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[転載]橿原考古学博物館で、日本史の重要な奈良の歴史を正しい資料に基づき学び、先人の知恵を未来に活かしましょう。

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 橿原考古学研究所附属博物館では、奈良県内の多くの遺跡から出土した資料を通じて、日本史の中で重要な位置を占める奈良県の歴史について理解を深めていただけるよう、常設展「大和の考古学」のほか、春秋2回の特別展、夏には発掘調査成果の速報展「大和を掘る」を開催しています。
 展示室では、ボランティアの方々による展示解説があります。また、映像ライブラリー、情報コーナー、休憩室など無料でご利用いただける施設もありますので、ぜひご来館ください。(なお、館内では食事はできません。)
 
 
 
 

アクセス博物館トップページ>アクセス
橿原考古学研究所附属博物館の周辺地図、電車交通、自動車ロードマップがご覧頂けます。
周辺地図
電車交通博多・広島方面/新大阪から
●新大阪駅/JR[環状線]または大阪市営地下鉄[御堂筋線]→天王寺で[近鉄電車]に乗換え→大阪阿倍野橋駅[近鉄電車]橿原神宮前駅(急行:約40分)→橿原神宮前駅下車 徒歩15分
東京・横浜方面/京都駅から
●近鉄京都駅→畝傍御陵前駅(急行:約70分)下車 徒歩5分
東京・横浜方面/名古屋駅から
●近鉄名古屋駅→大和八木駅[近鉄電車/近鉄橿原線](特急:約110分) →畝傍御陵前駅下車 徒歩5分
東京・横浜方面/奈良交通バス利用(大和八木で近鉄電車に乗換え)
●新宿→夜行高速バス「やまと号」(約8時間)→大和八木駅[近鉄電車/近鉄橿原線]に乗換え→畝傍御陵前駅下車 徒歩5分
関西空港から奈良交通バス利用(大和八木で近鉄電車に乗換え)
●関西空港→リムジンバス(約60分)→大和八木駅[近鉄電車/近鉄橿原線]に乗換え→畝傍御陵前駅下車 徒歩5分
ロードマップ自動車で
●奈良市内から約45分 ●京都市内から約2時間 ●大阪市内から約1時間
 
 
 
 
開催中の展覧会
常設展「大和の考古学」
会期:通年

Ⅰ狩人の時代

1.人類の登場

三郷町勢野峰ノ阪遺跡下層石器群は炭素同位体(C14)による年代測定法によって、2万5千年前の石器であることがわかりました。礫を分割して石核の素材とする技術は、この時期の列島に広く発見されています。近畿ではさらに発展して、瀬戸内技法とよばれる翼の形をした剥片を量産する技術へつながっていきました。
2.サヌカイトの山
二上山の火山活動でできた火山岩に、サヌカイトとよばれる安山岩の一種があります。黒いガラスのようなこの石は、石器作りに最適でした。旧石器人は、サヌカイトの岩盤にむけて穴を掘ったり、礫となって流出したサヌカイトの堆積層を掘削して原石を入手していました。二上山北麓には旧石器人の、石器製作遺跡が集中しています。
二上山北麓遺跡群の分布図と二上山(株山)のサヌカイト大露頭

Ⅰ.定住へのあゆみ 
1.槍・弓矢・土器の発明

環日本海地域の細石刃・尖頭器文化が、新たに石鏃を作り始める頃、列島に土器が発生します。これが世界最古の土器です。県東部の山間にある北野ウチカタビロ遺跡や桐山和田遺跡からは、有舌尖頭器・石鏃・矢柄研磨器・磨製石斧とともに、隆起線文土器とよばれる最古の土器の一種が出土しています。
桐山和田遺跡 有溝砥石桐山和田遺跡 石鏃、有舌尖頭器、尖頭器桐山和田遺跡 隆起線文土器
有溝砥石(山添村桐山和田遺跡)

石鏃・有舌尖頭器・尖頭器
(桐山和田遺跡)
隆起線文土器(桐山和田遺跡)
Ⅱ.田と森の融合
縄文人は、水稲農耕に伴う新たな労働を、季節ごとの集中労働に振り分けることで受け入れ、弥生人になることができました。いまだ生活は、食用植物の採集や狩猟によってささえられており、新来の土木具・農耕具や容器の生産にも、森林の管理・伐採についての縄文の知識が生きていました。ただし、水稲農耕が伴ってきた機械や井戸掘りによって、男女の分担する労働の種類は増えていきました。
唐古・鍵遺跡 弓唐古・鍵遺跡 斧の柄六条山,大王山,唐古・鍵遺跡 鉄斧
伐採用斧の柄(唐古・鍵遺跡/田原本町所蔵)
鉄斧(上:奈良市六条山遺跡、左:榛原町大王山遺跡、右:唐古・鍵遺跡(レプリカ)
国へのあゆみ
 唐古・鍵遺跡は近畿最大の環濠集落です。弥生時代中期初めには、長径約500m・短径約400mの楕円形に、幅10m・深さ2m以上をはかる大環濠が完成しました。後にその外に幅約5mの濠をいく筋も加え、防御の効果をより高めていきます。
 ちなみに大環濠の掘削土量は、全長120mの前方後円墳の体積に等しくなります。古墳時代のはるか以前に、すでに大規模な土木作業を可能とする、労働力の確保と組織化が果たされていました。この力が戦争に向けられたのです。
 耕作地から離れた丘陵や尾根上に、高地性集落と呼ばれる集落が一時的に築かれます。見張り台的な小規模なものが多い中で、東大寺山遺跡は大規模なものであり、尾根上にあって外周に空濠を巡らしていました。盆地の集落の一つが戦争から身をまもるため、弥生時代後期中頃に一時的に移動してきたものです。
 
 
ヤマト王権の成立
 3世紀後半、奈良盆地の南東部に大型前方後円墳が突如としてつくられます。それが最初の大王墓、箸墓古墳です。その造営に直接かかわった纒向遺跡では、遺跡内に箸墓に先行する石塚古墳などがすでにつくられていました。
 纒向を最初の都とする考えが有力ですが、まだその中心となる部分は発掘で確認できていません。また、箸墓古墳に類似した初期の古墳が瀬戸内から北部九州にあり、それらの地域によるまとまりが、初期のヤマト王権を支えたと考えられます。

纒向遺跡に持ち運ばれた土器
纒向遺跡に持ち運ばれた各地の土器
5世紀は、日本列島の5人の王が中国に使いを送ったと中国の歴史書に記された時代です。彼らは、東アジアのなかでも特に朝鮮半島の情勢に強い関心を向けていました。また、日本列島の各地に多くの渡来人がやって来ました。その中心は朝鮮半島からの人々であり、特に南部の百済・伽耶を取り巻く不安定な国際情勢が多くの人々の移住をうながしました。彼らによってもたらされた新しい技術は、金工・鉄器生産と土木技術、須恵器生産などがあげられます。同時に乗馬の風習や、横穴式石室の埋葬法とともに、死者に食物を供える須恵器の副葬などの風習が伝えられ、技術革新とともに日常生活にも大きな影響を与えました。

宮山古墳 靫形埴輪 
 
 
 
 
倭の五王を中心とした活発な対外交流により、5世紀には多くの新しい文物や文化が列島に流入しました。それは、横穴式石室、乗馬の風習、金銅製品、須恵器生産など、さまざまな分野におよびました。これらは、当時の社会の仕組みを大きく変える要因となりました。広域にわたる群集墳の成立や、支配者層の古墳の変化は、その表れです。

御所市石光山古墳群全景大宇陀町後出3号墳遺物出土状況
御所市石光山古墳群全景宇陀市後出3号墳遺物出土状況

転載元: 観光立国のブログ


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