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薄葬令コピペ

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薄葬令

 
 薄葬令(はくそうれい)は、大化2年(646年)、身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令
 『日本書紀』大化2年(646年)3月22日条によれば、大化の改新のなかで薄葬令が規定された。 中国の故事に習い、民衆の犠牲を軽減するため、王臣と庶民の身分に応じて作ってよい陵墓を制限し、人馬の殉死殉葬を禁止し、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するなどの制限が加えられた。 墳陵は小型簡素化され、前方後円墳の造営がなくなり、古墳時代は事実上終わりを告げる。

さまざまな解釈

 中央集権化の一環であるとする解釈:大化の改新などにより大和朝廷は地方豪族を押さえ中央集権国家へと変貌していった。 薄葬令は、地方豪族の権力の象徴と言える古墳の造営を制限するものであり、全ての土地と人民は天皇に帰属するとした公地公民制の推進と関係がある。よって、一部の支配者層は、古墳の造営を続けることが出来た。
 後付けであるとする解釈:簡易な葬送について、「以前から出されていた薄葬令に従うもので問題はない」との説明が付くように、後世の支配者が日本書紀に盛り込んだルールである。例えば、持統天皇は703年に崩御し薄葬だった。彼女は天皇で初めて火葬され、自身の墳陵を持たず夫の天武天皇の墓に合葬された。しかしそれ以前の、654年に崩御した孝徳天皇は薄葬ではない。
 
 

大化の薄葬令


山折哲雄氏は、日本書紀の「孝徳記」に記されている大化2年(646)の勅、いわゆる「大化の薄葬令」を取り上げて、そこに古代日本人の葬儀に関する考え方を読み解こうとしている。(日本人の霊魂観)

この勅令は、王族から庶民にいたる葬儀の簡略化を命じるものであって、内容は①経費の節減、②身分による葬制規模の別、③死骸の一定墓地への集理、④殉死の禁止の四項目からなっている。

このうち②の身分による葬制規模の別には次のような規定がある。

「庶民亡(し)なむ時には、地に理(おさ)めよ。其の帷(かたびら)帳(かきしろ)の等には、(あらぎぬ)を用ゐるべし。一日も停むることなかれ。凡そ王より以下、庶民にいたるまでに、殯営(つく)ること得ざれ。凡そ畿内より、諸の国等に及ぶまでに,一所に定めて、収め埋めしめ、汚穢しく処々に散し埋むること得じ」

庶民の死に際しては、粗末な帷子を着せただけで地面に埋めよ、一日もそのままに放置しておいてはならぬ、王以下庶民に至るまで、殯を営むことは許されない、畿内をはじめ諸国ではそれぞれ埋葬地を定め、すべての死体はそこに埋めて、汚らしく散乱させてはならない、という内容である。

この勅令は、当時庶民や王族の間で行われていた葬祭の有様を、逆説的にあぶりだしているともいえる。すなわち貴族は無論庶民においても、この時代まで殯の風習が生きていたこと、それにともなって、遺体は死後数日の間、風葬という形で放置されていたこと、また遺体がかなり長い間腐乱した状態で放置されることもあったらしいこと、などである。

ここでは「薄葬令」の対象は王以下庶民であって、天皇は含まれていないことに注目される。実際にこの発令の直後ともいえる時期に、天智、天武両天皇の死を巡って大規模な殯が営まれている。

王族についても、きちんと守られたわけではなかったらしい。たとえば柿本人麻呂は、「大化の薄葬令」発布の約半世紀後に、草壁皇子の死に際しての殯宮に長歌を寄せているし、高市皇子の死に際しての「城上の殯宮」にも言及しているからである。人麻呂はまた王女明日香皇女の殯宮に際しても長歌を作っている。

では庶民の間ではどうだったか。詳しいことは分からないが、平安末期の餓鬼草子などには、庶民のあいだに風葬の習慣が残っていたことを伺わせる光景が描かれているので、庶民の間においても、「大化の薄葬令」の趣旨は必ずしも浸透しなかったことを伺わせる。

ところで、「大化の薄葬令」をよくよく分析すると、そこには矛盾した考えの共存していることに気づく。一方では、葬祭の簡素化をうたっていながら、他方では、遺体を放置させていないで、即座に決められた墓地に運んで埋葬することを求めているのである。殯をもうけずに則埋葬することは、たしかに葬祭の簡素化につながったかもしれないが、一国一か所に指定された埋葬場所に遺体を持って行って、しかも死んだ当日に埋葬することは、少なくとも庶民にとっては、大きな負担になったに違いない。

いずれにせよ、この「大化の薄葬令」があまり尊重されなかったことはたしかなようだ。その理由はいろいろあるだろうが、やはり古代日本人が抱いていた霊魂観が、決定的に働いていたのであろうと考えられる。

つまり、人間が死ぬと、そこから魂がいったん抜け出て遊離魂となるが、その魂は一定の期間死者の周りに漂っていて、場合によっては再び戻ってくることもある、つまり死者が蘇生することもありうる、そう古代の日本人は信じていた。それ故、游離婚が再び戻った時に、無事宿ることのできる肉体を確保しておかなければならない。そうでなければ遊離魂は無事蘇生することができない。

殯とは、この遊離魂が再び肉体に戻って蘇生することを成就させるためのものとして、古代の日本人が考え出した装置だといえる。
 
 
 
大化二年(646)、『(孝徳)天皇が聞いている話では、「中国では皇帝が墓について、昔は質素だったと民を戒めている」から我が国でも、身分によって、王、諸臣下それぞれ墓の規模を定める。・・・』というもののようです。(たぶん)
今、問題としたいのは、孝徳天皇が「朕聞く」としている部分です。

《古之葬者、因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而己。故吾營此丘墟、不食之地 欲使屠代之後、不知其所。無藏金銀銅鐵。一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。棺漆際會三過。飯含無以珠玉。無施珠襦玉柙。諸愚俗所爲也。》
《叉日、夫葬者藏也。欲人之不得見也。》

(漢文が読めるわけではありません。あしからず。講談社の学術文庫の現代語訳日本書紀下が見当たらないので引用したしだいです。以下の訳も、間違っていたなら、後で直します)

『いにしえの葬は丘陵を墓として、土を盛り上げないで、樹も植えなかった。
棺は遺骨が入るに足りればいい、衣は遺体が隠れるだけでいいというものだった。
だから私も開墾に適さない丘陵に墓を造り、代が変わった後は、誰にも墓の在り処を知られたくない。貴金属はいれないでほしい。瓦の器をおいて、埴輪とか人形の代わりにしてくれればいい。
棺のふたと箱の接する所には漆を三度塗ってくれ。口に珠玉を含まさないでくれ。豪華な玉衣を置くこともだめだ。それは愚かな人のやることだ。』
またいう「夫葬者藏也。欲人之不得見也」
『葬られた所は秘密にしてくれ。人に見られたくないからだ。』

 ここは、「魏志、武帝紀・文帝紀」にある文章そのままだそうです。「朕聞く」ということですから、それでいいわけです。
 ところが、これらはインターネットで検索した阿武山古墳の構造とか棺、副葬品、遺体の状況などと、ほぼそっくり同じに見えるのです。
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/kohun_abuyama.html
《阿武山古墳は、阿武山の中腹・標高約210mの尾根上にあります。昭和9年、京都大学の地震観測施設建設のさいに偶然発見されました。
 この古墳は盛土がなく、尾根の小高いところを幅2.5mの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82mの墓域を区画しています。中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルを組み上げ、内側をしっくいで仕上げた墓室があり、漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていました。棺内には、銀線で青と緑のガラス玉をつづった玉枕(たままくら)を用い、きらびやかな錦をまとった60才ほどの男性の遺体がありました。》
 
 阿武山古墳は偶然発見されました。初めから秘密の墓所だったからです。
以前に墓と知られていたというものが、忘れ去られていて発見されたというものではないのです。
盛り土もないのです。墓所と思わせるものは、最初からなかったのです。
阿武山古墳を造った人の望みは「誰にも、後の子孫にすら知られたくない」ことだったとしか思えないのです。
 樹を植えなくても、1300年も経てば樹だって生えてきます。82mの墓域は大きいように見えます。しかし、頑丈に造られた墓室はもちろん、だいぶ、小さいはずです。
 棺は、中国の文章の棺より立派そうです。中国の棺よりも漆をふんだんに使用していそうです。遺体の保存状態が良かったのはそのせいもあるでしょう。(埋め戻されているという現在の状態は大丈夫なんでしょうかねぇ。)
 副葬品も高貴な出身だと推測されるものですが、数も少ないし、貴金属もありませんでした。見つかった須恵器が、副葬品なのかどうかわかりませんけれども、大化薄葬令の中国の文章に見える「瓦の器」と思えます。
また、阿武山古墳の地が耕作に適する地とも見えません。
 
 阿武山古墳は大化薄葬令の前半の文章に合致すると思えます。
そこから推測を働かせます。

 では、阿武山古墳は646年大化の薄葬令にもとづいて造られたのでしょうか。
違うと思います。
この、薄葬令の文章は、少なくとも中国の魏志を引用した前半の文章は、後にこの646年に組み込まれたものです。(組み込まれたという部分では、薄葬令全部です)
 薄葬令が出されるのは、(大化の薄葬令の後半部分のことです)持統天皇が亡くなられる直前だと考えます。この時、持統天皇は退位していて太上天皇になっていました。

 いきさつを知っている方にはわずらわしいでしょうが、私自身すぐ忘れますので、引用しておきます。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jitoutennou.htm
持統天皇(645~702)
《686年(朱鳥-しゅちょう-元年)9月9日の天武天皇没後、皇后は、17歳で生んで寵愛していた子の草壁皇子(くさかべのみこ)をすぐに即位させず、母子2人で国政を執行する体制(称制-しょうせい-天皇の死後、皇太子または皇后が即位せずに政務をとること)を整えるとともに、姉であり、大海人皇子の妃でもあった大田皇子(おおたのひめみこ)の子の大津皇子(おおつのみこ=天武天皇の第3皇子。皇后の継子)を謀反のかどで自殺に追い込み、草壁即位の安全を図るが、2年3ヶ月の長きに渡った天武の葬儀(「もがり」という弔いの儀式)が終わると間もなく、689(持統3)年4月13日に草壁皇子が28歳で死亡、草壁皇子の遺児で孫にあたる軽皇子(かるのみこ=後の第42代文武-もんむ-天皇)が成長するまでの中継ぎとして690(持統4)年1月1日、自ら即位、在位中に31回も行幸(ぎょうこう=天皇の外出)するなど精力的に活躍した。》
《この持統天皇は、天武天皇の遺業を受け継ぎ、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行、庚寅年籍(こうごねんじゃく=戸籍)を作るとともに、藤原(現在の橿原-かしわら-市)に整然とした、碁盤の目のような道を持つ新しい町である宮殿(藤原宮-ふじわらきゅう-)を造営するが、この時代に大化改新以来の(10世紀頃まで続く)古代律令国家(りつりょうこっか=法律と官僚機構によって動かされる一人前の国家)建設はほぼ完成する。

697(持統11)年8月1日、父子相承(そうしょう=次々に受け伝えていくこと)こそが国家安泰の基礎であるとして、草壁の遺児軽皇子が15歳に成長すると譲位し、太上天皇(だいじょうてんのう・だじょうてんのう=天皇が位を譲った後に称する尊号で、持統天皇が譲位して称したのが最初である。一般に太上皇・上皇・院と呼ばれる)として第42代文武天皇を支えた。
702(大宝2)年12月22日、58歳で没した。》
《天武・持統天皇陵==明日香村野口(近鉄飛鳥駅から北東へ徒歩20分)
天武天皇と、その皇后であり自ら皇位を継いだ持統天皇の夫婦合葬陵で、檜隅大内陵ともいう。規模は、8角形の5段築造で、東西45m、南北50m、高さ9mである。玄室内には、大化薄葬令により天皇で初めて火葬された持統天皇の火葬骨を納める金銅製の蔵骨器が、棺台の上に置かれている。》


大化薄葬令646年3月22日、
持統天皇崩御702年12月22日
(これは新暦でいうと703年1月13日になるらしいです。ウィキペディア)
薄葬令は持統太上天皇の発案で、大宝二年に出されたものと考えます。
しかし、実際にというか形式的にというか、詔を出されたのは、時の天皇、草壁皇子の遺児、持統天皇の孫、文武天皇だと思われます。そして文武天皇は軽皇子とよばれていたそうです。
そして、孝徳天皇も軽皇子と呼ばれていました。
(皇極四年六月(645)・・位を軽皇子(孝徳天皇)に譲りたまふ。中大兄を立てて皇太子とす)

まず大化二年と大宝二年でつながります。軽皇子でもつながります。
ですから、薄葬令は軽皇子(文武天皇)が大宝二年(702)に出されたはずのものを、軽皇子(孝徳天皇)が大化二年(646)に出されたというふうに変えたのです。
(このことはどなたか既に発表されているかもしれません。しかし、繰り返しの十九年間のことはわからないはずです)
その上、ここには繰り返しの十九年が使われているのです。
702-646=56です。19×3=57で一年足りません。しかし、薄葬主義に基づいて持統天皇が、天武天皇陵に合葬されたのは703年です。ですから、703年の57年前に薄葬令が出されたことにするのは、繰り返しの法則上可能です。(いいことにします)

57年も前に出された詔を、持統天皇の時に初めて実行するというのはおかしなものです。
ところが、天武・持統天皇合葬陵が薄葬令に基づいたというのも奇妙なのです。確かに大化の薄葬令の後半には合致するかもしれませんが、前半部分とは合致しません。
天武・持統天皇合葬陵は確かに薄葬だと思われます。しかし、秘密にはなっていないようですし、陵というのもすぐわかるようです。これは大化の薄葬令の前半の記述と一致しません。
貴金属が副葬されているという話もありますが、これは当てにならないかもしれません。
もし、貴金属が副葬されているとしたならば、余計に大化の薄葬令と合致しません。
ということは、大化の薄葬令の前半と後半は別のものです。
こう考えます。
持統天皇に「記・紀」の構想があったとして、大宝二年の薄葬令を大化二年に、その記述を持っていくことは、許可していたかもしれません。
(不比等が勝手にやったかもしれませんが)
ところが、不比等は持統天皇崩御後、薄葬令の前半に、中国の魏志から持ってきた薄葬の文章を入れてしまったのです。
すると、天武・持統天皇陵の薄葬を皮肉っているようにも見えます。
 そしてその文章に合致するような御陵を、やはり持統天皇崩御後に、阿武山の丘陵に造ったと考えられます。
 そして、元の御陵から、天智天皇のご遺体の夾紵棺を運び出し、秘密裏に阿武山丘陵に埋葬しなおしたのでしょう。
 
 
 
 

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