名古屋城は、太平洋戦争時に空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。
名古屋大空襲
名古屋大空襲(なごやだいくうしゅう)は、大東亜戦争(第二次世界大戦)末期、アメリカ軍が名古屋市に対して繰り返し行った空襲の総称、もしくはそのうち特に市街地を標的として大規模に行われたものをいう。後者においては、中心市街地が罹災した1945年(昭和20年)3月12日、名古屋駅が炎上した3月19日、または名古屋城を焼失した5月14日の空襲などを指す。鉄道が被爆した。
概要
明確な定義はないため、名古屋に対するすべての空襲を総称して大空襲と呼ばれる場合も多く、また一宮市や半田市に対するものなど名古屋近郊への空襲も便宜的に含める場合などもある。1945年(昭和20年)6月9日に熱田区の愛知時計電機船方工場・愛知航空機船方工場周辺に行われた空襲は熱田空襲と呼ばれる。
名古屋への初期の空襲
同年12月13日、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機90機により、日本の航空用発動機生産高の4割以上を生産していた東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場(三菱発動機第四工場、現在のナゴヤドーム及び名古屋大学大幸医療センター付近)に対する初の本格的空襲が行われた。天候等の関係から爆弾は思うようにこの工場に命中せず、アメリカ軍は翌1945年(昭和20年)4月7日まで執拗に爆撃を繰り返し[1]、7回の爆撃で工場を壊滅させた。工場に命中しなかった爆弾は周辺の民家に着弾し、多くの民間人が巻き添えになって死亡した[2]。
また、この12月13日には「東洋一の動物園」と謳われた千種区の東山動物園においても、爆撃で破壊された飼育施設から逃げ出さないよう多数の猛獣類が殺処分された(戦時猛獣処分)。東山動物園では他の動物園で猛獣処分が始まってからも殺処分を拒んでいたが、警備に協力していた猟友会の強い要求を受けて処分に至った[3]。
激化した1945年の空襲

炎上する名古屋駅(1945年3月19日)。屋上には高射砲の陣地があったが、全く届かなかった。
空襲は、当初は日中の高高度戦略爆撃により軍関連の工場や名古屋港などの産業施設へ通常爆弾による精密爆撃を中心に行われていたが、1945年(昭和20年)1月にカーチス・ルメイが第21爆撃集団司令官に着任してからは、焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃が始まり、3月頃からは深夜の空襲が多くなった。
3月12日未明、B-29爆撃機200機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、105,093人が罹災した。死者519人、負傷者734人に上り、家屋25,734棟が被災し、市街の5%が焼失したとされる。
3月19日午前2時頃、B-29爆撃機230機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、151,332人が罹災した。死者826人、負傷者2,728人に上り、家屋39,893棟が被災した。中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年(昭和12年)に竣工したばかりの6階建ての名古屋駅の焼け焦げた姿が遠くからでもよく見えたという。
5月14日、B-29爆撃機440機による空襲で国宝名古屋城が炎上、家屋21,905棟が被災した。66,585人が罹災し、死者338人、負傷者783人に上ったが、これ以降に撃墜されたB-29の搭乗員は、戦時国際法違反(非戦闘員に対する無差別爆撃)の戦争犯罪で斬首死刑が執行されている。6月9日には熱田空襲が行われ、愛知時計電機・愛知航空機の社員や動員学徒を含む2,068人の死者を出した。
7月26日にエノラ・ゲイによる八事日赤病院付近への模擬原爆(パンプキン爆弾)投下[4]を最後に63回の空襲が行われ、B29の来襲は2,579機に達した。投下された爆弾の総量は14,000トンに上り、被害は死者7,858名、負傷者10,378名、被災家屋135,416戸に及び[5]、名古屋市は日本の他の大都市と同様に壊滅的に破壊された。
被害状況
名古屋市の全市域約1万6000haの約24%に当たる約3850haが焦土化したとされる。特に東区・中区・栄区・熱田区の50%~60%が焼失されたとされ、都心部の公共建物や繁華街は壊滅的な打撃を受け、市の中心部は焦土と化した。
主な被災文化財
空襲により名古屋市内にあった数多くの文化財の歴史的建造物などの大半が失われ、被害を受けた。
- 名古屋城(旧国宝)
- 猿面茶屋(旧国宝)
- 空襲により焼失するが、1949年(昭和24年)に再建。
- 鎮皇門(旧国宝)、海上門(旧国宝)
- 熱田神宮にあったが両方の門とも焼失。また熱田神宮は他にも勅使館、宮庁、神楽殿などが被害を受けた。
- 空襲により本堂を焼失。平成に入って再建された。
- 七寺(長福寺、旧国宝)
- 大須観音や真宗大谷派名古屋別院を凌ぐ、名古屋最大及び大須界隈の最大を誇っていた寺勢だったが、芝居小屋や国宝の本堂、三重塔など、七堂伽藍を全て焼失し、国宝に指定されていた木造持国天・毘沙門天像なども焼失し、本尊の阿弥陀如来像も焼失。空襲から免れた経蔵と燃えながらも住職により何とか移動して助かった2体の観音菩薩像・勢至菩薩像の本体と勢至菩薩像の光背のみが搬出され焼失をまぬがれた。境内の多くは戦後復興に伴う再開発で大須の町の一部となり、現在はひっそりとした小さな寺に過ぎない。
- 空襲で焼失。1970年(昭和45年)に本堂が鉄筋コンクリート構造で再建された。
- 空襲で、ほとんどの建物を焼失。1972年(昭和47年)に本堂を再建。
- 高岳院
- 国宝の本門を焼失。
- 名古屋東照宮(旧国宝)
- 空襲で本殿などを焼失。戦後再建された。
- 国宝の表門や伽藍を全て焼失。現在はコンクリート造りの建物を本堂としている。
- 国宝の楼門など焼失。
- 源頼朝の生誕地とされる寺。空襲により本堂など全て焼失。現在はコンクリート造りの建物を本堂としている。
名古屋大空襲に関連する作品
名古屋市における戦災の状況(愛知県)
1.空襲等の概況
立地条件
名古屋市は、北部(東、北両区)と南部(熱田、南、港の各区)に工業地帯、中央(中、栄両区)に商業繁華街があり、その中間や周辺地域には密集した住宅街があった。そのなかに、中小工場が散在しており、人口密度は高く住居のほとんどが木造であった。致命的ともいえる防空上の弱点を持っていた。
爆撃目標となった理由
名古屋は工業都市であり、三菱重工業名古屋発動機、同名古屋航空機、愛知航空機、愛知時計電機、陸軍造兵廠、住友金属工業、大同製鋼、神戸製鋼、日本車輌製造、名古屋造船、岡本工業、大隈鉄工等、多くの工場が立地していた。
また、名古屋は航空機産業のメッカであり、とりわけ航空機生産の最大拠点である三菱重工業名古屋発動機は、東京の中島飛行機武蔵野工場とともに、米軍の日本本土空襲の第一目標であり、繰り返し目標爆撃の対象となった。
空爆の目的と種類
初空襲は、昭和17(1942)年4月18日で、B25が2機来襲し、全部で6箇所に焼夷弾被害があった<ドゥリットル空襲>。その空襲の主な目的は、アメリカ国民の士気高揚であったとされている。
そして、米陸軍航空隊(B29)の空襲目的は、まず、目標爆撃、精密爆撃により航空機産業の生産拠点を破壊することであり、さらに、焼夷弾による地域爆撃により、名古屋市街地を爆撃することであったが、他にも、気象観測、伝単(ビラ)の散布、偵察等といった目的でもB29は飛来した。
また、B29の掩護等のためP51戦闘機が来襲したこともあった。
(参考文献:『新修名古屋市史』第六巻)
(参考文献:『新修名古屋市史』第六巻)
2.空襲等の状況
昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件を発端とする日中全面戦争の戦局が拡大した頃、日本では物資が欠乏し始めた。国民経済が、軍事中心に組み替えられたたためである。
こうして、物資の不足傾向がはっきりと見られるようになると、輸出入の統制が強化され、他方で、奢侈(しゃし)品等製造販売制限規則が公布・施行された。軍需物資増産の優先から生活必需品の不足が目立ってくるにつれ、切符による配給制度が広がった。まず綿糸の割当制が開始。そして砂糖の切符制も始まった。その後、昭和14(1939)年4月に米穀商が許可制となり、昭和16(1941)年4月に生活必需物資統制令が公布、名古屋市を含む六大都市で米穀配給通帳制・外食券制が実施された。戦時経済統制の進展は、民需生産の抑制と軍需生産の促進を基調とした。
物資や労働力の不足により、中小商工業者は、昭和17(1942)年5月に公布された企業整備令によって整理統合された。こうして生み出された余剰人員は、軍需産業へ振り向けられ、軍需生産が可能な設備はそれに転用された。
戦時体制の強化に伴い、名古屋市の都市計画の性格も変わっていった。まず、軍需産業の生産基盤を整備するため、用途地域の変更や追加指定を行い、土地利用面からの支援政策も展開された。また、防空・防火の目的等から空地地区の指定がなされ、公園・緑地についても防空緑地公園事業が進められた。さらに、密集地帯の一般木造家屋と病院・工場・学校などの大規模木造建築物を対象とし、外壁にモルタルを塗ったり、防火壁を設けるといった建築物の防火・改修が行われた。それとともに、貯水槽と公共防空壕の設置も進められ、昭和19(1944)年5月に1,355箇所の貯水槽、同年12月に横穴式延長350mの防空壕と130ヶ所の掩蓋式防空壕の設置がそれぞれ決定され、同時に事業に着手された。防空対策を十分なものとするため、建築物を除却する建物疎開も実施された。これは、昭和18(1943)年12月に閣議決定された都市疎開実施要綱を受けたもので、名古屋市では、昭和19年1月に第一期計画第一次指定として約95,200坪の疎開空地と、約96,300坪の疎開空地帯(4路線)を指定、その後も第四期計画まで指定が行われ、全部で110万坪余が指定され建物疎開が実施された。
また、学童疎開も進められた。愛知県では昭和19年3月末から名古屋市内の国民学校児童の縁故疎開を進めたが、希望者は総計600名程度にすぎなかった。その後、学童の集団疎開の必要性が高まり、名古屋市においても名古屋市学童疎開実施要綱等を定め、縁故疎開ができない学童についての集団疎開が行われた。『愛知県教育史』第四巻によると、名古屋の縁故疎開児童は46,700名、集団疎開児童は109校32,157名であったとされている。
(参考文献:『新修名古屋市史』第六巻)
(参考文献:『新修名古屋市史』第六巻)
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/images/tokai_06_001.jpg<空地地区指定図>(昭和17年当初決定)
『名古屋都市計画史』より
『名古屋都市計画史』より
3.空襲等の状況
太平洋戦争の間、米軍は、B25による初空襲を含め、名古屋に63回の空襲を行った。B29の来襲は2,579機に達し、投下弾は判明分のみで14,500tを超える。その被害は、死者7,858名、負傷者10,378名、被害戸数135,416戸に及んだ。
目標爆撃
東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機は、全国発動機生産高の40%以上を生産していたが、昭和19(1944)年12月13日から翌年4月7日までに、7回の目標爆撃を受けて壊滅した。米軍資料によると、それらの爆撃により、全屋根面積の94%に破壊又は損傷を与えたとする。
三菱重工業名古屋航空機、愛知航空機なども繰り返し爆撃された。工場疎開も行われたが、疎開先での生産は、その損失を回復するに至らなかった。
また、昭和20(1945)年6月9日の愛知時計電機等の空襲では、防空壕に退避していた工員らが、警報の解除により工場に戻ったとき、あるいは戻りつつあるときに爆撃を受けた。その警報解除ミスにより、死者2,068名、負傷者1,944名と、人的被害において、名古屋空襲で最大の被害を出した。
地域爆撃
昭和20年3月になると、米軍は、一万メートル前後の高空から工場に爆弾を投下するというものから、約2,000mの低空から夜間に焼夷弾を投下するものへと、空爆の戦術を転換した。
夜間は戦闘機による迎撃も非常に少なく、また、高空で烈風と格闘することもなかったため、機銃装備や航空燃料を減らすことができ、焼夷弾を大量に積載できるようになった。
こうして、昭和20年3月10日の東京に始まり一週間の間に、名古屋、大阪、神戸と日本の大都市に対し、大規模焼夷弾攻撃を敢行した。しかし、名古屋には東京より125t多く投弾したにもかかわらず、東京を壊滅したほどの効果はなく、そのため米軍は、再度3月19日に名古屋大空襲を行った。この日一日にして39,893戸に被害があり、死者は826名、負傷者2,728名、罹災者142,887名に達した。死傷被害を除くと、名古屋全空襲中最大のものであった。その他に大規模な市街地空襲は、最大472機が来襲、焼夷弾2,515tを投下し名古屋城が炎上した、5月14日の北部市街地への空襲、457機が来襲し、焼夷弾3,609tを南部市街地に投下した、5月17日の空襲などがある。
(参考文献:『新修名古屋市史』第六巻)
(参考文献:『新修名古屋市史』第六巻)
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/images/tokai_06_002.jpg
<写真:市街地空襲>(昭和20年5月14日)
『目で見る名古屋の100年』より
<写真:市街地空襲>(昭和20年5月14日)
『目で見る名古屋の100年』より