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[転載]モンゴル帝国の侵攻によるルーシ諸国(ロシア)の歴史的発展と社会に対する影響

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ルーシ諸国の歴史的発展に対する影響
 
 歴史家の間では、モンゴル帝国の侵入によって引き起こされた虐殺の規模について意見の相違が見られる。ルーシの人民の犠牲者数は疑いなく甚大だった。特に、モンゴルは征服に抵抗する都市に対しては、全人口の抹殺をもって応じており、ルーシの都市も例外でなかった。「Atlas of World Population History, 1978」の著者、コリン・マッケヴェディ(Colin McEvedy)はルーシの人口はモンゴル侵攻前の750万人から700万人に減少したとみており、これによれば50万人が殺されたということになる。
 その他の犠牲者数見積はより大きく、ルーシの人口の半分が殺されたという見方もある。
 
 ルーシを名目上支配するキエフ大公国、およびルーシに割拠する諸公国に対するモンゴル侵入の影響は平等なものではなかった。キエフウラジーミルのような中心都市はモンゴルによる破壊から立ち直ることができなかった。北に遠く離れたノヴゴロドは侵略から免れたが、モンゴル侵入による大国崩壊後の空白に生まれたトヴェリモスクワといった新たな勢力がノヴゴロドを圧迫した。
 
 ルーシの多数の国の中でも、モスクワが北部ルーシおよび東部ルーシで権力を強めることができたのには、南部ルーシの大きな国々がモンゴルによって滅ぼされ立ち直らなかったことが大きな要因としてある。1327年、ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが意図したバスカク(代官)制度復活に対し、トヴェリで民衆の暴動が起き、トヴェリ大公アレクサンドルがジョチ・ウルスに対する反乱に加わると、トヴェリの最大のライバルだったモスクワ公イヴァン1世はモンゴルの側に回り、ウズベク・ハンとともにトヴェリを破り、これを徹底的に破壊した。こうしてモスクワ公国はライバルを倒し、イヴァン1世は1328年、ウラジーミルからモスクワに「キエフ及び全ルーシの府主教」を遷座させることに成功する。
 ウズベク・ハンからもトヴェリ討伐の功績から大公位を認められ、モスクワ公国はモスクワ大公国となった。モスクワ大公は、ルーシ諸国を代表してその意思をジョチ・ウルスに伝え、ルーシ諸国に対してはジョチ・ウルスの意向を伝える立場になり、モスクワの権力はますます高まった。モンゴルの遊牧民はしばしばルーシの各地方を襲って略奪を行ったが、モスクワ大公の支配する土地に対しては一定の敬意を払った。こうして、貴族やその部下たちは比較的平和なモスクワ大公国に移住しようとし、ルーシ諸国もモスクワの庇護下に入ろうとした。
 
 1380年クリコヴォの戦いで、ドミトリイ・ドンスコイ率いるモスクワ大公国軍は、ママイ率いるジョチ・ウルス系政権(ママイ・オルダ)およびリトアニア大公国などの連合軍を破り、タタールのくびきからの脱却の第一歩を踏み出した。この戦いでモスクワの権威は高まったが、ジョチ・ウルスを再統一したトクタミシュの攻撃によってドミトリイ・ドンスコイは再度ジョチ・ウルスに臣従することになった。
 モスクワ大公国がジョチ・ウルスへの貢納をやめるのは、1480年ウグラ河畔の対峙イヴァン3世がアフマド・ハンの軍勢をウグラ川から撤退させて以後のことである。
 
 ジョチ・ウルスは分裂したが、その末裔となった国家にはカザン・ハン国アストラハン・ハン国クリミア・ハン国シビル・ハン国ノガイ・オルダなどがある。しかしすべて、モスクワ大公国から発展したロシア・ツァーリ国、あるいはその後のロシア帝国に滅ぼされた。
 モンゴルがキエフ・ルーシを滅ぼさなかったとしたら、モスクワ大公国は、さらにロシア帝国は勃興することもなかっただろうという議論はしばしば提起されている。また、モンゴルによる侵入は大規模な殺戮を当初もたらしたものの、長期的に見ればその後のロシアウクライナベラルーシ各民族の勃興に大きな影響を与えたといえる。

ルーシ社会へのモンゴルの影響

 歴史家らは、モンゴルの支配がルーシ社会に与えた長期的影響についてさまざまに議論してきた。モンゴルがキエフ・ルーシを滅ぼし、古代から中世に掛けてのルーシの民族的一体性を崩壊させロシアやウクライナなどを分立させたこと、東洋的専制主義の概念をルーシにもたらしたこと、などは、古くからロシアなどではモンゴル支配の悪影響として特に非難される。
 しかしキエフ・ルーシは政治的にも文化的にも民族的にも一体の存在ではなくすでに分裂を始めており、モンゴルのキエフ・ルーシ打倒はすでに進行していた分裂を単に加速させたに過ぎないという見方もある。また、モンゴルによる支配が、モスクワ大公国の勃興だけでなく国家体制の整備にも強い影響を与えたという研究もある。モスクワ大公国は貴族の封建的階層制度である門地制度(メストニチェストヴォ、Местничество)、広い国土に命令や通信を行き渡らせる駅伝制、人口調査制度、財政制度、軍事組織などをモンゴル帝国の支配システムから引き継いだ[8]
 
 多くの歴史家が、モンゴルによるルーシ抑圧がいわゆる「西洋と東洋の狭間」の問題の大きな原因になったと見る。モンゴルの支配の影響で、ルーシでは、西洋で起こった大きな政治的・社会的・経済的改革や科学の発展の導入が遅れ、ロシアは西欧から200年分遅れた国になったという意識が生まれた。
 西洋からの隔絶によってロシアはルネサンス宗教改革に影響されることもなく、さらにその後の中産階級の形成にも失敗した。
 
 モンゴルのルーシ支配の時期、ルーシとモンゴルの支配階級の間では人的・文化的交流が盛んに見られた。1450年頃、モスクワ大公ヴァシーリー2世の宮廷では、大公のタタール人やその言葉に対する愛好から、タタール語の流行が起こり、貴族の中にタタール風の姓をつける者も現れた。
 また、ロシアのボヤール(大貴族)には、その祖先をモンゴル人やタタール人に遡ることができる家も多く、その家名にモンゴル語やタタール語の名残が見られることもある(たとえばゴドゥノフ家、アルセーニエフ家、チャーダーエフ家、ブルガコフ家、バフメテフ家)。17世紀のロシア貴族に関する調査では、15%以上がタタールほか東洋の血筋であった。その他、歴代のロシア正教会の人物にもキリスト教に改宗したモンゴル系・タタール系の人物は数多い。
 
 法の分野では、モンゴルの影響により、キエフ・ルーシの時代には奴隷にしか適用されなかった死刑が広く行われるようになったほか、捜査でも拷問の使用が広まった。モンゴルによりモスクワ大公国に導入された刑では、裏切者に対する斬首、泥棒にたいする焼印などがある。もっとも、同時期の西欧における刑罰・懲罰はモンゴルやロシアよりも過酷であった。
 
 ロシア語は、タタール語などのテュルク諸語モンゴル語から多くの単語、特に財政や金融に関わる単語を導入した。Деньги(お金)、kazna(国庫)、Таможенные(税関)、Барыш(利益)、Башмак(靴)などがこれにあたる。

転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識


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