人物
1876年(
明治9年)、小学校に入学。学校ぎらいで入学当初は逃げ回ってばかりだったという。鳥居は自身の教育観として、学校は単に立身出世の場であり、裕福な家庭に生まれた自分に学校は必要ない。むしろ家庭で自習する方が勝っていたと語っている
[1]。
晩年の自伝「ある老学徒の手記」には「尋常小学校を中途で退学」と記されていたため、多くの資料でも同様の記載がなされていたが、のちに徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の所蔵資料から新町小学校尋常小学下等科の卒業証書が発見されており記憶に錯誤があったものとみられている
[2]。また、上智大学文学部長だった1931年の日付が入った鳥居の履歴書も発見されており「尋常小学は寺町(現新町)小学校ニテ学修、高等は中途ニテ退学」と記載押印されている
[2]。
中学校の教師の教えを受けながら
[1]、独学で人類学を学ぶ。『
人類学雑誌』の購読者となったことが縁で
東京帝国大学の人類学教室と関係を持ち
[1]、
1894年(明治27年)には標本整理係として
坪井正五郎の人類学教室に入り、12月に同門の
伊能嘉矩と週1回行われる人類学講習会を催す。東京
遊学を言い出した鳥居に両親はしぶしぶ賛成するが、結局煙草屋は廃業し、両親とともに上京して貧乏生活を送ることとなった
[1]。
フィールドワーク
鳥居龍蔵のフイールド・ワークというと、海外での研究が著名だが、実際にはほとんどが日本国内各地での活動である。十代から、鳥居は徳島をはじめ、四国各地、後、東京帝大在職中も、日本各地のフイールド・ワークを行い、その度に展示会・講演会を開催、人類学・考古学の普及に努めた
[3]。
「(鳥居龍蔵の)アジアの大陸を歩いた旅程は、恐らく幾万キロに及んだであろう」と言われる
[4]。「現在のような飛行機の便はなく、船・車・馬を利用し、又徒歩であった。しかも丹念に学問的観察をなし、その成果を発表した」「彼の足跡は当時、台湾・朝鮮・シベリア・蒙古・満州・シナ西南部・樺太等の各地に及んだ」
[5]。
鳥居は25歳から67歳に至るまで、幾度となく東アジアを中心に調査を行った。それは鳥居の学んだ人類学の手法、特に師と仰いだ
坪井正五郎の観察を中心とした手法を採用したためであった。以下にその様子を年を追って記す。
1895年(明治28年)、鳥居が遼東半島へ調査に行くチャンスを得たのは、まったくの偶然だった。
東京理科大学の地質学の教員・
神保小虎が
アイヌの知人を助手として遼東半島へ地質学調査に赴く予定だったが、事情によりその知人が同地に行けなくなった。そのため、代理として鳥居が遼東半島に行くこととなったのである。この遼東半島での調査で、鳥居は析木城付近に
ドルメンを発見した。この発見は、まさに鳥居が海外調査を精力的に行うにいたる契機となった。
1896年(明治29年)、東京帝国大学は
日清戦争によって日本が得た新たな植民地・台湾の調査を依頼された。その際、人類学調査担当として派遣されたのが鳥居であった。鳥居は台湾での調査の際、はじめて写真撮影の手法を導入した。また、特に台湾東部の孤島・
蘭嶼に住む原住民族・
タオ族について念入りな観察を行っている。
身体形態の測定、これは、世界の人類学とは、理系の地質学・医学などなどを基礎とする「形態人類学」であり、地層分析から人骨測量など客観的データをもって、研究を進める学問的方法であり、そのため、フイールド・ワークにより、発掘した「証拠物」を理学的に検証し、始めて仮説を立てる、という非常に実証的研究方式で、だから鳥居は常に現場にいたのである。
もちろん表面的「観察」も重要視するが、実証できないことにつき、鳥居は根拠にしない。明治の人類学は、理系に基づく欧米流人類学であり、人類学者は自然科学者である(鳥居龍蔵『日本の人類学』他)。
生活に関する詳細な記録も残しており、その観察眼は大変細やかであったとされる[要出典][6]。
しかし、一方でタオ族の文化的特徴である漁業のタブーなどを、鳥居は一切報告しておらず、観察できない宗教的現象などを調査することは苦手であった。写真撮影の手法の導入やスケッチ・大量の文章などを残すことになった素地には「観察重視」の態度があったと考えられている。
1899年(明治32年)、台湾調査の合間に、坪井正五郎の命を受けて
千島列島北部と
カムチャッカ半島へのフィールドワークに向かう。この北千島への調査によって、
千島アイヌが最近まで土器や石器を使用し、
竪穴式住居に住んでいたことを発見し、鳥居は
コロポックル論争にひとつの決着をつけることになる。アイヌ民話に登場する小人・コロポックルは伝説であり、それは
アイヌ民族を起源としたものにほかならないということを調査によって実証したのである。
これは結果的に師である坪井正五郎の説を覆すことになる。なお、坪井は自説を実証させるために弟子を派遣したが、裏切られるような結論になったことについても受け入れたとされる。この北千島の調査結果は、
1901年(明治34年)東京地学会の例会で発表され、
1903年(明治36年)に『千島アイヌ』と題して刊行された。本書はフランス語で発表されたもので、欧米のアイヌ研究者の必修本と位置づけられている(『鳥居龍蔵研究』第1号)。
1902年(明治35年)、鳥居は台湾への調査の成果をいかし、中国西南地域へと向かう。台湾の「蕃族(鳥居による表現。中国古典における表現のままである)」(『中国古典』多数あり)と中国西南の
ミャオ族が人類学上密接な関係をもっているのではないかとの学術的要請のためである。これは鳥居にとって初の自らの学術的要請による調査であった。
1902年7月から
1903年3月にかけて、9か月にわたって主として
貴州省の
ミャオ族と
雲南省の
イ族の調査を行い、西南中国と台湾と日本の共通性を探る試みを行った。しかし、「ある人々に妨止せられて」
[7]中国西南部へは二度目の調査を行うことはなかった。
1911年(明治44年)からは朝鮮半島の調査に入る。
韓国併合後、
朝鮮総督府は教科書編纂のために資料収集の必要に迫られた。そこで、「体質人類学・民俗学・考古学それぞれの方面にわたる調査」を鳥居に依嘱したのである。鳥居は人類学のみならず石器・古墳も積極的に調査した。その際には考古学者
関野貞との説の違いも生じ、対立を生んでいる。後軍国傾向が強まる情勢の中、学問的真実にこだわる鳥居が、徐々にはずされて行った経緯がある(『鳥居龍蔵研究』第1号)。
1916年(
大正5年)論文「古代の日本民族」で、アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族を挙げている。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきたと考えた。日本人混血民族説(『鳥居龍蔵研究』第1号)を掲げた
[8]。
1919年(大正8年)、鳥居は調査の目をシベリアへ向け、
アムール川流域を中心に詳細な先住民族調査を行っている。
1928年(昭和3年)、多忙な調査の合間、鳥居は当時ドイツ系専門学校の上智につき、自ら文部省にかけあい、大学に昇格させた。実質創立者の一人と言えよう。(『鳥居龍蔵研究』第1号)。
1931年(
昭和6年)、鳥居は第6回目の満州調査に出かける。1931年(昭和6年)
9月、
満州事変が勃発、満州は政情不安定な状態になっていた。そんな中でも鳥居は城郭・墳墓類を綿密に調査している。
1937年(昭和12年)、外務省の文化使節として南米へ派遣。67歳と高齢にもかかわらず鳥居は精力的な調査を進め、
インカ帝国の興亡についても積極的に発言している。鳥居は人類学教室の助手だった時代から南米に触れる機会が多かったにもかかわらず、「日本に関係がない」との先輩の発言などもあり、調査を怠っていたと理解していたようである。
1939年(昭和14年)に鳥居はアメリカ・
ハーバード燕京研究所の招聘を受け、その研究者として、「客座教授」(中文)名義で、中国
北京にあるハーバード大学の姉妹校である、
燕京大学に赴任(『鳥居龍蔵の生涯』鳥居記念館・徳島)。このあとも引き続き、
山東省でのフィールドワークを続けていた。旺盛な学究意識は途絶えることなく、
第二次世界大戦後にいたるまで、ながく研究をつづけることとなった。
第二次世界大戦終結後、日本に帰還する。留守宅は空襲を受け、書庫と貴重な蔵書こそすべて無事だったものの、母屋は焼失していた。そのため、帰国後の生活は困窮をきわめた。
吉田総理大臣がその邸宅を一部かしたくらいだった(
『朝日新聞』[いつ?])。
その様子が新聞に取り上げられ、励ましの金品が贈られてくるほどであった[要出典]。
鳥居龍蔵の、その雄大なフイールド・ワークの業績とは、「未開拓の大陸の考古学や人類学・民族学の方面に、自ら足を踏み入れ、自らその閉ざされていた扉を開いたことであろう」
[9]。