郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。現在の城は、昭和8年(1933)、当時の大垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は八幡町重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。天守閣は築60年をこえる日本最古の木造再建城です。
現在、内部は歴史資料館などとして利用されています。市街地を流れる吉田川のほとりにそびえる山城で、城自体は小規模ですが、城下から眺める城の風景や、城から見下ろす城下町のたたずまいは大変美しいものです。11月上旬に行われている、園内ライトアップの期間中は天守閣が夜間開城されており、シーズンを通して唯一、夜の城下町を最上階からご覧いただけます。
郡上八幡城
郡上八幡城
(岐阜県)別名 城郭構造 天守構造 築城主 築城年 主な改修者 主な城主 廃城年 遺構 指定文化財 再建造物 位置
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(岐阜県)別名 城郭構造 天守構造 築城主 築城年 主な改修者 主な城主 廃城年 遺構 指定文化財 再建造物 位置
![]() 郡上八幡城 | |
積翠城、郡城、虞城 | |
平山城 | |
なし 独立式層塔型4層5階(昭和8年、1933年木造模擬) | |
遠藤盛数 | |
1559年(永禄2年) | |
遠藤常友 | |
遠藤氏、稲葉氏、井上氏、青山氏 | |
1869年 | |
石垣 | |
岐阜県史跡 郡上市有形文化財(模擬天守) | |
模擬天守 建面積118.98㎡(35.99坪) 延面積309.11㎡(93.5坪) 高さ17.18m 隅櫓 建面積22.09㎡(6.68坪) 延面積22.09㎡(6.68坪) 高さ3.72m 正門・塀 | |
![]() 東経136度57分41.23秒 |
戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。その後、東氏は郡上八幡の町を流れる吉田川[1]の対岸にある赤谷山[2]に赤谷山城を構えたが、永禄2年(1559年)牛首山(後の八幡山)の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。その時、赤谷山城を攻撃した時に砦を築いたのが郡上八幡城の起源である。
その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。慶隆追放後、天正16年(1588年)に稲葉貞通が城主となり、郡上八幡城の大改修を行った。その内容は八幡山の麓に新たに濠を掘り、本丸に天守台を設け、塁を高くして、塀を巡らし、武庫と糧庫を増築し、鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館とした。この時、現在見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれた。
その後、関ヶ原の戦いの功によって再び慶隆が城主となり、城の改修を行った。『慶隆御一世聞書』によると、郡上八幡城は慶長6年(1601年)春から慶長8年(1603年)秋まで普請を行い「惣石垣三塀二重之矢倉松ノ丸桜ノ丸等出来」とある。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以後井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。廃藩置県まで郡上藩の藩庁であった。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県によって廃城となる。廃城の翌年の明治3年(1870年)に、石垣だけを残し、取り壊された。
現在の天守は、大垣城[3]を参考に昭和8年(1933年)模擬天守としては全国的にも珍しい木造で造られた(本天守は現存する木造再建城としては日本最古となる)。石垣が岐阜県史跡[4]に、天守が郡上市有形文化財に指定され、内部は歴史資料館などとして利用されている。山城であり、市街地を流れる吉田川のほとりに聳える。城自体は小規模だが、城下から眺める城の風景や、城から見下ろす城下町のたたずまいは大変美しい。作家司馬遼太郎は『街道をゆく』で「日本で最も美しい山城であり・・・」と称えている。城の入り口までは徒歩でも自動車でも行くことができ、山麓には山内一豊と妻千代の像がある。
日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。
郡上は戦国時代、織田信長や豊臣氏の家臣であった遠藤氏、次いで稲葉氏の支配下にあった。関ヶ原の戦いで稲葉氏が豊後臼杵藩に移された後、遠藤氏も関ヶ原で東軍に与して戦功を挙げたことから、遠藤慶隆は2万7,000石を与えられて旧領復帰を許され、ここに郡上藩が立藩した。第3代藩主・遠藤常友は弟の遠藤常昭に2,000石、同じく遠藤常紀に1,000石を分与したため、郡上藩は2万4,000石となった。そして寛文7年(1667年)に城を大改修したことから、遠藤氏は城主格から正式な城主として遇されることとなった。ところが第4代藩主・遠藤常春の時代である延宝5年(1677年)から百姓一揆と家中騒動が勃発する。常春はこれを天和3年(1683年)に一応鎮めたが、元禄2年(1689年)3月24日に謎の死を遂げた。
その後を継いだ遠藤常久は元禄5年(1692年)3月29日に7歳で家臣に毒殺された。嗣子もおらず、本来であれば改易となるところだが藩祖の功績を賞して存続が許され、遠藤氏は一族の遠藤胤親が同年5月に常陸・下野両国内で1万石(三上藩)を与えられて移封となった。
同年11月、井上正任が常陸笠間藩から5万石で入った。しかし第2代藩主・井上正岑のときである元禄10年(1697年)6月、丹波亀山藩に移封された。その後に出羽上山藩から金森氏が入った。ところが第2代藩主・金森頼錦の時代である宝暦4年(1754年)から4年の長きにわたって年貢増徴に反対する百姓一揆が起こる(いわゆる郡上一揆)。さらには石徹白騒動(白山中居神社の指導権をめぐっての神主派・神頭職派の争い)と続き、頼錦は宝暦8年(1758年)12月に所領を没収されて改易となり、盛岡藩へ身柄を預けられた。
その後、丹後宮津藩から青山幸道が4万8,000石で入る。幕末期の藩主・青山幸哉は日本で最初にメートル法を紹介したとされている『西洋度量考』の編者として知られている。最後の藩主・青山幸宜は戊辰戦争のとき、新政府に与したが、家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉は凌霜隊を組織して幕府側に味方するなど、藩は2つに分かれて混乱した。
遠藤盛数
天文9年(1540年)、遠藤胤基(胤縁の子)の子で、小多良郷和田会津(現郡上市)に要害を構える和田五郎左衛門の勢力拡大を恐れた、宗家当主で篠脇城主の東常慶と謀り、兄胤縁と共に五郎左衛門を暗殺した[1]。
天文21年(1552年)、東氏の一族で福野城主の、河合七郎の勢力拡大を恐れた東常慶の命により、福野城を急襲して七郎一族を滅ぼした。それまで兄の木越城に同居していた盛数は、七郎の領地だった下川筋(現郡上市美並町)を与えられ、新たに鶴尾山城を築いた[3]。
東常慶には実子常堯がいたが、悪逆非道だったため盛数が婿養子に迎えられ、弘治年間(1555年 - 1558年)に家督を譲られたとも言われる[4]。その一方で、常慶は常堯を遠藤胤縁の娘と縁組させようともしたが、胤縁は常堯の非道を理由に同意せず、娘を畑佐六郎右衛門に縁付かせた。これを恨んだ常堯は、永禄2年(1559年)8月1日に胤縁が東殿山城を訪問すると、家臣長瀬内膳に命じて鉄砲で射殺させた[5]。
かねてより宗家に取って代わることを考えていた盛数は、兄の弔い合戦を大義名分に郡内の諸豪を募り、8月14日に兵を挙げた。一説には飛騨の三木良頼の加勢も得て、八幡山山頂に布陣。10日間にわたる攻城戦の末、東殿山城を落城させ常慶を滅ぼした[6]。盛数はこのとき布陣した八幡山に、新たに八幡城を築いた[7]。