土呂久砒素公害
土呂久砒素公害(とろくひそこうがい)とは1920年(大正9年)から1941年(昭和16年)までと1955年(昭和30年)から1962年(昭和37年)までの計約30年間、宮崎県西臼杵郡高千穂町の旧土呂久鉱山で、亜砒酸を製造する「亜ヒ焼き」が行われ、重金属の粉塵、亜硫酸ガスの飛散、坑内水の川の汚染でおきた公害である。
概説
発生場所は宮崎県西臼杵郡高千穂町土呂久で1920年に同部で亜ヒ酸を製造した直後から亜ヒ酸の粉じん、亜硫酸ガス、重金属が体内にとりこまれて起った公害である。同部はV字型の谷をなし、猛烈な煙が停滞した。亜ヒ酸製造は1920年から1941年に及び、中断を挟み1955年から1962年も製造した。同地区において多くの被害者を出した。
歴史
- 1920年 宮城正一が土呂久鉱山で亜砒焼を始める。
- 1923年 和合会が亜ヒ酸害毒を問題にする。
- 1925年 牛馬の奇病相次ぎ池田獣医が報告記を記載。
- 1930年 佐藤喜右衛門の妻サキ死亡。家人7人のうち5人が次々と死亡。
- 1933年 中島商事が経営を始める。
- 1936年 岩戸鉱山株式会社設立。
- 1937年 日中戦争始まる。毒ガスの原料として使われていた。行き先は瀬戸内海の大久野島である。大 久野島毒ガス資料館がある。
- 1941年 火災が起こり休山。1943年岩戸鉱山から中島鉱山へ。
- 1955年 反対にも関わらず中島鉱山が再開。
- 1960年 日向日日新聞が煙害を報道。
- 1962年 閉山。1967年住友金属鉱山へ鉱業権が移る。
- 1970年12月8日 眼病、気管支炎のある佐藤ツルエが法務局に人権相談へ駆け込む。
- 1971年 小学校の教師斎藤正健は佐藤ツルエに会う。
- 1971年11月13日 西日本新聞に斎藤正健が公害を告発。
- 同年11月28日 宮崎県医師会による検診。8名に異常を認めるも、公害は否定。
- 同年11月29日 環境庁から調査官がきて、公害を否定した。
- 1972年2月熊本大学で精密検査を行う。皮膚所見は慢性ヒ素中毒としたが、内臓所見は現時点ではヒ素との関係は不明としている。
- 文献:中村家政ら:宮崎県土呂久地区廃止鉱山周辺の症例、第1報、第2報、熊本医会誌 47,846-515,516-530,1973.[1]
- 1972年に宮崎県により粉じんの砒素濃度の調査が行われた。高濃度のヒ素が検出されたが、何故か3ケタ低く発表され、県議会で訂正された。
- 1972年7月九州大学医学部倉恒教授により「土呂久地区の鉱害にかかわる社会医学的調査成績」と同要約を発表。健康被害に最も重要な役割を果たしたものは砒素であり、ついで亜硫酸ガスとした。同教室の徳留信寛は肺癌多発を方向性を示唆した。次いで宮崎県黒木知事は第一次知事斡旋に上京した。環境庁は皮膚と鼻の症状(鼻中隔穿孔症)があると認めるとした。
臨床所見
- 中村らが重視したのは皮膚症状で、斑状、びまん性の両方があり、露出部のみならず、被服部位にもみられ、白斑は特に被服部位で、雨だれ状が特徴的であり、角化症も手足などに見られた。また皮膚癌もみられた。皮膚、毛髪、爪においては、ヒ素は検出しなかった。呼吸器症状(52.1%)、耳鼻科症状(70.8%)、眼科症状(83.3%)、末梢神経症状(62.5%)も見られた。なお、同じ中村らは1976年に48人に増えた記録も行っている。[2]
- その後の報告で、ボーエン病、内臓癌(肺癌泌尿器の癌)、末梢循環障害(壊疽など)などの発生が追加されている。
- 堀田らは1975年の検診で91名の詳細な症状を記載しているが、呼吸器症状は遷延か増悪、消化器症状は軽減が多く、眼耳鼻科症状は遷延、心臓循環器症状は増悪、神経症状は増悪、急性皮膚炎症状はみられないが、色素沈着、色素脱出、角化症は全例増悪していると記録している。[3]
- 宮崎医科大学皮膚科(現宮崎大学医学部皮膚科)により、土呂久の検診が継続されている。
- ボーエン病は、日光露出部にもみられるが、特に、躯間にしかも多数みられる場合は慢性ヒ素中毒を疑うべきであるとされる。
裁判
- 1975年12月 5人1遺族は宮崎地裁延岡支部に提訴した。被告は1967年に鉱業権を買った住友金属鉱山株式会社である。
- 1984年3月 原告勝利。
- 1988年9月 控訴審判決。苦渋の勝訴。
- 1990年3月 全面勝訴。
- 最高裁から和解へ
- 1990年7項目の和解条項が原告(5名)と被告(住友側)の間で成立した。裁判も15年もかかり、責任はうやむやとなったが見舞金が支払われることになった。その間公害健康被害補償法が成立したが、この現実的役割は大きい。
日本の砒素公害
- 旧松尾鉱山(宮崎県児湯郡木城町)は1934年から58年まで断続的に操業し、採掘した硫ヒ鉄鉱から亜ヒ酸を製造した。72年3月、元従業員の慢性ヒ素中毒症が発覚。被害者らは鉱山を経営する旧日本鉱業に損害賠償を求めた。83年3月、宮崎地裁延岡支部は同社に対し、原告6人に約1億400万円の支払いを命じる判決を言い渡し、同社は翌4月、原告を含む被害者の会と協定書を締結した。宮崎県内では高千穂町の旧土呂久鉱山でもヒ素公害があり、松尾は「第2の土呂久」とも呼ばれた。[4]
世界の砒素公害
- 堀田らは、土呂久鉱害検診を通じて、世界の砒素公害に興味を発展させアジア砒素ネットワークを作った。全世界の砒素公害を現地を訪れて比較研究している。
休廃止鉱山周辺の健康被害
(1) 概要
宮崎県土呂久鉱山周辺の砒素による住民の健康被害の問題については、岩戸小学校斉藤教諭からその事情が発表され土呂久鉱害として世間の耳目をひく問題となった。これが発端となり国会においても、全国に散在する多数の休廃止鉱山についての鉱害問題としてとり上げられることとなった。
宮崎県土呂久鉱山周辺の砒素による住民の健康被害の問題については、岩戸小学校斉藤教諭からその事情が発表され土呂久鉱害として世間の耳目をひく問題となった。これが発端となり国会においても、全国に散在する多数の休廃止鉱山についての鉱害問題としてとり上げられることとなった。
現在、全国に散在する休廃止鉱山は5,000から6,000と推定され、通商産業省においてはそのうち1,050鉱山に重点をおいて実態を把握するための調査を進めており、さらにこのうち113鉱山については、環境庁で水質などの環境汚染調査を行っているところである。
また、周辺住民の健康調査については、この環境汚染調査の結果に基づき、住民の健康に影響があると予想される場合には、健康調査を実施することとしているが、島根県笹ヶ谷鉱山など、現に住民の健康影響上のおそれが予想されている一部の鉱山については、現在、関係県において健康調査を実施中である。
(2) 宮崎県土呂久鉱山の健康調査
休廃止鉱山問題の発端となった土呂久鉱山は、貞亨年間(1684―1687年)に銀山として鉱石の採掘が行なわれて以来、37年まで断続的に錫精鋼や三酸化砒素の生産が行なわれた。
すなわち明治初期当時から大正9年までおよび昭和8年から14年までの間に三酸化砒素の生産が行なわれ、また昭和30年から37年までは中島鉱山株式会社において砒素鉱の山元製錬が行なわれ、年間50〜100トンの三酸化砒素を産出していた。その後、同社は37年操業を中止し、鉱区は住友金属鉱山(株)の所有となった。
宮崎県においては、44年から公害の未然防止の観点から県下における休廃止鉱山の一斉点検を実施した。この中で土呂久鉱山は要監視鉱山とされ、通商産業省福岡鉱山保安監督局と協議しつつ、調査および環境汚染源対策を講じてきたが、この問題による住民不安に対処するため、46年11月から所要の環境調査を行なうとともに、九州大学倉恒匡徳教授を委員長とする調査専門委員会を発足させ、土呂久地区の社会医学的調査を実施した。
この調査においては、土呂久地区住民269人を対象として第1次検診を行ない、このうち18人について第2次検診を、さらにこのうち8人について精密検診を行なった結果、土呂久鉱山の操業に伴って発生した三酸化砒素に暴露したことによる慢性砒素中毒と思われる皮膚所見が地元住民7名に認められた。
(3) 救済
環境庁においては、土呂久鉱山その他において砒素による健康被害が疑われたため、島根等関係県に助成し、休廃止鉱山周辺住民の健康調査を行なうとともに、「砒素による健康被害検討委員会」(委員長久保田重孝)を発足させ、砒素の健康被害に関する疫学的健康調査方法、臨床的診断方法および救済のための公害病認定条件について検討を行なった。
環境庁においては、土呂久鉱山その他において砒素による健康被害が疑われたため、島根等関係県に助成し、休廃止鉱山周辺住民の健康調査を行なうとともに、「砒素による健康被害検討委員会」(委員長久保田重孝)を発足させ、砒素の健康被害に関する疫学的健康調査方法、臨床的診断方法および救済のための公害病認定条件について検討を行なった。
検討委員会は47年9月から6回の会合を重ね、48年1月には中間報告として「砒素の環境汚染による健康被害者の認定条件等について」を発表した。環境庁はこの報告を受けて、「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」に基づき、48年2月慢性砒素中毒症の救済地域として宮崎県西臼杵郡高千穂町土呂久地区を指定した。また、宮崎県は、同時に同法に基づいて公害被害者認定審査会を設置し、公害病認定のための準備をととのえた。
なお、宮崎県知事は土呂久地区社会医学的調査により砒素中毒症とされた健康被害者7人について、会社との補償あっせんを行なっていたが、47年12月28日双方とも知事あっせん案を受諾した。
旧松尾鉱山ヒ素公害
旧松尾鉱山は1934年から58年まで断続的に操業し、採掘した硫ヒ鉄鉱から亜ヒ酸を製造した。72年3月、元従業員の慢性ヒ素中毒症が発覚。被害者らは鉱山を経営する旧日本鉱業に損害賠償を求めた。83年3月、宮崎地裁延岡支部は同社に対し、原告6人に約1億400万円の支払いを命じる判決を言い渡し、同社は翌4月、原告を含む被害者の会と協定書を締結した。宮崎県内では高千穂町の旧土呂久鉱山でもヒ素公害があり、松尾は「第2の土呂久」とも呼ばれた。(2009-07-06 朝日新聞 朝刊 2社会)
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