうぐん
2000年02月22日
南松浦郡新上五島町日島郷字曲12番地及び字釜崎281番地
新上五島町
奈良尾港 車で45分
若松島の北西に位置する日島・曲(まがり)地区の,海に向かって延びる礫丘部分全域にわたって,中世以来の石塔類が約70基分林立している。また,曲地区から1㎞程離れた同じ日島の釜崎地区の丘の上に,紀年銘を刻んだ高さ約2mの大型の宝篋印塔が1基,海を見下ろすように存在し,基礎の左側に正平22年(南朝暦・1367年)の銘が刻まれている。曲地区の主な石塔や釜崎地区の宝篋印塔は,その石材や高度な彫出技術等から,石造文化が進んだ関西・北陸地方で1300年代から1400年代にかけて製作され,日本海ルートで日島へ搬入されたと推測される。現在の一離島に,全国的に見ても大規模な石塔群が集中していることは,当時,日島が重要な貿易拠点であり裕福であったことや活発な海上交易が行われていたことを示し,学術的にも非常に価値が高い。指定面積は1,990.15㎡。


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  福江椎木山の漣痕
  福江の大ツバキ
  船廻神社社叢
  へご自生北限地帯
  へご自生北限地帯
  明星院の木造阿弥陀如来立像
ほどよい丸みと高さの肉髻(にくけい),小粒に揃った螺髪(らほつ),そして頬もふっくらと整えられ,目鼻や唇の彫りも丁寧で,円満整美の藤原仏の典型をうかがわせる。両肩はなだらかな丸みをもって両腕につらなり,衣文の襞(ひだ)は浅くおだやかに流れる。檜材を用い,前後二材を合せて彫出し,頭部は三道の下でノミを入れて割り離し,割首柄差しとしている。深く内刳(ぐ)りされた体内に,墨書銘があることが背部の小穴から部分的に読まれるが,正平13年(1358),文明9年(1477),天正9年(1581)の年紀が確かめられ,坊名等も墨書されている。将来,解体修理される折に全文解読できれば,来歴を確かめる資料も得られよう。当寺には白鳳金銅仏もあり,当木彫像の請来の時もわからないが,平安木彫の優作も加えて,西海はるかな島嶼(とうしょ)の文化の厚みを物語っている。像高98.0㎝。

  明星院本堂
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よみがな 指定年月日 所在地 所有者
有形文化財(県指定) 
みょうじょういんほんどう
1986年08月29日
五島市吉田町1905
明星院
寺伝によれば大同元年(806)僧空海が唐から帰朝の途次ここに参籠して明星院と名付け,文治3年(1187)平家盛が宇久姓を名乗ってのちの五島家の始祖となって以来,五島家代々の祈願所であったという。この本堂は棟札により安永7年(1778)の再建と思われる。幕末までは一般庶民の檀那寺ではなかったので,規模は大きくはないが,内部の柱桁に極彩色を施し,格天井には花鳥図を描き,両側小壁には華鬘(けまん)を懸けるなど,藩公祈願所としての荘厳に意を用いてある。護摩堂が別棟であるため,内部の彩色や天井絵がすすけることなく,立派に遣っているのは幸いである。昭和45年屋根の本瓦葺が銅板葺に改められた。


  寄神貝塚

寄神貝塚
よみがな 指定年月日 所在地 管理・保護団体
史跡(県指定) 
よりがみかいづか
1962年11月08日
五島市岐宿町岐宿寄神ほか
五島市
岐宿町北端の低平な溶岩台地上にある貝塚で、厚い貝層の堆積をもつ。弥生前期および同中期にわたって形成され、岩礁性の貝類およそ50種,近海魚類,鹿などの陸獣骨を含んでいる。骨角器が若干出土しているが人骨の埋葬は認められない。貝塚周辺には住居跡も認められており,長期間にわたる定住と漁労生活のあとをよくとどめている。出土土器からすれば,北部九州の文化圏内にあったことが知られるが,縄文時代の伝統である海洋依存の生活実態をとどめた地域性をよく物語っている。


  漣痕

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よみがな 指定年月日 所在地
天然記念物(県指定) 
ふくえしいのきやまのれんこん
1967年09月08日
五島市平蔵町椎木山1297
五島市の北東部,平蔵町小田河原の東方約400mの岬には,非常によく成層した五島層群が露出する。この岬の背後の山を,地元では椎木山とよんでいる。地層はN30°E方向の走向をもち,南東に40~50°急傾斜する。岩質は,主として板状砂岩で構成されるが,黒色泥岩をはさんで互層をなす。漣痕をもつ広い地層面が露出し,幅10mで,傾斜にそった長さが約20mに及んでいる。漣痕の波頭は1mにつき12~13本で,波高は2~3㎝である。波頭はおおよそ東西性であるが,必ずしも直線的でなく,部分的に湾曲するため,遠望すると全体的に「ちりめん模様」を見せる。断面では対称的な波形をもつため,浅い水底で,前後に動揺する波によってつくられたものであろう。漣痕をもつ砂岩は硬く,保存が非常に良好なため,この種の地質現象の資料として価値は頗る高い。


  六角井

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福江島観光


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 かんこう泊 



五日目

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概要

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1968年、北九州市に本社を置くカネミ倉庫が製造した食用の米ぬか油を食べた西日本一帯の1万4000人以上が吹き出物や内臓の疾患、がんなどの被害を訴えた。原因は油に含まれた猛毒のダイオキシン類。患者の症状は44年がたった今も続く。認定患者は2012年3月末現在、1966人(うち死亡者数596人)にのぼる。

被害の発覚

カネミ油症事件は1968年(昭和43年)10月10日、朝日新聞が「正体不明の奇病続出」と第一報を報じたのが発覚の発端だった。西日本各地で吹き出物や手足のしびれ、倦怠感などの健康被害を訴え出る人が相次いだのである。原因は北九州市に本社を置くカネミ倉庫の米ぬか油「カネミライスオイル」。被害は福岡県を中心に西日本一帯に及び、1万4000人以上が被害を訴え出る「国内最大の食品公害」となった。

人類初のダイオキシン類による食中毒被害

中毒の原因は当初、油の臭みを取る工程の熱媒体として使われた有機塩素化合物PCB(ポリ塩化ビフェ二ール)とされ、患者の症状は次第に軽減されると考えられていた。しかし1974年、油にはPCBが加熱されることで変性した猛毒のダイオキシン類、PCDF(ポリ塩化ジベンゾフラン)が主な原因物質であることが判明する。2001年には国もダイオキシン類が主原因であることを認め、カネミ油症事件は「人類が初めてダイオキシン類を直接口から食べた」事件であることが明らかとなった。

患者の症状

ダイオキシン類はベトナム戦争(1960年~1975年)でアメリカ軍が使用した「枯葉剤」にも含まれていたことで知られる。症状は吹き出物などの皮膚症状や手足の痺れといったものから、肝機能障害、骨の変形、歯の異常や頭髪の脱毛、流産、がんに至るまで全身の多岐に及び、カネミ油症は「病気のデパート」とも言われる。
これまで多くの被害者たちが、がんなどを発症し、死亡している。ダイオキシン類は体内での残留性が高いことでも知られており、患者たちの症状は44年がたった今も続いているのが現状である。

次世代被害

ダイオキシン類の大きな特徴の1つは被害が子や孫の世代に引き継がれることである。事件発生当時には油を食べた女性患者から皮膚の色が黒ずんだ「黒い赤ちゃん」が生まれるケースが数多く報告され、社会に大きな衝撃を与えた。2010年5月、国は認定患者を対象に実施した健康実態調査の結果を公表したが、子供、もしくは孫に「吹き出物がある」、「疲れやすい」などといった被害を訴える患者が調査対象者ののべ半数以上に及んでいる。

差別と偏見

カネミ油症の根本的な治療法は今も見つかっていない。また「黒い赤ちゃん」など被害が次世代に引き継がれていく懸念などから患者たちは事件発生当初から結婚や就職などで激しい差別や偏見に見舞われた。患者たちは次第に被害について口をつぐむようになり、毎年一部の自治体で実施される油症検診すら受診しない患者が相次ぐようになるなど、被害の実態把握は大きく遅れた。また患者の多くが家庭の食卓でカネミ油を食べたケースが多いことから、家族ぐるみで油症の症状に苦しみ、働けなくなったり、医療費がかさむなどして生活困窮に陥るケースが相次いだ。

未認定問題と認定基準

2012年3月末現在、カネミ油症患者として認定されたのは1966人(うち死亡者は596人)。被害を訴え出た1万4000人の約14%に過ぎない。厚生労働省の全国油症治療研究班が定めた認定基準によって被害者の認定、未認定が振り分けられ、現在は血中のダイオキシン濃度が最も重要視されている。しかし、その基準の妥当性には疑問の声も上がっている。

裁判と仮払金問題

カネミ油症をめぐる民事裁判は発覚の翌年1969年に始まった。裁判は責任企業のカネミ倉庫やPCBを製造したカネカを相手取り1986年までに8件が提起され、うち5件については被害の拡大責任を問われた国も相手取って行われた。原告は1985年までにカネミ倉庫だけでなく、国にも2度勝訴。しかし、翌86年5月、全国統一民事訴訟第二陣の二審判決で流れは変わり、国に逆転敗訴した。その後最高裁も原告敗訴の見通しを示したことから、原告は国への訴えを取り下げる。その結果原告は先に受け取った1人当たり約300万円の賠償金の仮払金を返還する義務が生じ、すでに医療費や生活費などにつぎこんでいた原告たちの中には返還に応じきれず、自殺者も現れるようになった。その事態を重く見た当時の自公政権は2007年に仮払金返還を免除する特例措置法を成立させ、仮払金問題は一定の解決に至る。
2008年には87年の裁判終了後に新たに認定された新認定患者がカネミ倉庫を相手取り損害賠償請求訴訟をおこし、現在も裁判は続いている。

取り残されていた患者救済(~2013年3月)

カネミ油症の被害者は油症検診を受診して患者と認定されない限り、一切の医療費助成を受けることができない。さらに認定されても責任企業のカネミ倉庫からは見舞金23万円の支給(認定時のみ)と、認定後の医療費の一部が支給されるだけで、過去の裁判の原告への賠償金500万円も経営難を理由に支払いが凍結されたままである。国は治療研究の資金として全国油症治療研究班に約2億円の研究費(2012年度)を、そしてカネミ倉庫には経営を支援するため政府米の倉庫代 およそ1億5000万円(2011年度)を支払っているが、過去の裁判で原告側が国への訴えを取り下げたことを根拠に、患者に直接、医療費などの公的支援を行うことを一貫して拒んでいる。

政権交代で芽生えた救済の機運

事件から42年が経過した2010年、患者の高齢化が進む中、患者と支援者は政権交代を機に2010年1月以降、医療費の公的負担などを盛り込んだ「カネミ油症被害者救済法案」の成立を求めて全国で被害者集会を開催し救済を訴えた。そして3月には、患者と支援者が民主党幹事長室に救済法案の成立を陳情。民主党内でも一部の議員が救済法案の議員立法の検討を進めるなど、法案成立への機運が高まっていたが、2010年6月の鳩山総理辞任などの 政局の混乱を受け、法案の通常国会提出は断念された。

被害者救済法の成立

2011年8月、被害者からの声を受けて民主、自民、公明など有志の国会議員は超党派の国会議員連盟を設立。被害者救済法成立に向けた機運が再び高まりはじめた。そして、翌2012年3月には自民、公明両党がまとめた救済法案に民主も合意し、救済法成立は現実性を帯び始める。しかし厚生労働省などが「食中毒は原因企業による補償が原則」などとして法制化に強く反発。それを受けて民主党は一転、法案ではなく国の予算措置による救済案に傾くなど救済へ向けた動きは迷走する。結局、自民、公明が民主を引き込む形で超党派の議員連盟は法案をまとめ議員立法で国会へ提出。2012年8月29日の参院本会議で救済法は可決、成立された。

医療費の公的支給ならず・・・ カネミ油症被害者救済法

国は救済法に基づく支援策として2013年度から当面、認定患者を対象に毎年1回健康実態調査を実施し「支援金」として年19万円を支給。また従来からカネミ倉庫に対し行われている備蓄米などの保管委託を拡大してカネミ倉庫の経営支援策を拡充させ、カネミ倉庫からも年5万円を支給する。さらに認定基準も見直し、被害発覚当時に認定患者と同居していた家族などで未だ未認定のままの患者も認定することになった。しかし、患者の医療費については国からの支給は見送られ、従来通りカネミ倉庫から支給されることとなり、国からの直接救済を望んでいた患者からは失望の声が相次いだ。

残された次世代被害

今回の救済法成立は、患者にとって完全救済への「大きな一歩」に過ぎないと言える。認定基準が見直されたとはいえ、大半の未認定患者は救済されないままであり、被害者が高齢化する中、未だ根本的な治療法の開発にも至っていない。また子や孫への「次世代被害」に対する救済も手付かずの ままである。カネミ油症被害者の完全救済には未だ多くの課題が残されたままとなっている。

http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/image/midashi_archives.gif

転載元: 海洋文化交流/貿易振興

[転載]元寇750年イベントにご意見募集(転載歓迎)

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元寇を忘れるな!
元寇750年イベントにご意見募集
 
1274年から数えて、2024年は、750年目に当たります。
 
ご意見を募集します。
 
 
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元寇七〇〇年平和之碑
 
 
 
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元寇六五〇年 対馬 小茂田神社の鳥居
 
 
 
 
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助國忌
 
 
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壱岐 新城神社 元寇三〇〇年記念植樹碑
 
 
 
 
 
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元寇750周年イベントに対するご意見
※下記のことをして欲しいと思います。
<対馬>
・対馬厳原 元寇上陸地 小茂田神社における元寇750年平和記念碑建立
・       御胴塚 御首塚の整備
 
<壱岐>
・島内各所に散在する千人塚の整備
・少弐の墓の整備
 
<長門>
・元寇上陸地点標識整備
 
<鷹島>
・世界史上最大の海軍が集結した状況の再現
 
 
※ご寄付受入れ先
<対馬>
・小茂田神社、御胴塚、御首塚、対馬市
<壱岐>
・壱岐神社、少弐の墓前、各千人塚
 
 
 
 

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[転載]渤海使の来航と若狭・越前国の対応 十世紀の事例

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第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
     二 渤海使の来航と若狭・越前国の対応
      十世紀の事例
                                                        数字は、表3536参照。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/1-s075.jpg

写真75 「扶桑集」




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34 延喜十九年(九一九) 十一月十八日、若狭国が渤海使裴http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m21202.GIFら一〇五人が丹生浦(三方郡、旧山東村)に来航したことを朝廷に報告してきた。この報告をうけて、二十五日に右大臣藤原忠平は渤海使を若狭国から越前国へ移して安置してから入京させるべきことを醍醐天皇に奏上した。また、渤海使の対応をする「行事の弁」(担当の弁官)として左中弁藤原邦基が任命された。
  さらに来航の理由を問う存問使と通事が任命されるが、越前国松原駅館に移された渤海使は、十二月二十四日、門戸が閉ざされており、行事の官人が存在せず、設備や薪炭が備わっていないなど、待遇の悪さを太政官に訴えたので、右大臣は越前国を責めて安置・供給を行わせ、越前掾の某維明を「蕃客行事の国司」に命じ、渤海使への応接の責任者とした(以上、『扶桑略記』)。

  そののち、翌年三月二十二日には官宣旨が下され、太政官の使で右史生の依知秦與朝が越前国に派遣され、時服が渤海使に支給された(『朝野群載』)。さらに、四月二日には掌客使と領客使が任命されたが(『貞信公記抄』)、この時の掌客使の一人であった大江朝綱は、前回の延喜八年に渤海大使裴http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m21202.GIFが帰国する際に、「送序」(「夏夜、鴻臚館に於て北客を餞する序」)を書いた人物である。大江朝綱は『扶桑集』によれば「裴使主(渤海大使裴http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m21202.GIF)の松原に到る後、予、鴻臚の南門に別れに臨む口号(口ずさみ)を読み、追って答和せらるの什(詩歌)に和し奉る」という題の漢詩をのこしている(写真75)。
 裴http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m21202.GIFは、帰国に際して平安京の鴻臚館の南門で大江朝綱が贈った詩に対し、松原に至ってから、それに和する詩を作ったことが知られる。ここにみえる「松原」とは『扶桑略記』にいう越前国の松原駅館と思われ、帰国の時も松原駅館を利用したことが知られる(「鴻臚の南門」を松原客館の南門とする説もあり、松原客館で渤海大使裴http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m21202.GIFと漢詩の唱和が行われたという解釈もみえるが、掌客使は京内での雑事を掌るので、帰国時の時間的経過からみて「鴻臚」は「松原客館」の漢語的表現というよりも、平安京の鴻臚館と解したほうが正しいであろう)。

 渤海使は越前国に、十二月から翌年の四月ごろまで約四か月余り滞在したと思われる。そののち、渤海使は延喜二十年五月八日に入京し、そのあと、国書の奉呈など「賓礼」の各行事に参加したあと、十八日、帰国の途に就いた。
 帰路の詳細は不明だが、おそらく近江国から、先に指摘した『扶桑集』の漢詩にみえるように越前国の松原駅館に至り、六月二十二日ごろにはすでに日本を離れていたらしい。

 ところが、二十六日に領帰郷使が伝えるところでは、渤海使の一行より逃走し、日本にとどまって帰国しない渤海人が四人いることが伝えられ、二十八日、これら渤海人を「大同五年の例」(16参照)に準拠して、越前国に安置させることが決められた(以上、『扶桑略記』)。
 このように、越前国に亡命した渤海人がしばしば滞在したことは、古代の越前国の国際性を物語るものである。なお『扶桑略記』裏書の延喜二十二年九月二日条によれば、この日「渤海客」を越前国に安置する旨の解文が朝廷に進上されている。
 新たな渤海使が来航したことを指すかもしれないが、このところ渤海使は来航の年限を守っており、この年はこれ以外に関連する史料もなく、また「裏書」ということで、書写の際の誤りの可能性もあるものの、この記載が事実とすれば、延喜二十年の時に帰国せず越前国にとどまった渤海人に関する解文との理解ができる。

参考3 延長八年(九三〇) 前年の延長七年の十二月二十三日、丹後国竹野郡大津浜に東丹国使裴http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m21202.GIFら九三人が来航する(『扶桑略記』裏書 延長八年正月三日条)。
 この使は渤海国を滅ぼした東丹国の使者だが、大使裴http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m21202.GIFは東丹国に臣従した旧の渤海人であり、存問の際に東丹国を非難したため、現地から帰国させられた。『扶桑略記』裏書の延長八年正月二十日条に「渤海客の舶修造料は并びに若狭・但馬、結番し正税を以って同客を饗すべきなり」とあり、東丹国使の船の「舶修造料」は若狭・但馬両国が順番で負担することになった(使の供応にかかった費用は、若狭・但馬両国の正税を利用したとも、丹後国の正税を利用したとも解釈が可能である)。

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日本との関係

渤海と日本の関係は当初は新羅を牽制するための軍事的性格が強く、唐に対抗するため奈良時代から日本に接触した。唐から独立した政権を確立した渤海であるが、大武芸の時代には唐と対立していた。その当時の周辺情勢は黒水部は唐と極めて親密な関係にあり、新羅もまた唐に急速に接近しており渤海は国際的な孤立を深めていた。この状況下、大武芸は新羅と対立していた日本の存在に注目した。727年、渤海は高仁義ら[2]を日本に派遣し日本との通好を企画する。
 この初めての渤海使は、日本に到着した時、当時の日本で蝦夷と呼ばれていた人々によって殺害され、生き残った高斉徳他8名が出羽国海岸に漂流し、翌年聖武天皇に拝謁した。この年引田虫麻呂ら62名を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。
 しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は926年渤海滅亡時までの200年間継続した。 日本海側の、金沢敦賀秋田城などからは渤海との交流を示す遺物が発掘されている。

このようにして渤海発展の基礎が築かれたが、大欽茂治世末期から国勢の不振が見られるようになった。大欽茂が没すると問題は深刻化し、その後王位継承に混乱が生じ、族弟の大元義が即位後、国人により殺害される事件が生じた。その後は大欽茂の嫡系の大華が即位するが短命に終わり、続いて大嵩が即位し、混乱した渤海国内を安定に向かわせる政策を採用した。
 大嵩は唐への恭順と日本との通好という外交問題に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩没後は大元瑜大言義大明忠と短命な王が続いた。この6代の王の治世は合計して二十数年でしかなく、文治政治の平和は継続したが、国勢の根本的な改善を見ることができなかった。

 国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の4世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。唐は安史の乱後の混乱と地方に対する統制の弛緩のなかで周辺諸国に対する支配体制も弱体化していき、黒水都督府を9世紀初頭に解体した。
 大仁秀はその政治的空白を埋めるように、拂涅部・虞類部・鉄利部・越喜部を攻略、東平府・定理府・鉄利府・懐遠府・安遠府などの府州を設置した。また黒水部も影響下に入り、黒水部が独自に唐に入朝することはなくなった、その状態は渤海の滅亡直前まで続き、渤海は「海東の盛国」と称されるようになった。

その子の大彝震の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く大虔晃大玄錫の代まで保持されていた。

10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。その結果中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した大瑋瑎、それに続く大諲譔の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国された契丹国(のちの遼)の侵攻を受け渤海は926年に滅亡、契丹は故地に東丹国を設置して支配した。渤海における唐の制度は、契丹が中原化していくに際し参考にされ、遼の国制の特色とされる両面官制度に影響を与えたといわれる。

また東丹国の設置と縮小に伴い、数度にわたって遺民が渤海再興を試みるが、契丹(遼)の支配強化によってすべて失敗に終わり、その都度多くは遼の保有する遼西や遼東の各地域へ移住させられ、または残留し、一部は高麗へ亡命し、一部は故地の北方へ戻った。
 黒水靺鞨(女真)が統合を果たしが建てた王朝(1115年1234年)において、旧領に残った渤海遺民は厚遇され、官職につく者や、王家に嫁ぐ者もいた。金を滅ぼしたの代では、華北の渤海人は「漢人」として支配を受ける。その後、女真は満洲として再び台頭するが、渤海の名称は東アジア史から姿を消した。





                                                        


転載元: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興

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