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[転載]舞鶴市 戦後70年語り継ぐシヘ?リア抑留の記憶

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2015/02/05 に公開
京都府舞鶴市は、第2次大戦中に、日本国外に660万人の日本人がいて、敗戦後引き上げるのに、この舞鶴がたくさん利用され、ここから、祖国に帰還した人もたくさんいるのです。

 それで、舞鶴に、引き上げ者の記念館が88年にオープンし、今は、ユネスコの世界遺産への登録を申請しています。ここにある引揚者の記録で、過去にはユネスコにはアンネの日記も登録されています。結果が分かるのは今年の夏ごろで、しかし、戦争を記憶を語り継ぐ人は90歳になろうかとして、記憶の風化が懸念されます。
そして、敗戦時には、満州国に、旧ソ連が攻め込み、60万人の日本人を捕虜として、シベリアに連れて行き、長い人は11年も抑留され、強制労働をさせられました。6万人が現地で亡くなられました。

 舞鶴の田中雄作さん、19歳で志願し、満州に送られ、そして敗戦で、東京へ帰る列車として乗ったら、シベリアに送られ、寒い中過酷な労働をさせられました。指は凍傷でやられ、食べ物がなく、バッタやムカデ、蛇も食べ、中には食べ物と思って食べたら馬糞であり、1週間後に亡くなった人もあったのです。

 それで、田中さんは、4年後に解放され、日本に舞鶴経由で帰国、戦時中、兵士は捕虜になり辱めを受けるなとされていたので、排除されるかと思いきや、舞鶴は暖かく歓迎してくれたそうです。(関西テレビ:2015.2.5 放映)この記事はこのサイトから引用しました。詳しくは下記サイトを見てください。
http://civilesociety.jugem.jp/?eid=28997  
関西テレビさん。いいルポをありがとうございました。


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ユネスコ記憶遺産として登録されることが決定いたしました

このたび、舞鶴引揚記念館所蔵品がユネスコ記憶遺産として登録されることに決定いたしました。
ご支援賜りました皆様にこの場をお借りし、あつく御礼申し上げます。
これからも舞鶴引揚記念館をどうぞよろしくお願いいたします。


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シベリア抑留日本人が知るべき歴史 - NAVER まとめ

matome.naver.jp/odai/2137368254599456901 - キャッシュ
2016年3月7日 - シベリア抑留日本人が知るべき歴史. ソ連からモスクワ時間1945年8月8日に宣戦布告 され軍人だけでなく民間人も強制的に徴収シベリアだけでなくモンゴルや中央アジア、北 朝鮮、カフカス地方、バルト三国まで移送されて、強制労働を科 ...


シベリア抑留
シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)でソ連軍が侵攻・占領した満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)において、終戦後武装解除し投降した日本軍捕虜及びソ連軍が逮捕した日本人(民間人、当時日本国籍者であった朝鮮人などを含む)らを、ソ連が主にシベリアやモンゴルに労働力として移送隔離し、多数の人的被害を被らせた枢軸国側人の抑留と奴隷的強制労働に対する日本側の呼称。
遠くシベリアの地に眠る 国家に見捨てられたひとびとの墓

遠くシベリアの地で、訪れる者もなく眠るひとびとの墓は「国家」なるものの底知れない冷酷さを私たちに教えてくれる。

私のシベリア抑留体験記
高橋秀雄さんの体験記です。
~シベリア抑留を生きのびて~ 
 中村友三郎さん(諫早市天神町)さんの戦争体験

ラーゲルとは収容所ですがいったいどんな所だったのでしょうか

シベリア抑留死亡者名簿
自身抑留体験をもつ村山常雄が、10数年にわたり収集してきたシベリア抑留中に現地で無念の死をとげた戦友たちの名簿を、その慰霊と顕彰のために公開するものです。
シベリア抑留中死亡者に関する資料の調査について
厚生労働省では、ロシア政府等から提供された抑留中死亡者の名簿について、日本側資料との照合調査を行い、名簿に登載されている死亡者の特定に努め、特定できた死亡者の関係遺族に対して、都道府県を通じて名簿の記載内容をお知らせしております。
シベリア抑留中死亡者に関する資料の調査について

(1)旧ソ連地域に抑留された者 約 575,000人(うちモンゴル約 14,000人)
(2)現在までに帰還した者 約 473,000人(うちモンゴル約 12,000人)
(3)死亡と認められる者 約  55,000人(うちモンゴル約  2,000人)
(4)病弱のため入ソ後旧満州・北朝鮮に送られた者等 約  47,000人




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従軍看護婦も含まれていました。















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2014/06/24 に公開
2009年にアンビリバボーが放送した一部の映像です
無事帰国するはずだった日本兵士の捕虜たちが
とても環境の悪い場所で奴隷のように働かされ
3年後、無事帰国はできたが、自分の命を掛けてまで
他の兵士たちを助けてくれた
生死すらも分からない小隊長を60年間探し続けていた
小保茂さんが、その小隊長にできた、という感動の物語です

この内容でソ連兵が汚らしく見えますが
ソ連兵も日本兵に数多くの尊敬できる隊長や
部下を殺されています
どちらも敵兵士は憎たらしい
戦争が長引けば捕虜は大体こういった対応をとられます
小隊長はソ連兵から兵士の心を持っていることが分かったので
殺さなかったのでしょう

最後のビデオレターの時、延長時間がズレ予約タイマーが切れて
1分ほど映せなかったのが残念です


詳しい情報は分かりませんが
ここでは男性兵士が奴隷のように働かされていましたが
捕虜になれば女性であっても同じ条件で働かされていたそうです

音楽

  • 坂本龍一 の「Merry Christmas Mr.Lawrence (Theme Free Time take1)」 (Google PlayiTunes)
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シベリア抑留者の生活実態
中澤 理兵士

体験地
シベリア・クラスノヤルスク
体験内容
シベリア抑留
当時、我々兵隊の耳に入ってきた唯一の情報、噂としては、8月15日の終戦から相当日数がたってからではあるが「日本は戦争に敗けてしまったらしい。これから今回の戦争のために荒れた地域の復旧作業に行くことになり、それが終われば、それぞれの故郷に帰れることになる」という、今考えると典型的なデマが流れていたことが今でも耳に残っている。
そうこうしている中、我々兵隊にはさらさら何の情報もなかったが、自分たち所属の部隊長以下全員がソ連軍の俘虜(ふりょ)になってしまったこととなり、毎日毎日、満州国内のどの地域か全然分からない中、野外の草原で寝ころんだり、ふらふら歩いている生活が続くようになり、従って当時の食事としては、今まで戦争する覚悟で残しておいた非常用の乾パンを、毎食数個ずつ食べながら水筒の水を飲んで飢えを凌ぎ、何の希望、目標もなくまさに夢遊病者のような状態で毎日生きていた。

当時としては、このように現在置かれている情勢はどのようになっているか、我々兵隊としては全然分からなかった。
今考えてみると、当時ソ連軍が在満の約57万有余のいわゆる関東軍の兵士を、いつ、どこへ、どのような方法で輸送し、そして、どのような作業に就労させるかを、ソ連軍として検討している時期であったのだということが推定されました。それから日時は全然分からないが、満州国内から、いわゆる荷物を搬送する貨車に詰め込まれ、陸上交通でソ連領域シベリアに向け搬送されることになった。今考えてみると「ナホトカ」から、いわゆるシベリア鉄道で貨車輸送されていたものと考えられる。

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このようにして、当時の貨車輸送中は毎日が、昼間でも薄暗い貨車の中で当時の軍隊組織が維持されており、周りの兵隊と話をすることさえ許されないこと、また貨車で一日中板の上に座ったままで尻が痛くても、横になったり寝転ぶことは許されず、しかもこの当時の食車としては、当時ソ連国の国策として「働かざるもの食うべからず」という鉄則に従い、1食が今で言う災害用の乾パン1粒、水筒にある水を一口飲む程度で、これについて毎回上官が点検し、それ以上食べることは許されなかった。つまり当時としては、輸送途中にあって働かないので、とにかく死なないように命だけはつなぐ程度の食事生活におかれていた。




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転載元: 環境汚染・違法行為情報交換会のブログ


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