大江山
標高所在地位置山系
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大江山![]() 鍋塚への登山道から望む千丈ヶ嶽および鳩ヶ峰(右) | |
832[1]m | |
![]() 京都府与謝野町・福知山市・宮津市 | |
![]() 東経135度06分24秒座標: ![]() | |
丹波高地(丹後山地) | |
大江山の位置 | |
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山としての大江山
全体を大江山連峰と呼ぶため大江山と呼ばれる頂上をもった峰があるわけではない。連山には北東寄りから鍋塚(なべづか、763.0メートル)、鳩ヶ峰(はとがみね、746メートル)、千丈ヶ嶽(せんじょうがたけ)、赤石ヶ岳(あかいしがたけ、736.2メートル)と呼ばれる峰がある。このうち、千丈ヶ嶽が最高峰で832.5メートルの標高があり丹後地方最高峰である。千丈ヶ嶽には二等三角点「千丈ケ岳」、鍋塚には三等三角点「大江山」、赤石ヶ岳には三等三角点「赤石岳」が設置されている[3]。登山口としては与謝野町、宮津市、福知山市大江町がある。
山腹にはブナの原生林が広がり、稜線付近はナナカマドやヤマボウシ、山頂には笹原が広がる[4]。千丈ヶ嶽山頂からは南西側に間近に三岳山、西側に氷ノ山、南東側に丹波高地の山々、福知山および綾部市街、さらに鍋塚は360°の展望が開け、若狭湾、丹後半島を始めとして、視程の良い日には氷ノ山および白山、愛宕山なども望むことができる。
鉱山としての大江山(大江山ニッケル鉱山と河守鉱山)
詳細は「大江山鉱山」を参照
古くから鉱床があることは認識されていたが、大江山北西山麓の与謝野町(旧加悦町)において日本火工(日本冶金工業の前身)の子会社が1934年(昭和9年)に探鉱を開始し、低品位ながら無尽蔵のニッケル鉱石があることを確認した。その後、1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)にかけて大江山の鉱石を製錬する実験を試みた結果ついに成功し、1940年(昭和15年)6月からフル操業を開始した。
当初の製錬は大江山から遠く離れた石川県七尾の元セメント工場で行われたが、太平洋戦争のための兵器製造に不可欠なニッケルを大量に確保するため大江山から近い、日本海に面した与謝郡吉津村(現在の宮津市と与謝野町岩滝町)に新しい製錬所を建設し、そこへ専用鉄道(かつての加悦鉄道と日本冶金工業専用線)で輸送し、製錬した。
また大江山東側山麓の福知山市(旧大江町)佛性寺には河守鉱山(こうもりこうざん)跡があり、日本鉱業により1917年(大正6年)から1973年(昭和48年)まで銅、クロムおよび少量の銀の採掘が行われていた。主な鉱石はキューバ鉱、黄銅鉱、クロム鉄鉱、および磁硫鉄鉱などである。
鬼退治伝説
大江山には3つの鬼退治伝説が残されている。一つは、『古事記』に記された、崇神天皇の弟の日子坐王(彦坐王)が土蜘蛛陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話。二つめは聖徳太子の弟の麻呂子親王(当麻皇子)が英胡、軽足、土熊を討ったという話、三つめが源頼光と頼光四天王が活躍したことで知られる、有名な酒呑童子伝説である。酒呑童子#日本三大悪妖怪としての酒呑童子を参照の事。 これは能の演目『大江山』(五番目物の鬼退治物)にもなっている。 これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃鉱となった銅鉱山跡に1993年(平成5年)大江町(現在は福知山市の一部)によって日本の鬼の交流博物館が作られた。
当麻皇子
経歴
推古天皇10年(602年)征新羅大将軍であった異母弟の来目皇子が薨去した後、翌推古天皇11年(603年)4月に征新羅将軍となった。難波から船で出発したが、播磨国明石で妻である舎人皇女が薨去したことから、皇女を明石に葬った後引き返したという。
系譜
関連項目
鬼退治伝説の意味
金属製錬技術により大江山で富を蓄積していた、これに目を付けた都の勢力は兵を派遣、富を収奪し支配下に置いた。このような出来事が元になり自分達を正当化、美化しようとの思いから土蜘蛛退治や鬼退治伝説が生まれたのではないかとする説もあり、帰化人が山賊化し非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もある。
短歌
小倉百人一首には「大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立」(小式部内侍)という歌がある。ここでの大江山は本項でのものと京都市西京区の大枝山をかけているとの説もある。中腹に「日本の鬼の交流博物館」があり、館長は鬼の子孫と自称する人物であり、各地で講演など行っている。
概要
太平洋戦争勃発の前から日本では軍需物資として重要品目の一つであるニッケルの国産化が目標に掲げられ、開発が行われ終戦頃まで採掘されていた。
歴史
背景
太平洋戦争が迫りくるなかで、日本政府と軍部は各種の鉱産物の不足に直面し、国産化を促進する努力を始めた。そうした鉱産物の一つがニッケルで、その国産化にもっとも興味をもった企業の一つが後の日本冶金工業となる当時の日本火薬工業(日本火工)だった。同社は海軍向けの火薬の製造会社だったが、さらに軽合金や特殊鋼の国産化をめざしていた。
開発
1934年(昭和9)年に日本火工は兵庫県、京都府、福井県に見られた蛇紋岩地帯の調査を行い、結果としてもっとも有望な地域は京都府与謝郡与謝村(当時。現在の与謝野町与謝地区)を中心とする大江山連峰であることを知った。貧鉱ながらも鉱量は無尽蔵であり、同年中に子会社として大江山ニッケル工業(株)を設立し、鉱業権を取得、調査を継続した。
大江山鉱山などからの鉱石をもとに試験製錬を繰り返したが、鉱石に含まれるニッケルの含有量が低すぎたため、当初の目的だった純粋のニッケルにまで精錬することはできないままだった。しかし1938年(昭和13)年になり、ドイツのクルップ社から貧鉱処理に適した技術として「クルップ・レン法」が導入されることになった。
この方法では純粋のニッケルを製造することはできないが、フェロニッケルを粒鉄状(ルッペ)にして回収することができた。フェロニッケルは特殊鋼、ステンレス鋼、高速度鋼などの製造には十分であり、日本火工ではクルップ・レン法を採用してフェロニッケルの製造をめざすことにした。
大江山鉱山から採掘されたニッケル鉱石はトラックと貨車輸送で石川県鹿島郡西湊村字津向(現在の石川県七尾市津向町)にあった七尾セメントへ送られ、そこでセメント製造用のロータリーキルンで製錬のための工業試験を繰り返し、1940年(昭和15)年3月になってルッペ製錬に成功し、本格的な製造を開始した。
さらにこの結果に基づき、政府と陸軍の援助を受け、大江山鉱山から11キロしか離れていない与謝郡吉津村(当時。現在の京都府宮津市と与謝野町岩滝)に専用のニッケル製錬施設、岩滝製錬所を建設することになった。この製錬所は鉱山から遠くないばかりか、製錬に必須の無煙炭を朝鮮半島の清津から、石灰岩を九州から船で輸送することが可能な便利な位置にあった。
その後
日本のニッケル鉱山と産出
日本では第二次世界大戦中、京都府与謝郡の大江山で開発されたニッケル鉱山で日本冶金工業が採鉱して、近くの製錬所でフェロニッケルに製錬し、さらに川崎市の同社工場でニッケル合金として軍用に提供していた。 また山口県においても、山口県周南市~岩国市にかけて断続的に蛇紋岩帯があり、昭和15年から20年にかけて金峰鉱山などで採掘が行なわれた。この他に千葉県の房総半島など、蛇紋岩帯の存在する地域で採掘が行なわれた。しかし、これは戦時体制による商業コストを度外視したものであり、ほとんどが終戦とともに閉山・廃鉱となった。
この金属は、日本国内において産業上重要性が高いものの、産出地に偏りがあり[7]供給構造が脆弱である。日本では国内で消費する鉱物資源の多くを他国からの輸入で支えている実情から、万一の国際情勢の急変に対する安全保障策として国内消費量の最低60日分を国家備蓄すると定められている。