ウクライナのデモ、一部暴徒化 強権路線に反発
2014.1.20 21:36[政変・反政府デモ]
【モスクワ=遠藤良介】
ウクライナの首都キエフで19日、ヤヌコビッチ大統領の退陣を求める10万人規模のデモが行われ、一部参加者が暴徒化して治安部隊と激しく衝突した。昨年11月からの反政権デモは年末から年始にかけて沈静化していたが、政権が集会規制の新法を制定するなど強権路線を鮮明にしたのを受けて再燃した。政権は近く野党側と協議の場をもつとしているが、事態を収拾できるかは不明だ。
報道によると、キエフ中心部で19日に行われたデモでは、若年層を中心とする一部参加者が、会場の広場から議会方面へ向かおうとして治安部隊と衝突。デモ隊側は角材や火炎瓶を使用し、道路を封鎖していた警察車両に放火するなどした。治安部隊は催涙弾や放水で鎮圧を図った。
20日までに警察とデモ隊で計170人の負傷が確認され、昨年11月以降で最大規模の騒乱となった。
ウクライナ議会では最近、デモ集会や反政権運動を封じ込めにつながる一連の法案が与党連合によって強硬に可決され、大統領の署名で成立した。
新法はステージやテント、スピーカーの無許可設置を禁じるなど集会に関する規制を強化。「中傷」や「過激主義」を刑罰の対象とし、外国の資金援助を受ける非政府組織(NGO)にはスパイとほぼ同義の「外国の代理人」と名乗ることを義務づけた。
19日の大規模デモはこうした抑圧的な新法に抗議して行われ、野党指導者らは大統領や議会に対する不信任署名運動などを訴えた。
ロイター通信によると、米国家安全保障会議(NSC)のヘイデン報道官はデモの暴徒化に「深い懸念」を示し、全当事者に事態の沈静化を促した。政権側には「反民主的な法律」の撤回や野党勢力との対話を求めている。
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キエフ(ウクライナ語: Київ[ˈkɪjiʋ キーイーウ])は、ウクライナの首都。ドニプロ川の中流に位置する。同国最大の都市で、政治・経済・社会・学術・交通の中心地である特別自治都市。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展した。
20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けた。
キエフ市内の人口はおよそ279万人であるが、キエフ首都圏の人口はおよそ400万人となっている。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つである。都内にある聖ソフィア大聖堂とキエフ洞窟大修道院は世界遺産に登録されている。
![]() ソフィア広場、キエフの中心地 | |||||
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愛称 : 「ルーシの町々の母」[1];「第二のエルサレム」[2] | |||||
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5世紀(伝説上) | |||||
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キエフ特別市 | |||||
キエフ | |||||
レオニード・チェルノヴェーツィクィイ | |||||
面積 | |||||
827km2 | |||||
179m(587ft) | |||||
(2005年現在) | |||||
2,514,227人 |
概要
東ヨーロッパ有数の世界都市である。週末になると、歩行者天国になる市の中心部を通るフレシチャーティク通りや、2001年の独立10周年を記念して整備され、地下ショッピングセンターなどを備えた独立広場(マイダン・ネザレージュノスチ)などで人々が賑わっている。
市内にはキエフ大公国時代の建築物が多数残されているが、戦火や共産党政権などによって破壊されたものも少なくない。その上で、黄金の門のように復元されたものも少なくない。ウクライナは両大戦において主戦場となったためそれにまつわる多くの記念碑が建てられているが、キエフ市内及び郊外にも数多くの記念碑が見られる。それ以外には、現在のキエフに戦火の傷跡を見つけることは難しい。
町は年々発展しており、他の主要都市などと比べても外観・内容ともに豊かである。
歴史
中世前期
中世期のキエフの象徴。聖ミハイール黄金ドーム修道院
しかし、年代記には創建の年代は記載されていない。考古学の資料によると、キエフは5世紀末から6世紀初頭に形成した集落として発展してきたという。当時の集落の中心地はドニプロ川の右岸に位置する城山にあったとされる。
6世紀から7世紀にかけて集落は城山から周りの丘陵への拡大したのである。キエフはドニプロ川の貿易ルート、森林と草原が接する地帯、そして多民族が交わる境界地に位置していたため、ドニプロ川の中流における政治・経済・文化的拠点として成長した。
ヴォロディーミル聖公の代(980年–1015年)には、キエフの山の手の範囲が拡大され、防衛が強化された。研究史では改善された山の手は「ヴォロディーミルの町」と呼ぶ。山の手は高い土塁によって囲まれて、土塁には3つの大門が設けられた。正門であるソフィア門は町の南方に置かれた。
988年にルーシがキリスト教を国教にすると、キエフはコンスタンディヌーポリ総主教庁のキエフ府主教区の中心となった。キエフの最大の教会は、「像の市」と呼ばれる市場と大公の宮殿の隣に建立された什一聖堂であった。
ヴォロディーミル聖公の子息、ヤロスラーウ賢公(1019年–1054年)は、さらに山の手をおよそ80ヘクタールまで拡大させ、いわゆる「ヤロスラーウの町」を建設した。本城を囲む土の城壁の長さは3.5キロメートまで達した。これによってキエフは東欧の最大の都市となった。
ヤロスラーウ賢公はキエフの正門を黄金の門に改め、キエフ府主教の座として聖ソフィア大聖堂を建立した。ヤロスラーウ賢公の子孫イジャスラーウ (1054年–1068年, 1069年–1073年)とスヴャトポールク (1093年–1113年)は新たな「イジャスラーウ・スヴャトポールクの町」を建設した。この町における中心的な建造物になったのは聖ミハイール黄金ドーム大聖堂であった。
中世後期
12世紀後半以降、キエフはルーシの聖地の役割を保ちながら、政治的な中心として衰退した。ムスチスラーウ大公(1125年 - 1132年)の後、キエフを治める有能な統治者がなく、ルーシというキエフ大公国を構成して諸公国は独立しはじめた。
1223年にキエフの軍勢はカルカ川でモンゴル軍に敗北し、1235年にチェルニーヒウの公爵ミハイール2世はキプチャクを連れてキエフを陥落させた。1239年にハリーチ公国の公爵ダニーロはキエフを獲得し、最後のキエフ大公となった。
1240年にモンゴル帝国の軍勢キエフを包囲して破壊させた。決定的な打撃を受けた古キエフは全滅され、ルーシというキエフ大公国は名実と共に亡国となった。キエフの中心地は下町ポジールへ移った。
支配する勢力は、1264年までのハールィチ・ヴォルィーニ大公国から非スラヴ系国家のリトアニア大公国に移り、1569年にリトアニアが同君連合を結んでいたポーランド王国とルブリン合同を結んでポーランド・リトアニア共和国を形成すると、ウクライナ貴族はシュラフタとして共和国のうちのポーランド王国への帰属移動を求め、キエフ県としてポーランド王国に加盟した。
その後、ドニエプル川の中流に興ったザポロージャ・コサックの統治地域に加わった。
コサックたちはポーランド・リトアニア共和国の中央政界(セイム)との対立を深め、1648年には県全体がヘーチマン国家(コサック国家)の一部としてポーランド・リトアニア共和国からの自治権を得た。キエフはヘーチマン国家の文化的中心として再び栄え、ウクライナ・バロック文化が養われた。
近世・近代[編集]
1654年、ヘーチマン国家はモスクワ大公国・ロシア帝国に対する政治的な闘争に敗れ、その宗主権下に入ることとなった。1667年、ウクライナ・コサックを巡るポーランドとロシアの戦争が講和を迎え、キエフを含むヘーチマン国家は正式にロシア帝国の版図と定められた。
その後、キエフは徐々にロシアの一地方に地位を落としていったが、それでもやはりウクライナ文化や政治運動の中心地のひとつとしての機能を担っていた。
そのため、モスクワ政府はキエフを強力な監視下に置くようになり、時期により差異はあるとはいえ、ウクライナの文化的あるいは政治的運動は「マゼッパ主義」や「裏切り独立主義」などと呼ばれ弾圧を加えられた。