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[転載]不動山古墳:群馬県高崎市

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〔墳形〕前方後円墳、全長94m、
〔埋葬施設〕墳頂部不動尊堂裏に凝灰岩製の舟形石棺の身部がある。長さ3.5m、幅1.4m」
〔築造年代〕
〔その他〕綿貫古墳群にある普賢寺裏古墳、不動山古墳、二子山古墳(湮滅)、観音山古墳が一代一墳の位置づけで築造されたと考えられる。
くびれ部に方形台状の造りだしがあり、特殊な埴輪配列と土師器が確認され、
祭祀の行われた場所と見られる。
〔感想〕

転載元: 古墳の彼方に


[転載]岩田14号墳:岡山県山陽町

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〔墳形〕
〔埋葬施設〕横穴式石室、全長11.8m、玄室の長さ5.5m、幅2.5m、
片袖式、木棺の痕跡が7つ確認された。
〔築造年代〕
〔その他〕700点を越える副葬品が出土
〔感想〕

転載元: 古墳の彼方に

[転載]小山(こやま)古墳:岡山県山陽町

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〔墳形〕前方後円墳、全長53m、
〔埋葬施設〕後円部頂上に舟形石棺の一部が残存、石材が阿蘇山系の「灰石」と呼ばれる凝灰岩であり、
はるばる九州から運ばれてきたと思われる。
〔築造年代〕
〔その他〕
〔感想〕

転載元: 古墳の彼方に

淡路島 歴史ある島 沼島空撮

[転載]沼島あれこれ

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2014.10.19(日)
沼島の朝は雲一つ無い秋の青空。

午前中、次の泊地への航海データ作り。
引き波が大きく、落ち着かないが、それより、どうも、水深が気になる。
2m程しかない。9時ごろの干潮で下を見ると海底が見える。
どこか移動する所が無いかなーと思いながら、きれいな沼島汽船のトイレへ。
直ぐそばにあるもう一つの赤灯台の中の係留状況を見る。
空きは十分にある。町から少し離れ、さびしい。
と、ヨットが1艇入ってくる。
よく知っているらしく、私の留めた岸壁では無く、赤燈台を入ってすぐ左におれる。
槍着けしたのかとそばまで行ってみると、大きな桟橋に横付け。
ここに留められるんですかと聞くと、
いままで何度か留めているが、何か言われた事は無い。
五月の連休なども先ずこの桟橋両側から埋まって行くとのこと。
ラッキー!ここへ移動だ。
きのう風呂に入った木村旅館の1階にある日本食屋で昼食。
沼島に来たんだからと、はも天定食。
最後のハモだそうで、美味しい時期とのこと。1300円と高く無い。
食後すぐ船を移動。たまたまもう一艇入って来て私の後に着ける。

あと、沼島散策。
沼島は私の思っていた状況とは違っていた様だ。
確かに、何か普通でない特別な所という感じがある。
観光客も多い。
しかし、歴史上に明確に登場する事績は無い。
国生み神話と結び付く明確な物が無い。
古い物は無い。
島の最大の呼び物、ダンジリを奉納する八幡神社は立派で、島民が大事にしている。
後の山が人を入れない神域となっている。
その創建は永享八年(1436)とそう古くは無い。
むしろかっては共存していたであろう直ぐ下にある寺、新宮寺の開基は元慶四年(880)と、古い。

歴史的なものとして、五輪の塔があるが室町期のものだ。
縄文、弥生、古墳等の遺跡は無い。

国生み神話に関連した上立神岩は国生み神話の天の御柱と言われている。
和漢三才図会に竜宮の表門と書かれているとある。
和漢三才図会は江戸時代でしょう。

おのころ神社へも行って参拝したが、
説明書きに、祠があり毎年、島民がお祭りしていたが江戸時代、社殿を作った。
大正か昭和になって拝殿、本殿を設けたとあるのみ。
国生み神話との関連には触れていなし。

沼島と国生み神話を結び付けた誰か知恵者が、多分大正か昭和になっていたのではないか。
ただ、沼島はたしかに普通の所では無いという気配に満ちている。
一度は行って見る価値ありと思います。

写真:
・沼島。2014.10.19、朝6時45分の朝日
・安全かつ静かな桟橋に移動したECHO POINT
・有名な沼島のダンジリが奉納される八幡神社。後の山が本来の神いますところ。
・有名な上立神岩。廻りは奇岩が連なっている。
・おのころ神社から見る沼島の港

転載元: DONのヨット暮らし

【伊豆国】三嶋大社(静岡県三島市)非常に有名な歴史上の人物が崇敬した神社

【伊豆国】三嶋大社(静岡県三島市)非常に有名な歴史上の人物が崇敬した神社

伊豆国


伊豆国 別称所属相当領域 諸元国力距離数 国内主要施設伊豆国府伊豆国分寺伊豆国分尼寺一宮
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地図 令制国 伊豆国.svg

-伊豆国
-東海道
豆州(ずしゅう)[1]
東海道
静岡県伊豆半島東京都伊豆諸島
下国
中国
3郡21郷(近世頃から4郡)
(推定)静岡県三島市
静岡県三島市(伊豆国分寺塔跡
静岡県三島市
三嶋大社(静岡県三島市)
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伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。


沿革

伊豆国の記載は記紀六国史には見られない。「国造本紀」によれば、神功皇后の時に伊豆国造を定めたが、孝徳天皇の時に駿河国に合わせ、天武天皇の時に再び元のように分けたという。また『扶桑略記』によれば、天武天皇9年(680年)7月駿河国から2郡(田方郡賀茂郡か)を分割して伊豆国としたという。また藤原宮跡出土の木簡に「伊豆国仲郡」とあることから、遅くとも和銅3年(710年)までの間に那賀郡が成立していることになる。
しかし伊豆国が成立後に一旦駿河国に併合されたという「国造本紀」の記述には積極的な裏付けがない。伊豆と駿河の氏族構成が同様であること、また伊豆は前方後円墳前方後方墳がそれほどなく独立勢力があったと考えにくいということから、天武天皇9年まで伊豆は駿河国の支配下にあったと考えられている[2]。ただし、賀茂郡について氏族構成などの独自性を認め、大化改新以前に伊豆国造の支配する伊豆国が存在していたとする論考もある[3]
律令法においては遠流の対象地となった。これは伊豆諸島隠岐佐渡と並んで辺境の島であると考えられ、伊豆半島はその入り口とされた事が背景にあると言われている。戦国時代には堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼし、伊勢盛時(北条早雲)が伊豆の国主となる。江戸時代(文禄から元禄の間)に君沢郡が分けられ、4郡となった。中世、金の産出では東北地方と並んでいた。



近代以降の沿革


国府

国司が政務を執る国庁が置かれた国府は、田方郡にあり、現在の三島市三嶋大社の近くにあったとされるが、国府跡はまだ発掘されていない。仁治3年(1242年)以後に成立した『東関紀行』には、「伊豆の國府(こふ)に到りぬれば、三島の社の…」とある[4]

国分寺・国分尼寺

塔跡は国の史跡。跡地上の最勝山国分寺(本尊:釈迦如来、Image may be NSFW.
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位置
)が法燈を伝承する。
未詳。三島市二日町の曹洞宗法華寺周辺の市ケ原廃寺、六ノ条廃寺などに比定される。法燈は、曹洞宗三島山法華寺(三島市東本町(Image may be NSFW.
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位置
)、本尊:阿弥陀如来)が受け継ぐ。

神社

延喜式神名帳』には、大社5座5社・小社87座83社の計92座88社が記載されている(伊豆国の式内社一覧参照)。大社5社は以下に示すもので、全て名神大社である。
総社一宮以下
『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[5]
  • 総社:三嶋大社(三島市大宮町)
  • 一宮:三嶋大社
  • 二宮:二宮八幡宮(三嶋大社境内摂社の若宮神社、Image may be NSFW.
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    位置
    三島市西若町付近からの遷座という。二宮八幡宮の遷座に伴い、浅間神社(三宮)の二宮格上げがあったとされる。
  • 三宮:浅間神社(三島市芝本町、Image may be NSFW.
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    位置
    ) - のち二宮。
  • 四宮:広瀬神社(三島市一番町、Image may be NSFW.
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    位置
そのほか、三島市北田町の楊原神社を三宮とする説、三島市大社町の日隅神社を五宮とする説がある[6]

守護所

国府に重なるか近隣にあったと推定されるが未詳。

安国寺利生塔

地域

人物

国司

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イメージ 1

伊豆守

※官位相当:従六位下※定員:1名 ※日付は旧暦のもの ※在任期間中、「」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
  • 御長仲継(大同元年〈806年〉2月10日 - )従五位下
  • 大伴人益(大同元年〈806年〉2月16日 - )従五位下
  • (権守)藤原真夏(弘仁元年〈810年〉9月10日 - 弘仁元年〈810年〉9月15日)正四位下
  • (権守)礒野王(弘仁元年〈810年〉9月15日 - )従五位上
  • 氷上河継(弘仁3年〈812年〉1月12日 - )従五位下
  • 上毛野清湍(天長11年〈834年〉1月12日 - )外従五位下
  • 飯高常比麻呂(承和7年〈840年〉1月30日 - )外従五位下
  • 高原王(承和7年〈840年〉3月5日 - )従五位下
  • 神服清継(承和12年〈845年〉1月11日 - )外従五位下
  • 高村武主(嘉祥2年〈849年〉2月27日 - )外従五位下
  • 高原王(仁寿2年〈852年〉11月7日 - )従五位上
  • 津良友(斉衡3年〈856年〉9月27日 - )従五位下
  • 善道継根(貞観3年〈861年〉1月13日 - )従五位下
  • 長峯恒範(貞観8年〈866年〉1月13日 - 866〈貞観8年〉1月23日)外従五位下
  • 善道根莚(貞観12年〈870年〉1月15日 - )外従五位下
  • 山口岑世(仁和3年〈887年〉2月2日 - )外従五位下
  • 源忠(延喜15年〈915年〉1月12日 - 延喜20年〈920年〉9月21日)従五位上
  • 内蔵連忠(天延2年〈974年〉4月10日 - )
  • (権守)高階信綱(長徳2年〈996年〉4月24日 - )
  • 惟宗茂経(永承8年〈1053年〉1月 - )
  • 橘則経(延久4年〈1072年〉 - )
  • 源国房(嘉保3年〈1096年〉1月23日 - )
  • 大江通国(康和6年〈1104年〉2月6日 - 「嘉承2年〈1107年〉1月19日」)
  • 中原宗政(嘉承3年〈1108年〉1月24日 - 「天仁2年〈1109年〉12月24日」)
  • 平祐俊(天永3年〈1112年〉1月27日 - )
  • 平経兼(永久4年〈1116年〉1月 - )従五位上
  • 源盛雅(保安5年〈1124年〉1月22日~大治2年〈1127年〉12月重任 - )
  • 藤原為兼(天承2年〈1132年〉1月22日 - )
  • 藤原信方(久安4年〈1148年〉1月28日 - 仁平元年〈1151年〉)
  • 藤原経房(仁平元年〈1151年〉7月24日 - 保元3年〈1158年〉11月26日)従五位下→従五位上
  • 平義範(保元3年〈1158年〉11月26日 - )従五位上
  • 源頼政(平治元年〈1159年〉12月10日 - )従五位上
  • 源仲綱
  • 源頼兼
  • 源頼貞
  • 源政義
  • 源氏兼
  • 源頼隆従五位下
  • 新田(山名)義範(文治元年(1185年)8月任官 - 建久6年(1195年)10月7日以後不明)
  • 森頼定正五位下
  • 森氏清

伊豆介

守護

鎌倉幕府

室町幕府

「南海トラフ巨大地震」シミュレーション (フール版) Nankai trough earthquake simulation (Full Edition) Japanese subscene

もしも富士山が…大噴火シミュレーションがヤバかった。富士山の噴火史


もしも富士山が…大噴火シミュレーションがヤバかった



富士山の噴火史


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富士火山による火山弾(浅間大社

富士山の噴火史(ふじさんのふんかし)では、富士火山噴火の様子と変遷を概説する
富士山は高さと山体の大きさに於いて日本最大の活火山である。富士山は最近10万年で急速に大きく成ったと考えられており、その意味では「若い火山」に分類される。現在見えている山の外観は約1万年前から噴火活動を開始した新富士火山であり、その下に約70万年前から活動していた小御岳(こみたけ)火山と約10万年前から約1万年前に噴火した古富士火山がある。

新富士火山以前の活動

約10万年前まで、先小御岳火山・小御岳火山
富士山の周辺一帯は数百万年前から火山活動が活発であったことが知られている。その中で約70万年前、現在の富士山の位置に小御岳(こみたけ)火山が活動を始めた。その頃は南東にある愛鷹山(あしたかやま)の活動も活発で、二つの大きな活火山が並んでいた。現在この火山の頭部が富士山北斜面5合目(標高2300m)の小御岳付近に露頭している。
約10万年から約5000年前まで、古富士火山 (星山期)
小御岳火山がしばらく休止した後、約10万年前から新たな活動時期に入った。この時期を古富士火山と呼ぶ。古富士火山は爆発的な噴火が特徴で、大量のスコリア火山灰溶岩を噴出し、標高3000mに達する大きな山体を形成していった。古富士火山の山体は宝永山周辺等富士山中腹にかなり認められる。約2万年前に田貫湖岩屑なだれを生じた[1][2]
氷河期と泥流
北東麓側で富士相模川泥流(1万7000前から1万4000年前)など[2]火山泥流が複数回発生した。当時は氷河期で、最も寒冷化した時期には富士山における雪線(夏季にも雪が消えない地帯の境界)は標高2500m付近にあり、それより高所には万年雪または氷河があったと推定され、山頂周辺の噴火による火山噴出物が雪や氷を溶かし大量の泥流を生じる融雪型火山泥流を発生させたと推定されている。
関東ローム層
東京周辺には、関東ローム層と呼ばれる褐色の細かい砂質の土が広がっている。これは古富士火山から飛んできた火山灰が主体の土である。同時期には箱根山も大量の火山灰を大規模に噴出させていたが、箱根の火山灰は白っぽく、古富士火山の火山灰は褐色なので見分けが付く。

新富士火山の活動

新富士火山の噴火では、溶岩流火砕流スコリア火山灰山体崩壊側火山の噴火などの諸現象が発生しており[3]、「噴火のデパート」と呼ばれている。大別すると山頂噴火では爆発的な噴火と成り、山腹割れ目噴火では溶岩流を噴出させる[4]。また、岩屑なだれ、山体崩壊、火山泥流も生じている[2]
新富士火山旧期 (富士宮期)
  • 紀元前1万5000年頃から紀元前6000年頃まで
山頂噴火と山腹噴火。断続的に大量の玄武岩質溶岩を噴出。流動性が良く遠くまで流れる傾向がある。この時期に噴火した溶岩は最大40kmも流れており、南側に流下した溶岩は駿河湾に達している。
紀元前9700年頃(約11,700年前)、三島溶岩流。紀元前6500年頃(約8,500年前)、山梨県大月市まで流れた猿橋溶岩[5]。紀元前6000年頃(約8,000年前)、馬伏川岩屑なだれ[2]
新富士火山旧期 (須走-a期)
  • 紀元前6000年頃から紀元前3600年頃まで
富士黒土層を形成。須走-a期は活動が低調であったと考えられており[4]、富士宮期以前を古期富士火山、須走-a期以降を新期富士火山とする考えもある。
新富士火山中期 (須走-b期)
  • 紀元前3600年頃から紀元前1500年頃まで
現在の円錐状の山体を形成[4]。ほとんどが玄武岩からなる。
新富士火山旧新期前半 (須走-c期)
  • 紀元前1500年頃から紀元前300年頃まで
噴火様式が「山頂・山腹からの溶岩流出」から「山頂山腹での爆発噴火」に移行した。紀元前1300年頃の噴火で大室山と片蓋山が形成。紀元前900年頃、御殿場岩屑なだれが発生[4]
新富士火山旧新期前半 (須走-d期)
  • 紀元前300年頃から現在まで
新富士火山の火山灰は黒色が多い。新富士火山の噴火は地層的にも新しく、また8世紀以後には日本の古文書に富士山の活動が記載されており、噴火について貴重なデータを提供しているが、噴出源および年代が明らかになっていない溶岩流も多くある。しかし成果もあり、2001年から2003年に行われたスコリア丘のトレンチ調査によれば、9世紀の貞観噴火では割れ目噴火が多く発生し、山頂を挟み南北両山腹で溶岩を噴出し溶岩流を流下させていた[6]
諸説あるが、古記録によれば新富士火山の噴火は781年[7]以後16回記録されている[8]。噴火は平安時代に多く、800年から1083年までの間に10回程度、1511年等に噴火や火映等の活動があったことが、複数の古文書の分析や地質調査から明かとなっている。一方、文書によっては、1560年頃、1627年1700年に噴火活動があったとされているが、信頼性は低い。また噴火の合間には平穏な期間が数百年続くこともあり、例えば1083年から1511年まで400年以上噴火の記録がないが、記録文書が散逸し残されていないだけで、噴火活動自体がなかったとは断言できない。実際に、1435年1436年には火映が記録されている。

噴火様式の違い

864年貞観噴火と1707年宝永噴火の噴出物の化学組成は玄武岩質でほぼ同じである。しかし、噴火様式は大きく異なり、864年貞観噴火が溶岩流で1707年宝永噴火はプリニー式噴火の爆発的噴火であった。この2つの噴火様式を分けたのは、マグマの脱水過程、噴火機構に違いがあったものと考えられている。
具体的には、玄武岩質噴出物中の斜長石の高圧下(約195MPa)のリキダス温度付近での溶解実験と結晶組織の分析から、864年貞観噴火は上昇したマグマはマグマ溜まりで若干の時間滞留し、脱水及び発泡と脱ガスが行われ新たなマグマが供給された後に噴出をした。また、1707年宝永噴火は地下20Km付近のマグマが滞留することなく上昇したため、脱水・発泡・脱ガスがほとんどなく、結果的に爆発的な噴火となった[9]

略年表

約3000年前
縄文時代後期に4回の爆発的噴火を起こした。これらは仙石スコリア(Sg)、大沢スコリア(Os)、大室スコリア(Om)、砂沢スコリア(Zn)として知られている。富士山周辺は通常西風が吹いており噴出物は東側に多く積もるが、大沢スコリアのみ東風に乗って浜松付近まで飛んでいる。
約2900年前
富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生し、岩屑なだれ、および泥流が発生した。この時崩壊した山体の体積は1.76 km3と推定されている[10][11]。泥流は御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下した。これは御殿場泥流と呼ばれており、この泥流が堆積した範囲は現在の三島市の広い地域に相当する。山体崩壊が発生した原因は現在の所特定されていないが、崩壊当時顕著な噴火活動がないこともあって、富士川河口断層帯ないし神縄・国府津-松田断層帯を震源とする大規模な地震によるのではないかという説がある。
482年頃(清寧天皇三年)
(旧暦)3月から4月にかけて噴火か[12]
走湯山縁起」の記述では、
清寧天皇三年壬戌三・四月、富士浅間山焼崩、黒煙聳天、熱灰頻降、三農営絶、五穀不熟、依之帝臣驚騒、人民愁歎
781年(天応元年)
噴火
800年〜802年(延暦19年)
(旧暦)3月14日から4月18日にかけて噴火。延暦大噴火
日本紀略」の記述では、
自去三月十四日迄四月十八日、富士山巓自焼、昼則烟気暗瞑、夜則火花照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也
802年(延暦21年)
1月8日 この噴火により相模国足柄路が一次閉鎖され、5月19日から翌年の5月8日までの1年間は、筥荷(箱根)路が迂回路として利用された。火山爆発指数:VEI3
駿河国富士山、昼夜恒燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘災殃
五月、甲戌、廃相模国足柄路開筥荷途、以富士焼砕石塞道也
864年貞観6年)
貞観大噴火 864年6月 - 866年初頭にかけて活動青木ヶ原溶岩を形成した噴火で、山頂から北西斜面約10Kmの(現在の長尾山)から大量の溶岩流出とスコリア噴火とを起こす。
日本三代実録』の記述では、5月25日付の報告として
富士郡正三位浅間大神大山火、其勢甚熾、焼山方一二許里。
光炎高二十許丈、大有声如雷、地震三度。歴十余日、火猶不滅。焦岩崩嶺、沙石如雨、煙雲鬱蒸、人不得近。大山西北、有本栖水海(みずうみ)、所焼岩石、流埋海中、遠三十許里、広三四許里、高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。
(ここでいう1里は6=約650m。「〜許里」は「〜里ばかり」の意。)
7月17日分の報告として
駿河国富士大山、忽有暴火、焼砕崗巒、草木焦殺。土鑠石流、埋八代郡本栖両水海。水熱如湯、魚鼈皆死。百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記。両海以東、亦有水海、名曰河口海;火焔赴向河口海本栖等海。未焼埋之前、地大震動、雷電暴雨、雲霧晦冥、山野難弁、然後有此災異焉。
とある。
剗の海(せのうみ)」は富士北麓にあった広大な湖の名だが、この時の溶岩流により埋め立てられ、水面の大半を失った。埋め立てを免れた西端部、東端部はのちに精進湖西湖として知られた。流れ出た溶岩は一帯を広く覆い、「青木ヶ原溶岩」を形成した、その後この溶岩の上には新たに森林が形成され、現在では「青木ヶ原樹海」の通り名で知られている。この貞観大噴火は、貞観地震の5年前に起きた。
937年承平7年)
噴火。
現在の河口湖と富士吉田市の間にあった「御舟湖」を埋め、剣丸尾第1溶岩を噴出させた噴火とされる。
「日本紀略」の記述では承平7年旧暦11月某日の条に、
甲斐国言、駿河国富士山神火埋水海
999年(長保元年)
噴火
1015年
北麓(剣丸尾第1溶岩)と南麓(不動沢溶岩)で同時噴火か。山梨県富士山科学研究所の磁鉄鉱分析による推定[13]
1033年初頭 (長元5年末)
噴火
1083年(永保3年)
噴火
1435年または1436年初頭 (永享7年)
噴火
1511年(永正8年)
噴火
1704年(元禄16年末〜17年初頭)
鳴動
1707年
12月16日宝永4年)旧暦11月23日 宝永大噴火。火山爆発指数:VEI5
大量のスコリアと火山灰を噴出。この噴火は日本最大級の地震である宝永地震の49日後に始まり、江戸市中まで大量の火山灰を降下させる等特徴的な噴火であった。
1708年(宝永5年)
鳴動
1854年(嘉永7年・安政元年)
安政東海地震発生。直後、富士の山頂に異様な黒雲がかかり、8合目付近に多数の火が上がる様が眺められたという[14]
1923年(大正12年)
あらたな噴気
1987年(昭和62年)
山頂のみで有感地震
2012年(平成24年)
2月10日富士山3合目(山頂の北西約6km)の山腹で僅かな噴気を確認したが、4月と5月の現地調査では湯気、温度の異常、硫黄臭は認められず[15]

宝永大噴火以降の活動

宝永大噴火後、富士山では大規模な火山活動はなかったが、江戸時代晩期から、昭和中期にかけて、山頂火口南東縁の荒巻と呼ばれる場所を中心に噴気活動があった。この活動は1854年安政東海地震をきっかけに始まったと言われており、明治大正、昭和中期に掛けての期間、荒巻を中心とした一帯で明白な噴気活動があったことが、測候所の記録や登山客の証言として残されている。
この噴気活動は明治中期から大正にかけて、荒巻を中心に場所を変えつつ活発に活動していたとされる。活動は昭和に入って低下し始めたが、1957年の気象庁の調査においても50℃の温度を記録していた。その後1960年代には活動は終息し、現在山頂付近には噴気活動は認められていない。
しかしながら、噴気活動終了後も山頂火口や宝永火口付近で地熱が観測されたと記録されている。以上のように、富士山がつい近年まで噴気という火山活動の諸形態の一つを続けていたという事実は、富士山が現在も息づいている活火山である証拠である。

地震との関係

宝永大噴火宝永地震の49日後に発生している。そのほかに南海トラフ相模トラフを震源とする地震や近隣地域地震の前後25年以内に、富士山に何らかの活動が発生している事例が多く、地震と富士山活動とは関連性があるとされる[16]
また、噴火活動ではないが、1331年元弘地震(M7)や1792年1891年濃尾地震では地震の震動で山体崩壊や大規模な斜面の崩落が発生したと記録されている。



宝永大噴火(ほうえいだいふんか)とは、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火である。2017年現在、最も新しい富士山の噴火となっている。噴火は約2週間続き、総噴出量は、約7×108





宝永大噴火


宝永大噴火
ほうえいだいふんか火山年月日噴火様式場所火山爆発指数
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Mount Hoei from Jurigi.jpg
十里木高原から望む宝永山と宝永第一火口
富士山
1707年12月16日
プリニー式
日本本州島静岡県と、山梨県に跨る
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北緯35度21分29秒東経138度43分52秒 / 北緯35.3580度 東経138.7310度 / 35.3580; 138.7310
5[1]
プロジェクト:地球科学プロジェクト:災害
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南から見た富士山の宝永火口、火口の位置:1(第一火口)、2(第二火口)、3(第三火口)、4(宝永山)
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浮世絵に見る宝永火口(歌川広重

宝永大噴火(ほうえいだいふんか)とは、江戸時代中期の1707年宝永4年)に起きた富士山噴火である。2017年現在、最も新しい富士山の噴火となっている。噴火は約2週間続き、総噴出量は、約7×108m3[2]と推定されている。噴火による直接の死者は記録されていないが[3][4]、噴出した溶岩石による火災などで甚大な被害をもたらした。


概要

宝永大噴火は、歴史時代の富士山三大噴火の一つであり、他の二つは平安時代に発生した「延暦大噴火(800年 - 802年)」と「貞観の大噴火(864年 - 866年)」である。宝永大噴火以後、現在に至るまで富士山は噴火していない。
特徴は噴煙の高さが上空20kmと推定される[5]火山爆発指数VEI5[1]プリニー式噴火と大量の火山灰である。実際に100 km離れた江戸にも火山灰が積もった。ただし溶岩の流下は見られていない。地下20km付近のマグマが滞留することなく上昇したため、脱水及び発泡と脱ガスが殆ど行われず、爆発的な噴火となった[6][7]。噴火がみられたのは富士山の東南斜面であり、合計3つの火口が形成された(宝永山)。これらは標高の高い順に第一、第二、そして第三宝永火口とよばれ、互いに重なり合うように並んでいる。ただし麓から見ると最も大きい第一火口のみが目立つ。なお、宝永山は登山道が整備されているため登山が可能である[8]

被害と復興

火山灰は関東一円に降り注ぎ、農作物に多大な影響をもたらした。
被災地の管轄は、小田原藩以外は幕領や旗本知行地が多く細分されていたが、幕府は全国各藩への石高に応じた課税により資金調達し被災各地の復興に努めた。(小田原藩では自力での復興は無理であると判断し、領地の半分を幕府に差しだし救済を求めた。)しかし、噴火から20年以上を経ても復興できない地域が多くあり、小田原藩の米の収量が元に戻るまで90年程を要した。
酒匂川流域では、堆積した火山灰(富士山周辺で推定40cm)により水位が上がり堤防が決壊し、水没する村が続出した[9]。(大岡越前守忠相に見出された田中休愚徳川吉宗の命を受けて享保11年(1726年)から復興に当たった[10]。)

富士山の噴火史

富士山の火山活動は3つの時代に分けられる。一番古い小御岳火山(こみたけ-)は今の富士山の場所で10万年以上前に活動していた。その次に古富士火山が8万年前頃から爆発的な噴火を繰り返して大きな山体を形成した。その後1万年前(5000年前とする説もある)から現在の新富士火山の活動に移行した。新富士火山の噴火では大量の火山灰火山弾などの降下噴出物、溶岩火砕流などの流出が特徴である。平安時代は特に火山活動が活発で、延暦19年 - 21年(800年 - 802年)に大量の火山灰を降らせたと日本後紀に記載された延暦の大噴火があり、貞観8年(864年)には山腹から大量の溶岩(青木が原溶岩)を流出し現在の青木が原樹海の元を形成した貞観大噴火など大きな噴火があった。その後は小規模な噴火や噴気活動など比較的穏やかな時期が続いていた(詳しくは「富士山の噴火史」を参照)。

時代背景

噴火が起こったのは徳川綱吉の治世(延宝8年 - 宝永6年・1680年 - 1709年)の末期で、江戸や上方の大都市では元禄文化と呼ばれる町人文化が発展していた。噴火の前年には、元禄15年(1702年)に起こった赤穂浪士の討ち入り事件が近松門左衛門の筆で人形浄瑠璃として初演された。富士山に大穴を開けたこの大噴火は、綱吉や重秀の悪政の証拠だとされ、これはいわれのない迷信であるが、当時はこのような天災地変は天地から生まれた財宝である混ぜ物をして悪貨を発行し幕府の私腹を肥やした結果だとされていた[11][12]

宝永大噴火の推移

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宝永山周辺の空中写真。巨大な火口(第一火口)の右下(南東方向)のピークが宝永山。ピークから南南東方向へ第二火口、第三火口が続く。画像左(西側)の車道終点が富士宮口五合目。1975年撮影の2枚を合成作成。
国土交通省国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
宝永大噴火は宝永4年11月23日(1707年12月16日)に始まった噴火である。富士山の噴火規模としては非常に大きな部類に属する。また噴火の直前に記録的な大地震があったり、大量の火山灰を広範囲に降らせたなど特徴的な噴火であった。またこの際、長野県の安大温泉で温泉の噴出も確認されている。

宝永地震

噴火の始まる49日前の10月4日10月28日)に推定マグニチュード8.6 - 9クラスと推定される宝永地震が起こった。この地震の震源は定期的に巨大地震を起している南海トラフであり、日本最大級のものであった。遠州沖を震源とする東海地震紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したとの見方もあった[13]。地震の被害は東海道紀伊半島四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達した[14]
宝永地震の翌日卯刻(6時頃)、富士宮付近を震源とする強い地震(宝永富士宮地震)があり、駿河甲斐で強く感じられ、村山浅間神社付近では社領の家が残らず潰れ、11月10日12月3日)頃から山麓で地響きが始まった[15][16]。また、この4年前、元禄16年11月23日1703年12月31日)に発生した元禄地震の後にも、12月29日1704年2月4日)頃から山鳴りが始まったことが『僧教悦元禄大地震覚書』に記されている[17]

噴火の始まり

宝永地震の余震と宝永火口付近直下の浅い地震活動が続く中、11月22日12月15日)の夜から富士山の山麓一帯ではマグニチュード 4から5程度の比較的強めの地震が数十回起こった[15]。23日(16日)の10時頃、富士山の南東斜面から白いのようなものが湧き上がり急速に大きくなっていった。噴火の始まりである。富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下し家屋を焼き田畑を埋め尽くした。夕暮れには噴煙の中に火柱が見え、火山雷による稲妻が空を飛び交うのが目撃された。

火山灰の降灰

この噴火により江戸でも大量の火山灰が降った。当時江戸に居住していた儒者の新井白石は享保元年(1716年)頃に成立した随筆『折たく柴の記』に降灰の様子を記している。
「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」
江戸でも前夜から有感地震があった。昼前から雷鳴が聞こえ、南西の空から黒い雲が広がって江戸の空を覆い、空から雪のような白い灰が降ってきた。
また大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばならなかった。別の資料では、最初の降灰はねずみ色をしていたが夕刻から降灰の色が黒く変わったと記されている(伊藤祐賢『伊藤志摩守日記』)。
2日後の25日18日)にも『黒灰下る事やまずして』(折たく柴の記)と降灰の状況が記されている。ここで注目すべきは最初の火山灰は白灰であったが、夕方には黒灰に変わっていることで、噴火の最中に火山灰の成分が変化していた証拠である。この時江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば2寸 - 4寸 (5 - 10cm) であるが、実際にはもう少し少なかったと推定されている。東京大学本郷キャンパスの発掘調査では薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約2cm積もっていることが確認された。この降灰は強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸器疾患に悩まされた。当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれている。
  • これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳
蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」をふまえた歌)
また、宝永4年当時の甲斐国甲府藩主は柳沢吉保であったが、奈良県大和郡山市の大和郡山市教育委員会所蔵「豊田家史料」には宝永噴火の際に採取された火山灰が現存している[18]。これは柳沢家家老・薮田重守により保管されたもので、享保9年に柳沢氏が大和郡山へ転封となり、現在まで伝わっている[19]。火山灰は二枚の紙によって包まれた状態で現存しており、包紙の記載から宝永噴火の際のものであることが確認される[20]。なお、宝永噴火が発生した宝永4年11月23日には吉保の子息である経隆時睦が従五位下に叙任されている[21]

噴火の推移

宝永大噴火は宝永4年11月23日(1707年12月16日)に始まり12月8日12月31日)に終焉した。この期間噴火は一様ではなく最初の4日は激しく噴火したが、その後小康状態をはさみながらの噴火が続いた。以下噴火の推移を説明する。
  • 11月23日(12月16日):昼前から噴火が始まる。火口の近くには降下軽石が大量に落下し江戸まで白っぽい火山灰が降った。午後3時頃小康状態となるが夕方から再度激しくなる。夕方からの降灰は黒色に変わり、火口近くにはスコリアが降下した。噴火は夜も長い時間続いた。
  • 11月24日12月17日):朝方一旦静まるが、その後小田原から江戸にかけて終日断続的に降灰。
  • 11月25日(12月18日):前日同様朝小康状態のあと、断続的に噴火。江戸にも降灰。
  • 11月26日12月19日):江戸では断続的な降灰が続くが、小康状態の期間が多くなってくる。
  • 11月25日 - 12月7日20日 - 30日):噴火の頻度や降灰量が減っていった。
  • 12月8日(12月31日):夜になって噴火が激しくなる。遅くに爆発が観測され、その後噴火は終焉した。

被災地の状況

現在の御殿場市から小山町(御厨地方)は最大3mに達する降下軽石(噴火初期)、降下スコリア(中期から後期)に覆われた。家屋や倉庫は倒壊または焼失し、食料の蓄えがなくなった。田畑は『焼け砂』(スコリアや火山灰など)に覆われ耕作不可能になり、用水路も埋まって水の供給が絶たれ、被災地は深刻な飢饉に陥った。当時の領主・小田原藩は被災地への食料供給などの対策を実施したが、藩のレベルでは十分な救済ができないことは明らかであった。そこで藩主・大久保忠増江戸幕府に救済を願い出た。幕府はこれを受け入れ周辺一体を一時的に幕府直轄領とし、伊奈忠順を災害対策の責任者に任じた。また、翌年正月7日(1708年2月28日)には被災地復興の基金「諸国高役金」として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金(石高100石に対し金2両)の拠出を命じ、被災地救済の財源とした。江戸幕府が全国的課税を行ったのはこの時が初めてであった[22]。しかし集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両(『折たく柴の記』)で、残りは幕府の財政に流用された。宝永5年中に48万8770両余、1870目余が集まり、被災地救済に支出されたのは6万2500両余とする史料もある(『蠧余一得』)。御厨地方の生産性はなかなか改善せず、約80年後の天明3年(1783年)には低い生産性に加えて天明の大飢饉が加わり、「御厨一揆」が起こった。
皮肉にも宝永大噴火の被害は世間の富士山への関心を高めた。噴火の翌年の宝永5年(1708年)には再建された御厨地方の須走村に富士参詣客が殺到し、翌年も同様の傾向が続いた。農業収入に頼れなくなった須走村では御師だけでなく百姓まで巻き込んで客引きが過熱した。だが、こうした傾向は御師の元締めである浅間神社やあくまでも農業の再建を目指す領主(幕府及びその後被災地の返還を受けた小田原藩)の望ましいことではなく、これを統制するために寛延2年(1749年)に既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らのみが御師として神職待遇を受けることが認められ、他の百姓の御師としての活動は規制された[23]
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宝永噴火後の酒匂川の洪水氾濫実績図(出典:富士山防災協議会)

二次災害

噴火により降下した焼け砂は、富士山東側の広い耕地を覆った。農民たちは田畑の復旧を目指し、焼け砂を回収して砂捨て場に廃棄した。砂捨て場の大きな砂山は雨のたびに崩れて河川に流入した。セント・ヘレンズ火山ピナツボ火山での例から推定して、噴火後の10年間で降下火砕物の半分程度が流出したとする研究がある[24]。特に酒匂川流域では流入した大量の火山灰によって河川の川床が上昇し、あちこちに一時的な天然ダムができ水害の起こりやすい状況になった。噴火の翌年の6月21日8月7日)から翌日に及んだ豪雨で大規模な土石流が発生して、酒匂川の大口堤が決壊し足柄平野を火山灰交じりの濁流で埋め尽くした。これらの田畑の復旧にも火山灰の回収・廃棄作業が必要であった。さらに、足柄平野での土砂氾濫は約100年繰り返された[24]

富士山(Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.24 m[注釈 2][4]、日本最



富士山Mount Fuji)は、静岡県富士宮市裾野市富士市御殿場市駿東郡小山町)と、山梨県富士吉田市南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.24 m[注釈 2][4]日本最高峰剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。

古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。

日本三名山三霊山)、日本百名山[5]日本の地質百選に選定されている。また、1936年昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている[注釈 4]。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝2011年平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された[7]

人間との関わりの歴史

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富士山本宮浅間大社

古代

古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。「神聖な場所」であるため、女性が登山する事は長らく禁止されていた。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり、摂末社が全国に点在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。こうした歴史から、富士山が世界遺産に登録されたのも、世界自然遺産ではなく世界文化遺産(富士山-信仰の対象と芸術の源泉)としてであった。
古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。

それより後期の時代、イエズス会ジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考えられる。

登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在している。

神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった[45]。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年 - 1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。

江戸時代

江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという[45]

富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。

明治以後

慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ[46]富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった[45]。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。

富士山は平成23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市と裾野市と駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市、南都留郡の富士河口湖町と鳴沢村である [47]。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された[48]



地質学上の富士山

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富士山周辺の地形図
地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。 現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだと考えられている。
  • 先小御岳(せんこみたけ)火山
  • 小御岳(こみたけ)火山
  • 古富士(こふじ)火山
  • 新富士(しんふじ)火山
この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた[11]
古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1–2kmのところにあったと考えられている。
2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市-富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)表れとされている[12]
プレートの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点英語版)となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来するものである[13][14]。富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること[15]、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し[15]、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること[15]、側火山が非常に多いことがある[15]
富士山頂
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山頂火口を上空より
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ファイル:Fujisan-video-views-airplane-bullet-train2014.ogv
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富士山の眺め。その1、飛行機の窓から見た富士山。その2、ズームイン。その3、新幹線の窓から見た富士山。
山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むように位置する8つの峰を八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m 2014年4月1日改算[2])、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.23m 2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は130mとある[16]
登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事川勝平太山梨県知事横内正明県境を定めないことを明言している[17]国土地理院がインターネット上で公開している地形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更された[18][19]
宝永山
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宝永山と宝永噴火口
宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693 mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されている。

富士山と火山活動

富士山の噴火

最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,500–2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。
新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前–約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後の爆発的噴火は2300年前で[20]、これ以降は山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。
延暦19年 - 21年(800年 - 802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火が起きた。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。
噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。
宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。
その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。
宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に区分されている。
2013年7月20日、産業技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し[21]、2016年には修正加筆が終了した[20]。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。

山梨県





山梨県

やまなしけん


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Lake Kawaguchiko Sakura Mount Fuji 3.JPG
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山梨県の旗
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山梨県章
山梨県旗山梨県章
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日本の旗
日本
中部地方甲信越地方
19000-4
JP-19
4,465.27km2
(境界未定部分あり)
818,455
推計人口、2018年4月1日)
183人/km2
埼玉県東京都神奈川県長野県静岡県
カエデ
フジザクラ
ウグイス
県の獣:カモシカ
県の歌:山梨県の歌
県民の日:11月20日
後藤斎
8000020190004
400-8501
山梨県甲府市丸の内一丁目6番1号

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山梨県庁
山梨県
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山梨県の位置
― 市 / ― 町 / ― 村
日本の都道府県/山梨県
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山梨県(やまなしけん)は、本州内陸部に位置する日本の一つ。県庁所在地甲府市令制国甲斐国に相当する。


概要

南に富士山、西に赤石山脈南アルプス)、北に八ヶ岳、東に奥秩父山地など、標高2,000 mを超す山々に囲まれる。島国の日本において、に全く面しない数少ない内陸県である[注 1]。山梨県の面積は全国32位であるが、その8割を山岳地が占めるため可住地面積は全国45位である。

周辺地域とは、往来が比較的容易で交通路も整備されている東京都島嶼部を除く)、神奈川県津久井地区長野県南信地方静岡県大井川以東の三方との交流が、古くから盛んである。又、埼玉県秩父地方との境は奥秩父山塊に隔てられているが、1998年平成10年)の国道140号雁坂トンネル開通により、山岳部の踏破だけでなく自動車やバスでの直接往来が可能となった。

「山梨」の県名は律令制下の甲斐四郡の一つである「山梨郡」に由来し、県名は1871年明治4年)7月の廃藩置県に際して旧甲斐国一国が甲府県を経て「山梨県」に改称された[注 2]。山梨郡は県庁所在である甲府が属している郡域であるが県名の改称理由は不明で、明治新政府による幕藩時代との断絶が意図されていた可能性が考えられている[1]。「山梨郡」は本来は甲斐一国を意味する呼称ではないため、明治時代初期には新県名が浸透せず、政治団体やその機関誌等では県域を指す地域呼称として「峡中」が用いられた[2]。現在では「山梨」が県域全体を指す呼称として定着している。


自然公園


歴史

先史時代


甲府盆地では釜無川笛吹川氾濫原が広がっている。郡内地方では富士山の火山活動による影響も受け、定住が困難な時代が続いていた。

旧石器時代の遺跡は長野県との八ヶ岳山麓や静岡県の愛鷹山箱根山など隣接する文化圏に属する地域や桂川流域を中心に分布する。最古の一杯窪遺跡(都留市)や立石遺跡(甲府市)をはじめ、八ヶ岳山麓の丘の公園内遺跡群(北杜市)や神津島産の黒曜石が出土した横針前久保遺跡(北杜市)長野県産の黒曜石が発見された天神堂遺跡などが代表的で、周辺地域に比べ密度は低いものの、周辺地域との人的移動を示す資料が発掘されている。

縄文時代草創期から前期には引き続き湧水が利用できる山麓部や富士北麓などに遺跡が分布し、後期旧石器から草創期への移行期にあたる神取遺跡(北杜市)や関東文化圏の影響が見られる池之元遺跡(富士吉田市)が出現する。中期には盆地にも進出し、大規模な集落遺跡である釈迦堂遺跡群(笛吹市、甲州市)や重要文化財に指定されている精巧な土器の出土した一の沢遺跡、豊富な生活遺物が出土している花鳥山遺跡などが出現し、縄文農耕論にも一石を投じた有孔鍔付土器など学史上注目されている遺物も出土している。また、盆地西部の西郡地域は釜無川の氾濫原であり考古遺跡は乏しいが、近年では精巧な土器や土偶が出土した鋳物師屋遺跡が発掘され、注目されている。

後晩期には地球的な寒冷化の影響を受けて遺跡数が減少するものの、石組や配石遺構など祭祀施設であると考えられている八ヶ岳南麓の金生遺跡(北杜市)や牛石遺跡(都留市)などが出現する。また、郡内地方の桂川流域では関東地方との交流が見られる遺物が出土している。

弥生時代には身洗沢遺跡金の尾遺跡などの集落遺跡があり、宮の前遺跡(韮崎市)では水田が確認されている。盆地南西部の曽根丘陵では東海地方経由で弥生文化が流入し、方形周溝墓が見られる上の平遺跡など古墳時代に至る遺跡がある。
古墳時代の4世紀後半には畿内で確立したヤマ
ト王権と政治的接触を持っていたと考えられている。曽根丘陵では4世紀前半の前方後方墳である小平沢古墳をはじめ、4世紀後半には最大規模の甲斐銚子塚古墳岡銚子塚古墳などの有力首長クラスの前方後円墳が出現し、三角縁神獣鏡などの副葬品も出土している。5世紀には中道勢力が衰退し、古墳の造営は盆地各地へ拡散する。

古代


古代には律令制下において甲斐国が成立する。『日本後紀延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐって隣接する相模国との間で争論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立。郡郷は『和名類聚抄』に31郷が記載されている。山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日居町に前期国府が存在し、八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。官道は東海道横走宿から分岐して都留郡を経て、甲府盆地に入り甲斐国府に至る甲斐路が存在していた。四郡のうち甲斐西部の巨摩郡は渡来人の入植により成立した郡であると考えられている。

一方、『古事記』『日本書紀』(記紀)に記される日本神話においてはヤマトタケル(倭建命、日本武尊)の東征において足柄山から甲斐へ入り、酒折宮(甲府市酒折)において老人と歌を交わす説話が残されている。記紀に載る日本神話には両書が成立した奈良時代の歴史認識が反映されているものと考えられているが、考古学的にも甲斐においては古墳後期の4世紀後半代から畿内の影響下にあったとみられ、酒折宮伝承にもヤマト王権と甲斐の在地豪族との関係が反映されているものと考えられている。足柄山から甲斐国へ至ったヤマトタケルの遠征ルートは古代の交通体系を明らかにする上でも注目されている。


また、『続日本紀』においては甲斐国司の田辺史広足が黒毛の駿馬を朝廷に献上したという「甲斐の黒駒」に関する説話が記されている。『延喜式』によれば東国では甲斐をはじめ信濃・上野武蔵の四国に御牧が設置され馬産が行われていたことが記されている。駿河国正税帳長屋王家木簡などの出土文字資料からも朝廷への貢馬が確認されている。『延喜式』によれば甲斐には穂坂牧、真衣野牧柏前牧の三御牧が設置されていたという[12]

平安時代には市河荘八代荘などの荘園が成立し、国府所在地である甲府盆地東部では在庁官人である三枝氏が八代荘を勢力基盤とした。『長寛勘文』によれば王保2年(1162年)には三枝氏に打撃を与えた八代荘停廃事件が発生している。
平安時代後期には常陸国から源義清源清光が市河荘に配流された。義清、清光の子孫は甲府盆地の各地へ土着し、後に甲斐源氏となる。


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中世

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武田信玄像(高野山持明院本)
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武田神社 拝殿(2014年5月8日撮影)

平安時代後期の治承4年(1180年)、以仁王令旨が諸国の源氏に下されると甲斐源氏の一族も平氏政権に対して挙兵する。甲斐源氏の一族は伊豆国源頼朝の挙兵と協調し、富士川の戦いなど治承・寿永の乱において活躍する。乱後、甲斐源氏の棟梁となった武田氏甲斐国守護となるが、甲斐源氏の一族は源頼朝の粛清を受け、衰退する。武田氏は中世には必ずしも甲斐守護を歴任していない。鎌倉幕府滅亡後に北条時行ら北条氏の残党が起こした中先代の乱までは北条方に属し、南北朝時代には建武政権から離反した足利尊氏に従った。

室町時代には、室町幕府鎌倉府の対立や、鎌倉府における鎌倉公方関東管領の対立など関東地方の騒乱の影響を受ける。応永23年(1416年)、鎌倉公方の足利持氏に対し、前関東管領の上杉禅秀が挙兵した上杉禅秀の乱では、甲斐守護・武田信満が禅秀方に加担し、滅亡する。これにより甲斐は守護不在状態となり、足利持氏は甲斐国人逸見有直を支持して室町幕府に対抗した。一方、室町幕府は武田信元、続いて武田信重を甲斐守護に任じ、守護代として跡部氏を派遣した。以後、甲斐では守護武田氏と有力国人や跡部氏との抗争が続く。

山梨県立博物館”かいじあむ”は「山梨の自然と人」をメインテーマとした博物館です。山梨に暮らす皆さん、そして山梨を訪れる皆様にぜひご利用頂きたい気持ちを動画に込めました。鑑賞するだけでなく、様々な体験を


山梨県立博物館”かいじあむ”は「山梨の自然と人」をメインテーマとした博物館です。山梨に暮らす皆さん、そして山梨を訪れる皆様にぜひご利用頂きたい気持ちを動画に込めました。鑑賞するだけでなく、様々な体験を通じて、より深く「やまなし」を知ることができる”かいじあむ”にぜひお出かけください。

山梨県立博物館公式サイトはこちら→http://www.museum.pref.yamanashi.jp/
山梨県立博物館公式FBもあります→https://www.facebook.com/kaiseum.ypm

英語版(English Ver.)PR動画→https://www.youtube.com/watch?v=lcFT-...
中国語版(中國版)PR動画→https://www.youtube.com/watch?v=ha2aZ...


山梨県立博物館


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山梨県立博物館
Yamanashi Prefectural Museum
施設情報愛称専門分野館長管理運営延床面積開館所在地
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Yamanashi Prefectural Museum.jpg
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山梨県立博物館の位置(山梨県内)
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山梨県立博物館
山梨県内の位置
かいじあむ
山梨県に関する自然展示、歴史展示
守屋正彦
山梨県
8,760m2
2005年10月15日
406-0801
山梨県笛吹市御坂町成田1501-1
プロジェクト:GLAM
山梨県立博物館(やまなしけんりつはくぶつかん)は、山梨県笛吹市御坂町成田にある総合博物館である。2005年平成17年)10月15日に開館した。愛称は甲斐とミュージアムをかけた「かいじあむ」。2018年現在、館長は守屋正彦である。前館長の平川南は名誉館長に就任した。
基本テーマは「山梨の自然と人」であり、自然系展示と歴史系展示を分けずに展示や資料の収集、調査研究活動、社会教育活動を行っている。常設展示は原始時代から現代という時系列に沿った展示であるが、観覧順序は自由導線であり、「水に取り組む」「信仰の足跡」といったテーマを設定した展示になっている。

調査・研究活動

  • 富士山と人々の歴史」平成17年度 - 継続
富士山をめぐる自然と人の関わりを総合的に解き明かすことを目的とした研究。「富士山の災害史と古環境」を研究テーマに各分野からの研究活動を行っている。
  • 楯無鎧の謎を探る」平成15-17年度
甲州市塩山上於曽の菅田天神社所蔵の国宝「小桜韋威鎧兜・大袖付」(楯無鎧)のレプリカ製作に際して、同鎧各部の甲冑史的な検討や、伝来経緯・意義に関する文献史学的な考察を展開。報告書においては実測データなどを掲載。
  • 古代の交易と道」平成18-平成19年度
古代甲斐国の交通・交易の様相に関して考古学・文献史学の両面から検討を行う。古代甲斐国における交通路の確定や、『山梨県史』において指摘された古代甲斐国が東山道東海道の結節点にあたるとする平川南の指摘を受け各種論考が提言される。また、報告書では古代甲斐国の交通・交易に関する史料を集成している。
  • 歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭」平成19年度
天保12年(1841年)に甲斐を訪れ甲府道祖神祭りの幕絵製作を行った歌川広重が甲州旅行を記録した『甲州日記』に関する共同研究。報告書において『甲州日記』の全文・スケッチの翻刻と考察を含んだ注釈・現代語訳を掲載しているほか、広重の画業や広重の歩いた道中ルートの検証、甲府道祖神祭礼に関する論考を展開しているほか、広重の甲州関係作品や甲府道祖神祭関係資料、『甲州日記』に関係する各種データを集成している。
  • 甲斐の治水・利水と景観の変化」平成19-平成21年度
信玄堤に代表される甲府盆地の治水に関して、河川の流路変遷や耕地開発による景観の変化を検討する共同研究。収蔵する信玄堤絵図・村絵図類や検地帳の分析により調査データを作成し、堤防の形態的変遷や耕地の開発状況について検討した。また、治水技術の変遷や水害による村の移転、井堰の開発状況などについて考察を展開しており、報告書では調査データも掲載。
  • 甲斐金山における金製錬技術に関する自然科学的研究」平成20年度 - 平成23年度
甲斐金山から産出された金について科学的手法により技術的側面を検討する研究。黒川金山勝沼氏館跡から出土した熔融物付着土器のX線調査などを実施。
  • 博徒の活動と近世甲斐国における社会経済の特質」平成21年度 - 平成24年度
甲斐国において活動した甲州博徒の活動を通じて社会経済・文化の特質を解明することを目的とする研究。報告書では甲州博徒に関する史料を集成し、三井卯吉国分三蔵黒駒勝蔵に関する新出史料を見出した。平成25年には企画展「黒駒勝蔵対清水次郎長」を開催し成果を一般に紹介。
  • 河口集落の歴史民俗的研究
  • 日韓内陸地域における雑穀農耕の起源に関する科学的研究
  • 甲斐の治水・利水技術と環境の変化
ほか、学芸員・職員が個別のテーマ研究を展開している。

常設展示

導入展示

  • 山梨の舞台 - 山梨県内全域の衛星写真を模式的に立体化した模型が置かれている。山梨が高峻な山々に囲まれつつも、他地域と結ばれていたことを示す展示。

鑑賞・学習型展示

常設展示は「山梨の風土とくらし」「甲斐を往き交う群像」「共生する社会」の三部構成。
「山梨の風土とくらし」において、「山に生きる」「里に暮らす」「城下町の賑わい」ではジオラマ展示が行われており、古文書や絵図資料、考古資料や民俗資料、聞き取り調査などに基づいて建物の模型や小道具、デフォルメされた人形が作成され配置されている。
「山に生きる」では、黒川金山での粉成の様子や「佐野山小屋見取図」に基づいた山中のそま小屋の様子、『甲斐叢記』に基づいた市川大門の紙漉小屋の様子、奈良田の焼畑農耕の様子などが再現されている。「里に暮らす」では近世のムラの営みと歳時記をテーマに、東部地域の養蚕民家がジオラマで再現されており、ノラのジオラマでは畑や水車小屋などが再現された情景模型で、米麦二毛作や綿花、煙草、果樹、里芋栽培など甲斐国の諸産業や四季の移ろいが表現されている。
「城下町の賑わい」では甲府城下町のジオラマが三台配置されている。甲府八日町(甲府市中央五丁目)札の辻にあった高札場のジオラマは『裏見寒話』や『甲府買物独案内』所載の「甲府繁栄之図」に基き城下町の入り口である高札場の番所木戸、火の見櫓などが再現されており、同じく八日町にあった菓子商である升屋・若松屋前のジオラマでは、『甲斐廻手振』『甲府八日町初売之景』に基いて初売りの様子が再現され、初荷が積み上げられ人々が押し掛ける正月の様子が再現されている。柳町三丁目(甲府市若松町)の甲府道祖神祭りのジオラマでは、軒先に飾られた幕絵や辻に立てられたオヤマなど道祖神飾りが再現され、道祖神祭りの様子が復元されている。また、各ジオラマには甲府城下町の地下を流れていた甲府上水も再現されている。
  • 山梨の風土とくらし - 原始から現代に至る山梨の自然と人との関わりに関する展示。
    • 自然の森の中で
    • 甲斐の誕生
    • 甲斐の黒駒
    • 水に取り組む
    • 戦国からのメッセージ
    • 山に生きる
    • 里に暮らす
    • 城下町の賑わい
    • 変貌する景観
  • 甲斐を往き交う群像 - 山梨が閉じられた山国ではなく周囲に開かれた地域であったことを、甲斐源氏の活躍や甲州街道による江戸文化の往来など、具体的事象を通じて示す展示。



山梨県立博物館は2005(平成17)年10月15日に開館いたしました。以来、山梨の豊かな自然と人々がどのように向き合ってきたのかという歴史を総合的に調査研究し、その成果を地域振興の重要な指針として提示できる博物館へと成長してきました。博物館が地域振興に果たす役割は一層重要なものとなりつつあります。豊かな文化的生活が望まれる社会にあって、今以上に貢献を果たしていくことが期待されています。
 博物館は古代の甲斐の国の都として栄えた笛吹市に位置しています。庭からは、歌枕で知られた「甲斐の白根」をはじめ、盆地を取り囲む高い山々が眺望できます。このような景観を背景に、諸国に分流した甲斐源氏の故郷であることなどを重ねて考えますと、当地域が歴史・文化を学ぶにふさわしい環境にあると思います。
 社会状況の変化、少子高齢化が進む中で、かつての先人が築き、守り、育んできた山梨の歴史・文化資源は、わが国においても貴重で重要な文化財であります。これを継承するために、博物館は展示や事業活動を通じて、皆様方のご高覧をいただき、「われわれの尊厳や誇り」とは、「自然と人間との調和」とは、「真の豊かさ」とは何かについて、来し方をふり返り、我々の未来を共に考える、よき機会を提供したいと願っています。

明治40年の大水害は、1907年(明治40年)に山梨県で発生した水害である。





明治40年(1907年)現在の山梨県甲州市石和町をはじめ山梨県下を襲った大水害、当時知事だった武田千代三郎氏の追想記。

長田組土木株式会社発行
丸山太一・熊谷喜孝編集
平成十三年三月十日発行非売品
「明治四十年大水害実記-武田千代三郎知事の追想記-」
御賜林 御下賜90周年記念として発行

現代語訳されたp50~p70を読ませていただきました。

p50までは、武田千代三郎知事の漢文による原文、丸山太一氏による書き下し文が記載されています。

2018年、今年も日本各地で大水害が起きました。
被害に遭われた方へこころよりお見舞い申し上げます。
偶然手にとった冊子があまりにも感動的だったので、つっかえつっかえ下手な朗読ですが、読ませていただきました。
山梨県内の図書館で借りることができますので、ご興味のある方はどうぞ読んでみてください。
南アルプス市の図書館では、610425076番で借りることができます。


明治40年の大水害


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明治40年の大水害により被災した甲府市緑町(現、甲府市若松町)の惨状。
明治40年の大水害は、1907年(明治40年)に山梨県で発生した水害である。


山梨県における治山・治水

山梨県では甲府盆地の東西に笛吹川釜無川の二大河川が南流し、盆地南部で合流して富士川となる。この三河川やそれに合流する支流河川により古来から水害の多発していた地域で、中世後期から近世初頭には信玄堤甲斐市竜王)や南アルプス市御勅使川治水、笛吹川では万力堤近津堤に代表される大規模な治水工事が継続されていた。
洪水は大雨などの気象条件以外に山林の荒廃などによる社会的条件によっても発生しやすくなるが、山間部である山梨県では林業などの山稼ぎや肥料燃料となる草木採取が盛んで、江戸時代には山林は共同利用地である小物成地(入会地)として入会慣行により管理されていた。一方、江戸後期には甲斐国では養蚕が普及し、笛吹川とその支流が流れる盆地東部の峡東地方では煮繭用の木材需要が高まった。


明治40年水害の発生と被害状況

明治初年から明治20年代に水害が多発した山梨県である、明治20年代から明治30年代にも引き続き大水害が多発し、特に1889年(明治22年)、1892年(明治25年)、1896年(明治29年)、1898年(明治31年)の水害などは多大な被害を及ぼした[13]
明治40年の大水害は、1907年(明治40年)8月21日夜半から8月26日にかけた台風の影響による記録的大雨に発生した。水害の様子は、同年8月23日から10月10日まで被災地を視察した警察官・望月嘉三郎の巡視日記である『明治四十年八月山梨県下水害地巡視日記』(以下『巡視日記』、原本は山梨県立博物館所蔵「古文書雑輯」、全文が『山梨県史資料編14 近現代1政治行政Ⅰ』に収録)に詳述されている。
『巡視日記』によれば山梨県では8月22日から8月28日まで大雨が降り続けたという。降水量は甲府で315.4mm、大月で728mm、山中湖で643mm、南部で469,2mm、鰍沢で305mm[14]。この大雨により河川は乱流し、土砂崩れや堤防の決壊、橋脚の破壊などを引き起こし、家屋の全半壊や集落の孤立、耕地の流出や埋没、交通の寸断など甲府盆地東部の峡東地方中心に多大な被害を出した[15]。死者は233人、流出家屋5757戸、埋没や流出した宅地や田地650ヘクタール、山崩れ3353箇所、堤防の決壊・破損距離約140キロメートル、道路の流出や埋没、破損距離約500キロメートル、倒壊した電柱393箇所とされる[16]。山梨県の近代における最大規模の自然災害となった。また、1910年(明治43年)にも大規模な水害が発生している。
『巡視日記』被災地や避難所の様子のほか行政の救援・医療体制、水害要因の考察などが記されている[17]。『巡視日記』では東山梨郡神金村(甲州市塩山)における山体崩壊や、東山梨郡加納岩村(山梨市)における村落間の暴動など水害を巡る状況を記しており、重川流域における被害に関しては鉄道による石材の輸出で山林が荒廃し、山体崩壊を招いたとする地元住民の見解を記している[18]。また、東山梨郡一宮村(笛吹市一宮町)では明治維新後に古来からの堤防が破壊されたことが水害を及ぼしたとする住民の意識を記している[19]。さらに、『巡視日記』では竹林の重要性なども考察している[20]
『巡視日記』は県長官が災害時においても教育を重視して訓示を行っていることや、御真影を避難させた逸話など、同時代の社会状況を示す史料としても注目されている。
明治40年の大水害は郡内地方においても大きな被害を出し、作家・山本周五郎は幼少期に北都留郡初狩村(大月市初狩町下初狩)に居住しており、一家は被災して一家は東京府北豊島郡王子町豊島(東京都北区豊島)に転居している[21]

甲斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。




甲斐国


甲斐国別称所属相当領域諸元国力距離数国内主要施設甲斐国府甲斐国分寺甲斐国分尼寺一宮
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地図 令制国 甲斐国.svg

-甲斐国
-東海道
甲州(こうしゅう)
東海道
山梨県
上国
中国
4郡31郷
(推定)山梨県笛吹市内の3ヶ所
山梨県笛吹市(甲斐国分寺跡
山梨県笛吹市(甲斐国分尼寺跡
浅間神社(山梨県笛吹市)
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甲斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

「甲斐」の名称と由来

7世紀に成立した。律令制下では東海道に属し、駿河国から甲斐国に通じる支線があった。国名の語源は不明であるが、本居宣長は『古事記伝』において、甲斐国出身の門弟で後に甲斐地誌『甲斐名勝志』を著している萩原元克の説に従い、山の峡(カヒ=間)、つまり山々間に由来するという説をあげている。
近代には橋本進吉が『上代特殊仮名遣』において峡説を否定したことから新たな解釈が求められ、近年は平川南が古代甲斐国が官道である東海道と東山道の連結的に位置することから、行政・交通上の「交ひ」であったことに由来するという新説を提唱している[1]

歴史

日本列島における東西の政権にとって最前線と位置付けられることが多い。考古学的には4世紀後半に甲府盆地南縁に東海地方経由で畿内色の影響を受けた甲斐銚子塚古墳を代表とする大型古墳が立地しており、中央のヤマト王権の東国における進出拠点になっている。古代には支配の中心地が盆地東部の東郡地域へ移る。神護景雲2年(762年)に全国から9人の善行の人が選ばれ孝養を受賞理由にして税を免ぜられた者の中に八代郡小谷直五百依の名が見られる。平安時代には出土文字資料にも甲斐国名が出現し、甲府市横根町の大坪遺跡では「甲斐国山梨郡表門」、南アルプス市百々(旧中巨摩郡白根町)の百々遺跡では「甲斐」の墨書土器が出土している。 平安後期には甲斐源氏が盆地各地へ進出する。中世には京都と関東(鎌倉)の中間に位置することからそれぞれの防衛拠点として位置付けられた。

室町時代には鎌倉府の影響下にあったが、上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏が没落し、争乱状態となる。戦国時代には武田氏が国人勢力を征圧して戦国大名化し、信虎晴信(信玄)・勝頼の三代期には拡大領国における本国となり、信虎期に開創された甲府が城下町として整備され、政治的・経済的中心地となる。
織田・徳川勢力による武田氏滅亡後は領主変遷が激しく、織田信長の家臣河尻秀隆らによる一時的な統治、信長が横死した本能寺の変後の政治的空白では徳川氏北条氏が武田遺領を巡り天正壬午の乱が発生する。豊臣政権時代には関東8か国を領した徳川家康に備えた最前線となり、羽柴加藤浅野氏など豊臣系大名が配置された。

江戸時代には東海道中山道とともに甲州街道が整備された。そして甲斐は江戸幕府の政治的・経済的中心地である江戸防衛の戦略正面と位置付けられ、甲府藩が成立し徳川一族や譜代大名による統治が行われた。享保年間には幕府直轄領化され甲府町方は甲府勤番による支配、在方は三分代官支配となり、幕末に至った。

近世以降の沿革

国内の施設

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国府

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後期国府推定地に建つ石碑と道祖神
(笛吹市御坂町国衙、Image may be NSFW.
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位置

甲斐国の国府は、『和名類聚抄』には「国衙在八代郡(やつしろ)」とあり、同書の成立した平安時代の後期国府は笛吹市御坂町国衙付近に比定されている。『拾芥抄』では「山代郡(やましろ:八代郡のこと)、府」と記載がある。
一方、山梨郡域にあたる笛吹市春日居町国府(こう、旧東八代郡岡部村)には古代寺院の寺本廃寺があり、付近には正東西南北の条理制地割が認められることなどから初期国府の所在地であったと考えられている。そして江戸時代の萩原元克『甲斐名勝志』以来、笛吹市春日居町国府から御坂町国衙へ移転する二転説が提唱されており、1967年には木下良が方六町の国府域を想定している。
初期国府から後期国府への移転はおおむね支持されているが、国府は国分二寺と同じ郡域に設置される例が多いことから、広瀬広一上野晴朗らの提唱した甲斐国分寺国分尼寺のある笛吹市一宮町国分・東原付近を中間国府に設定する三転説がある。
しかしながら、考古学的には現在に至るまで確証のある官衙施設の発掘には至っておらず、坂本美夫は春日居町初期国府を山梨郡家である可能性を指摘している。

国分寺・国分尼寺

国の史跡。南西に後継の護国山国分寺(笛吹市一宮町国分、Image may be NSFW.
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位置
)が所在。
国の史跡。後継はない。

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神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社1座1社・小19座19社の計20座20社が記載されている(甲斐国の式内社一覧参照)。大社1社は以下に示すもので、名神大社である。
総社一宮以下
  • 総社
    • 甲斐奈神社(笛吹市春日居町国府、Image may be NSFW.
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      位置
      ) - 四宮に同じ。元々の総社か
    • 甲斐奈神社(笛吹市一宮町橋立、Image may be NSFW.
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      位置
      ) - 元々の総社か
    • 府中八幡宮(甲府市、Image may be NSFW.
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      位置
      ) - 武田氏が創建し、機能が移された
  • 一宮:浅間神社(笛吹市) - 但し直接示す史料は中世にはなく、初見は天文20年(1551年)の史料になる
  • 二宮:美和神社(笛吹市御坂町、Image may be NSFW.
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    位置
  • 三宮:玉諸神社(甲府市、Image may be NSFW.
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    位置
  • 四宮:甲斐奈神社(笛吹市春日居町国府) - 総社論社に同じ

守護所

未詳だが、鎌倉末期以降は石和にあったと推定される。現在の甲府市が甲斐の政治的中心になったのは、永正16年(1519年)に武田信虎躑躅ヶ崎館を建造してからである。

地域

甲府盆地の国中地方
東部の郡内地方
管郷は『和名抄』によれば山梨郡に10郷、八代郡に5郷、巨摩郡に9郷の計31郷が存在したという。
東国において国郡制の整備は大化の改新の孝徳朝から7世紀後半代までに行われたと考えられている。甲斐国では甲斐国造が唯一の国造として知られているが、考古学的には6世紀後半代に加牟那塚古墳を盟主とする盆地北西部勢力と姥塚古墳を盟主とする盆地東部の八代勢力が対峙し、7世紀代には新興勢力として盆地北縁に春日居古墳群を築き寺本廃寺などを築いた勢力が出現し、三者の分布する地域がそれぞれ巨麻郡、八代郡、山梨郡に相当することから、古代甲斐では国造に次ぐ有力豪族が立評に携わっていたと考えられている。
国衙所在地である山梨・八代両郡は古代甲斐国における政治的中心地で、巨摩郡は渡来人勢力が携わった立郡事情が想定されている。都留郡は東部を武蔵国相模国と接し、相武国造の支配領域であったが7世紀に甲斐国が東海道に再編され、官道が整備される都留郡は甲斐へ編入されたと考えられている。都留郡は武蔵・相模と国境争論があり郡域の変動が考えられており、信濃国と接する巨麻郡も郡域の変動が考えられている。

人物

国司

奈良時代

奈良時代の甲斐国司は13名が確認され、『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の田辺史広足に関する記事を初見とする。以下、国司不明期間を含み断続的に甲斐国司に関する記事が散見され、天平宝字5年10月1日に任官した山口忌沙弥麻呂以降は最後の橘朝臣安麻呂まで連続的に国司名が確認されている[2]
  • 田辺史広足(天平3年12月21日補任(以下補任日、『続日本紀』)
甲斐国司に関する初見史料は『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の瑞祥記事で、同年2月に甲斐国の黒色で髪と尾の白い神馬が出現し、国司である田辺史広足(たなべのふひとひろたり)がこれを朝廷に貢献し、朝廷では神馬出現の瑞祥により詔を発し、全国的な大赦や販給を行ったという[3]。国司の田辺や馬を捕獲した者への位三進、甲斐国の当年の庸や神馬が出現した郡の調免除、馬を捕獲した者や国司・史生への褒賞が行われたという。『続日本紀』では正六位上より官位の低いものの事蹟が記録されておらず、前任者の存在は不詳。
甲斐守への任官時期は不明であるが、広足は天平3年正月27日に正六位上から外従五位下に加階されており、同年12月には神馬貢献が行われていることから、甲斐守任官は同年5月から11月前後のことあると考えられている[4]。甲斐国では古代に三御牧が設置され朝廷への貢馬が行われており、黒毛の馬は甲斐の黒駒伝承に基づくものであると考えられることから、甲斐で出現した「神馬は野生馬ではなく牧で産出された黒毛馬で、牧を管轄する在地国司が新任の広足に黒毛馬を貢進し広足の政治的意志で朝廷に貢献された、また広足の甲斐守任官も甲斐の馬匹生産を期待した政治的意志が存在していたと考えられている[5]
田辺史氏は馬匹生産に関わる河内国安宿郡資母郷(大阪府

浅間神社(あさまじんじゃ)は、山梨県笛吹市一宮町一宮にある神社。式内社(名神大社)論社、甲斐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある浅間神社の一社。甲斐国一宮であることから「


浅間神社 (笛吹市)

 
浅間神社所在地位置主祭神社格等創建本殿の様式別名例祭主な神事地図
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浅間神社 (笛吹市) 拝殿(注連縄背後).JPG

拝殿
山梨県笛吹市一宮町一宮1684
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北緯35度38分51.93秒
東経138度41分50.79秒
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北緯35度38分51.93秒 東経138度41分50.79秒
木花開耶姫命
式内社名神大論社
甲斐国一宮
国幣中社
別表神社
(伝)第11代垂仁天皇8年
流造
一宮浅間神社
4月15日
御幸祭
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浅間神社の位置(山梨県内)
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浅間神社
浅間神社
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浅間神社(あさまじんじゃ)は、山梨県笛吹市一宮町一宮にある神社式内社名神大社論社甲斐国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社。 全国にある浅間神社の一社。甲斐国一宮であることから「一宮浅間神社」と通称され、「一宮さん」とも呼ばれている。


祭神

富士山を神格化した神。もと山宮神社に祀られていた3柱のうちの1柱で、木花開耶姫命のみ遷座したという。

歴史

社伝では垂仁天皇8年正月に神山の麓(現 摂社山宮神社)で創建され、貞観7年(865年旧暦12月9日現在地に遷座したという。一帯は古代甲斐国の中心地で、付近には甲斐国分寺跡甲斐国分尼寺跡が残っている。
延喜式神名帳』で名神大社に列格する「甲斐国八代郡 浅間神社」の論社の一社である。また、平安時代末期より甲斐国一宮とされたとしている。ただし、当社の鎮座地は旧山梨郡であることや、他に甲斐国一宮を称する神社もあることから、名神大社および甲斐国一宮は当社ではないとする説もある。『日本三代実録』によれば、貞観6年(864年)の富士山の大噴火を受けて甲斐国でも浅間神を祀ることになり、翌貞観7年(865年)12月9日(旧暦)に甲斐国八代郡に浅間神社を建てて官社としたとある。その後、山梨郡にも同様に浅間神社を建てたとも記す。このことから、当社は「後に山梨郡に建てられた浅間神社」であるとする説が有力であるが、創建時は当地が八代郡内で「最初に八代郡に建てられた浅間神社」である可能性もある(詳細は「浅間神社#甲斐国」を参照)。摂社・山宮は元は神山を祭祀する神社であったと見て、甲府盆地の開発が進むとともに里宮に移り、のち浅間神(木花開耶姫命)の神格が与えられたとする考えもある[1]
当社は武田氏からの崇敬が篤く、関係文書も多く伝わっている。その頃以降、当社を一宮とする史料や当地にあった「一宮庄」の記載のある文書も見られ[2]、一般に甲斐一宮として崇敬された。江戸時代に入ってからも江戸幕府から所領を安堵されるなど保護された。
1871年明治4年)旧暦5月14日近代社格制度において国幣中社に列し、戦後は別表神社となった。
神道では神に日本酒を「御神酒(おみき)」として奉納するが、一宮浅間神社では戦後の1965年昭和40年)から山梨県で産出されたワインを御神酒として奉納することが行われている[3]

境内

なお、当社は富士山を祀る神社であるが、境内からは御坂山地の陰に隠れて富士山は見えず、本殿も富士山とは関係ない方角を向いている。

摂末社

摂社

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山宮神社 本殿(重要文化財)
  • 山宮神社(境外摂社)
    • 鎮座地:笛吹市一宮町一ノ宮(飛び地、Image may be NSFW.
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      位置
    • 祭神:大山祇神瓊瓊杵命 - 木花開耶姫命の父神と夫神
本社南方、神山の麓に鎮座する。当社創祀の地で、元宮にあたる。垂仁天皇8年の創建から貞観7年(865年)旧暦12月9日の遷座まで祭祀が行われ、遷座の際に祭神3柱のうち木花開耶姫命のみが里宮(現 本社)へ遷したとされる[4]
古来より3月15日に山宮神幸祭が行われ、本社から神輿が渡御する(現在は15日前後の日曜)。社殿は永禄元年(1558年)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。

末社

境内社
  • 護国社
  • 七社 - 祭神:雨降大神、道祖神、稲荷大神、金刀比羅大神、六所大神、加具土大神、天満宮
  • 神明社
  • 真貞社 - 祭神:伴真貞(当社創祀時に託宣し、のちに祝となった)
境外社
  • 天神社

祭事

年間祭事


大神幸祭

大神幸祭は、4月15日の例大祭催行後に行われる祭。通称「おみゆきさん」。古くは甲斐国第一の大祭とされていた。詳しくは「信玄堤#信玄堤竜王河原宿と御幸祭」を参照。
甲斐国が度々大洪水に見舞われることにより始まった川除祭(水防祭)で、竜王三社神社(信玄堤上)に神輿が渡御する。かつては4月第2亥の日に竜王三社神社へ(夏御幸)、11月第2亥の日に石田三社神社へ(冬御幸)の渡御であった。一宮の当社とともに二宮の美和神社・三宮の玉諸神社が参加する(明治以降近年までは当社のみであった)。なお、社伝では天長2年(825年)以降行われてきたとされるが、実際には永禄年間(1558年-1570年)以降に始まったと考えられている[1]

文化財

重要文化財(国指定)

  • 紺紙金泥般若心経(こんしきんでいはんにゃしんきょう)(書跡)
戦国時代の1541年天文10年)に後奈良天皇が安寧祈願のため諸国一宮への奉納を企図した般若心経。実際に奉納が行われているのは24か国で、甲斐を含め7か国で現存している。包紙の墨書によれば本経は天文19年(1550年)に聖護院門跡の道澄により甲斐へもたらされ、甲斐守護武田晴信(信玄)により一宮へ奉納された。1905年(明治38年)4月4日指定。
  • 摂社山宮神社本殿 附 棟札4枚(建造物)
旧社地(飛び地)に所在。明治40年8月28日指定。

山梨県指定有形文化財

  • 太刀 銘国次(工芸品) - 武田信玄奉納と伝わる。昭和40年5月13日指定
  • 太刀 銘 一徳斉助則 - 昭和47年1月27日指定

山梨県指定天然記念物

  • 一宮浅間神社の夫婦ウメ - 昭和35年11月7日指定

笛吹市指定有形文化財

  • 拝殿 附 旧材1枚(建造物)
  • 武田信玄公和歌短冊(書跡)

笛吹市指定天然記念物

  • 山宮神社の夫婦杉

現地情報

所在地
交通アクセス
周辺


[転載]宝永大噴火


富士山・宝永噴火の49日前に発生した宝永地震で金山の衰退  

www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/.../kouhou037_18-19.pdf
噴火では、溶岩流を噴出する. 穏やかな噴火であったのに対して、宝永噴火は、粉砕. された噴出物を噴煙とともに上空高く舞い上げる爆発. 的な噴火であった。現在では、 前月4日に発生した宝. 永東海・南海地震と噴火との関連性も推測されている。 幸い冬季で ...
matome.naver.jp/odai/2142643450224579401 - キャッシュ
富士山が最後に噴火した宝永4年(1707年)当時の状況についてです。新井白石の「折たく柴の記」や「武江年表」などに当時の様子をうかがえる記述があります。
bohjingaku.com > HOME > 噴火・火山 - キャッシュ
皆さんは、『宝永噴火』ってご存じですか? あまり聞いたことがない名前ですが、どこかの山が噴火したことはわかります。 ではどこの山が噴火したのでしょうか? 日本で一番高い山……そう富士山です! 江戸時代に富士山が噴火して甚大 ...


宝永大噴火の推移

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宝永山周辺の空中写真。巨大な火口(第一火口)の右下(南東方向)のピークが宝永山。ピークから南南東方向へ第二火口、第三火口が続く。画像左(西側)の車道終点が富士宮口五合目。1975年撮影の2枚を合成作成。
国土交通省国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
宝永大噴火は宝永4年11月23日(1707年12月16日)に始まった噴火である。富士山の噴火規模としては非常に大きな部類に属する。また噴火の直前に記録的な大地震があったり、大量の火山灰を広範囲に降らせたなど特徴的な噴火であった。またこの際、長野県の安大温泉で温泉の噴出も確認されている。

宝永地震

噴火の始まる49日前の10月4日10月28日)に推定マグニチュード8.6 - 9クラスと推定される宝永地震が起こった。この地震の震源は定期的に巨大地震を起している南海トラフであり、日本最大級のものであった。遠州沖を震源とする東海地震紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したとの見方もあった[13]。地震の被害は東海道紀伊半島四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達した[14]
宝永地震の翌日卯刻(6時頃)、富士宮付近を震源とする強い地震(宝永富士宮地震)があり、駿河甲斐で強く感じられ、村山浅間神社付近では社領の家が残らず潰れ、11月10日12月3日)頃から山麓で地響きが始まった[15][16]。また、この4年前、元禄16年11月23日1703年12月31日)に発生した元禄地震の後にも、12月29日1704年2月4日)頃から山鳴りが始まったことが『僧教悦元禄大地震覚書』に記されている[17]

噴火の始まり

宝永地震の余震と宝永火口付近直下の浅い地震活動が続く中、11月22日12月15日)の夜から富士山の山麓一帯ではマグニチュード 4から5程度の比較的強めの地震が数十回起こった[15]。23日(16日)の10時頃、富士山の南東斜面から白いのようなものが湧き上がり急速に大きくなっていった。噴火の始まりである。富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下し家屋を焼き田畑を埋め尽くした。夕暮れには噴煙の中に火柱が見え、火山雷による稲妻が空を飛び交うのが目撃された。

火山灰の降灰

この噴火により江戸でも大量の火山灰が降った。当時江戸に居住していた儒者の新井白石は享保元年(1716年)頃に成立した随筆『折たく柴の記』に降灰の様子を記している。
「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」
江戸でも前夜から有感地震があった。昼前から雷鳴が聞こえ、南西の空から黒い雲が広がって江戸の空を覆い、空から雪のような白い灰が降ってきた。
また大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばならなかった。別の資料では、最初の降灰はねずみ色をしていたが夕刻から降灰の色が黒く変わったと記されている(伊藤祐賢『伊藤志摩守日記』)。
2日後の25日18日)にも『黒灰下る事やまずして』(折たく柴の記)と降灰の状況が記されている。ここで注目すべきは最初の火山灰は白灰であったが、夕方には黒灰に変わっていることで、噴火の最中に火山灰の成分が変化していた証拠である。この時江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば2寸 - 4寸 (5 - 10cm) であるが、実際にはもう少し少なかったと推定されている。東京大学本郷キャンパスの発掘調査では薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約2cm積もっていることが確認された。この降灰は強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸器疾患に悩まされた。当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれている。
  • これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳
蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」をふまえた歌)
また、宝永4年当時の甲斐国甲府藩主は柳沢吉保であったが、奈良県大和郡山市の大和郡山市教育委員会所蔵「豊田家史料」には宝永噴火の際に採取された火山灰が現存している[18]。これは柳沢家家老・薮田重守により保管されたもので、享保9年に柳沢氏が大和郡山へ転封となり、現在まで伝わっている[19]。火山灰は二枚の紙によって包まれた状態で現存しており、包紙の記載から宝永噴火の際のものであることが確認される[20]。なお、宝永噴火が発生した宝永4年11月23日には吉保の子息である経隆時睦が従五位下に叙任されている[21]

噴火の推移

宝永大噴火は宝永4年11月23日(1707年12月16日)に始まり12月8日12月31日)に終焉した。この期間噴火は一様ではなく最初の4日は激しく噴火したが、その後小康状態をはさみながらの噴火が続いた。以下噴火の推移を説明する。
  • 11月23日(12月16日):昼前から噴火が始まる。火口の近くには降下軽石が大量に落下し江戸まで白っぽい火山灰が降った。午後3時頃小康状態となるが夕方から再度激しくなる。夕方からの降灰は黒色に変わり、火口近くにはスコリアが降下した。噴火は夜も長い時間続いた。
  • 11月24日12月17日):朝方一旦静まるが、その後小田原から江戸にかけて終日断続的に降灰。
  • 11月25日(12月18日):前日同様朝小康状態のあと、断続的に噴火。江戸にも降灰。
  • 11月26日12月19日):江戸では断続的な降灰が続くが、小康状態の期間が多くなってくる。
  • 11月25日 - 12月7日20日 - 30日):噴火の頻度や降灰量が減っていった。
  • 12月8日(12月31日):夜になって噴火が激しくなる。遅くに爆発が観測され、その後噴火は終焉した。

被災地の状況

現在の御殿場市から小山町(御厨地方)は最大3mに達する降下軽石(噴火初期)、降下スコリア(中期から後期)に覆われた。家屋や倉庫は倒壊または焼失し、食料の蓄えがなくなった。田畑は『焼け砂』(スコリアや火山灰など)に覆われ耕作不可能になり、用水路も埋まって水の供給が絶たれ、被災地は深刻な飢饉に陥った。当時の領主・小田原藩は被災地への食料供給などの対策を実施したが、藩のレベルでは十分な救済ができないことは明らかであった。そこで藩主・大久保忠増江戸幕府に救済を願い出た。幕府はこれを受け入れ周辺一体を一時的に幕府直轄領とし、伊奈忠順を災害対策の責任者に任じた。また、翌年正月7日(1708年2月28日)には被災地復興の基金「諸国高役金」として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金(石高100石に対し金2両)の拠出を命じ、被災地救済の財源とした。江戸幕府が全国的課税を行ったのはこの時が初めてであった[22]。しかし集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両(『折たく柴の記』)で、残りは幕府の財政に流用された。宝永5年中に48万8770両余、1870目余が集まり、被災地救済に支出されたのは6万2500両余とする史料もある(『蠧余一得』)。御厨地方の生産性はなかなか改善せず、約80年後の天明3年(1783年)には低い生産性に加えて天明の大飢饉が加わり、「御厨一揆」が起こった。

皮肉にも宝永大噴火の被害は世間の富士山への関心を高めた。噴火の翌年の宝永5年(1708年)には再建された御厨地方の須走村に富士参詣客が殺到し、翌年も同様の傾向が続いた。農業収入に頼れなくなった須走村では御師だけでなく百姓まで巻き込んで客引きが過熱した。だが、こうした傾向は御師の元締めである浅間神社やあくまでも農業の再建を目指す領主(幕府及びその後被災地の返還を受けた小田原藩)の望ましいことではなく、これを統制するために寛延2年(1749年)に既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らのみが御師として神職待遇を受けることが認められ、他の百姓の御師としての活動は規制された[23]
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宝永噴火後の酒匂川の洪水氾濫実績図(出典:富士山防災協議会)

二次災害

噴火により降下した焼け砂は、富士山東側の広い耕地を覆った。農民たちは田畑の復旧を目指し、焼け砂を回収して砂捨て場に廃棄した。砂捨て場の大きな砂山は雨のたびに崩れて河川に流入した。セント・ヘレンズ火山ピナツボ火山での例から推定して、噴火後の10年間で降下火砕物の半分程度が流出したとする研究がある[24]。特に酒匂川流域では流入した大量の火山灰によって河川の川床が上昇し、あちこちに一時的な天然ダムができ水害の起こりやすい状況になった。噴火の翌年の6月21日8月7日)から翌日に及んだ豪雨で大規模な土石流が発生して、酒匂川の大口堤が決壊し足柄平野を火山灰交じりの濁流で埋め尽くした。これらの田畑の復旧にも火山灰の回収・廃棄作業が必要であった。さらに、足柄平野での土砂氾濫は約100年繰り返された[24]

宝永大噴火の特徴

宝永大噴火はその規模の大きさ以外にも、火山の噴火について種々の興味深い情報を提供している。

宝永地震との関係

この噴火は日本最大級の地震の直後に発生している。地震の前まで富士山の火山活動は比較的穏やかであったことが知られているが、大地震の49日後に大規模な噴火が始まった[25]。噴火は地震波によりマグマが発泡し生じたと考えられている[25][6]。地震の震源域となった南海トラフを東北に延長すると、駿河湾を通って、富士山西麗の活断層富士川河口断層帯と連続している。宝永地震の翌日には富士宮付近を震源とする大きな余震が発生した。

富士山のマグマ溜り

火山の噴火は、地下にあった高温マグマが地表に出る現象である。火山の地下には直径数km程度の液体マグマの塊(マグマ溜り)が存在すると想定されている。マグマ溜りは地下のもっと深いところからマグマの供給を受けて少しずつ膨らみ、噴火によって(中身が減ってしまい)収縮する。地下のマグマ溜りから地上まで、マグマが上昇してゆく原因は大きく分けて3種類が考えられる。1つ目は深所からのマグマの供給によってマグマ溜りが一杯になり内部の圧力が高くなってマグマが溢れること、2つ目は周囲の圧力によってマグマが押し出されること、3つ目はマグマ中に含有される揮発成分の分離(発泡)によって体積が膨張しマグマが溢れることである。富士山の地下にもマグマ溜りが存在し、火山活動の原因となっている。富士山周辺で観測される低周波地震はマグマ溜りがあると推定されている位置の周辺で発生している。

地震がマグマ溜りに及ぼした影響

富士山のマグマ溜りは宝永地震の強震域にあり、富士宮の余震はマグマ溜りのごく近傍で発生した。強震の影響として、大きな震動によりマグマ中の水分や二酸化炭素などの揮発成分の分離が促進された可能性が考えられる。卑近な例で説明すると「ぬるい缶ビールを振り動かした」状態である。また本震や余震の震源断層運動による地殻ひずみの変化が噴火を促した可能性もある。

噴出物の成分変化

宝永大噴火では一連の噴火中に火山灰・降下物の成分が大きく変化したことが知られている。
  1. 江戸での降灰が最初『白灰』その後に『黒灰』に変わった。
  2. 火口周辺の降下物が『降下軽石』から『降下スコリア』に移行した。
この両方とも、降下物中のケイ酸(二酸化珪素)の含有量が変化したことを示している。噴火初期の『白灰』は(富士山としては珍しく)二酸化珪素を70%程度含むデイサイト質であった。その後の『黒灰』は二酸化珪素が50%程度の玄武岩質で、富士山を形成する一般的な岩石(溶岩など)の分析値と一致する。宝永大噴火は初めに富士山には珍しい二酸化珪素の多いデイサイト質マグマが噴出し、その後富士山本来の玄武岩質マグマの噴火に移行したと考えられている。
火山灰が白色から黒色に変化した原因はマグマ溜り中のマグマ成分の分化と想定されている。宝永大地震前の富士山は約800年間大きな噴火活動が無かった(その間マグマ溜りには深所から少しずつ新鮮なマグマの供給を受けていた)。マグマ溜りは徐々に冷えて凝固点の高い成分が結晶化してゆくが、比重が重い成分(鉄やマグネシウムを多く含む黒っぽい結晶)は沈降しやすいため、マグマ溜りの上部は比重の軽く白っぽいケイ酸成分が多く残っていた。そのため噴火の初期には、マグマ溜りの上部にあったケイ酸成分の多い白い軽石や火山灰が放出され、その後富士山本来の黒っぽい火山灰や降下スコリアが放出された。

現代社会への教訓

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富士山火山防災マップ(出典:富士山防災協議会)左列の真ん中は過去溶岩流や岩屑なだれの発生した場所、右列の大きな図は想定被害範囲で濃いピンクの部分が火口が出来る可能性のある範囲、薄いピンクの部分は噴火が起こる前に緊急避難すべき範囲
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富士山降灰可能性図拡大図:富士山火山防災マップより(出典:富士山防災協議会)上図右列中央の拡大図
富士山が噴火した場合、社会に与える影響が大きい[26][27]。そこで国の防災機関や地方自治体を中心に学識経験者などが集まって「富士山ハザードマップ検討委員会」を設立し、万が一の際の被害状況を想定して避難・誘導の指針とした[28]ハザードマップでは過去の富士山の噴火を参考にしながら、様々な火山災害を予想している。その中で火山灰被害の例として『宝永噴火の被害想定』が詳細に検討されている。ハザードマップは中間報告(平成14年(2002年)6月)と検討報告書(平成16年(2004年)6月)の2回、調査結果をまとめた報告書が出されており、内閣府の防災部門のホームページや関係市町村のサイト[28]で公開されている。
宝永大噴火では溶岩の流出などによる被害はなかったが、大量の火山灰が広範な地域を覆った。平成16年(2004年)6月の検討報告書では、宝永大噴火と同規模の噴火が起こった場合、火山灰が2cm以上降ると予想される地域は富士山麓だけでなく現在の東京都と神奈川県のほぼ全域・埼玉県南部・房総半島の南西側一帯に及ぶ。(右下図参照)。この範囲では一時的に鉄道空港が使えなくなり、雨天の場合は道路の不通や停電も起こる。また長期にわたって呼吸器に障害を起す人が出るとされている。富士山東部から神奈川県南西部にかけては、噴火後に大規模な土石流や洪水被害が頻発すると想定されている。ただしこの降灰可能性図が想定した宝永大噴火は延暦21年(802年)の噴火以後では最大の降灰量だったので、次の噴火もこの範囲に降灰するという意味ではない。
細かい灰はどこにでも侵入するため、電気製品電子機器の故障の原因となると推定されている。すなわちスイッチ類の接点不良や火山灰堆積による冷却不良が原因で過熱故障を起こすなど、様々な障害を及ぼすと予想されている。類似の例として、中東の砂漠地帯では砂埃による電子機器の故障という大きな問題が存在する。

転載元: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興

[転載]甲府盆地(こうふぼんち)は、山梨県中央部に位置する盆地。やや東西に長い逆三角形の盆地形状で、面積は2115km2。長野県の松本盆地や諏訪盆地と続く構造盆地。中心部に県庁所在地甲府市が位置するほか、甲州












甲府盆地


甲府盆地(こうふぼんち)は、山梨県中央部に位置する盆地。やや東西に長い逆三角形の盆地形状で、面積は2115km2長野県松本盆地諏訪盆地と続く構造盆地。中心部に県庁所在地甲府市が位置するほか、甲州市山梨市など、多くの市域を含む。


自然環境5 日本の盆地・台地 (11分)

地理

平均標高は比較的高い300mに位置し、四季が明瞭で寒暖の差が大きい盆地特有の内陸性気候であり、夏は暑く、冬は寒い。特には日本でも1,2を争う高温になる。年間降水量は少なく1200ミリ程度であるが山地部への降雪が水資源の供給になっており、夏から秋には集中豪雨が発生しやすい。盆地域には北東から流れる笛吹川と北西から流れる釜無川が盆地南西部で合流して富士川となり、静岡方面へ向かう。盆地西部には御勅使川や早川などが東流する。河川の堆積作用により700m以上の砂礫層があり、周縁には御勅使川扇状地、釜無川扇状地、金川扇状地など多くの複合扇状地が形成され、果樹栽培や養蚕に適した地形となっている。中南部の低地はかつて両河川の氾濫原であり、水田地帯として利用されてきた。
甲府市を交通の中心に、盆地北西から東には中央本線が、また盆地南部を迂回した中央自動車道国道20号(旧甲州街道)が、盆地西部には南北に静岡県へ通じる国道52号身延線が通じており、盆地形状が交通の要衝として利用されている。

人文的歴史

地質学的成因には地底湖説もあり、『甲斐国志』『甲州噺』など近世に成立した地誌類には甲府盆地がかつて湖底であったと考える湖水伝説が存在する。近世初頭に成立した『甲陽軍鑑』に拠れば、太古の甲府盆地は湖であったが法城寺(廃寺)に祀られていた上条地蔵菩薩(国母稲積地蔵)の力によって盆地南部の山が切り開かれ、湖水を富士川に流したという。甲府盆地の湖水伝承を伝える寺社には甲府市穴切大神社、甲府市の佐久神社、南アルプス市の神部神社、韮崎市苗敷山穂見神社などがある。
中部地方有数の平野面積を有し、旧石器時代から縄文時代前期までは周辺の山岳地帯が主な考古遺跡の分布地域であったが、縄文中期には盆地地域でも釈迦堂遺跡群など大規模集落が進出し、弥生時代以降の集落遺跡や水田遺構も見られる。
盆地東南部の曽根丘陵では弥生時代後期から中道往還を経て東海地方からの古墳文化が流入し、曽根丘陵では県内最古の古墳である小平沢古墳からヤマト王権の強い影響を受けた最大の前方後円墳である甲斐銚子塚古墳岡銚子塚古墳が出現し、甲府盆地が有力首長の勢力基盤になっていたと考えられている。5世紀以降には古墳の築造が盆地各地へ拡散し、盆地北縁では渡来人集団の生産遺跡が分布し、渡来人の墓制であると考えられている積石塚が分布している。
古代には盆地西部が中央政府の支配拠点となり、国衙や古代寺院も出現する。笛吹・釜無の両河川の氾濫原や盆地周縁の山麓地域は官牧として利用され、甲斐の黒駒に象徴される馬産地となる。平安時代には常陸国から移住した甲斐源氏が盆地各地へ進出し、棟梁となった武田氏が甲斐守護となり、石和や甲府に居館を置き、甲府盆地は諸勢力との抗争の舞台となる。戦国期には武田の大名権力により治水工事が進められ、新田開発も行われる。
近世にはさらに用水路の開発が進み、扇状地域で普及した養蚕や果樹栽培など盆地地形を利用した産業が成立する。戦後には産業構造の変化から農業は養蚕や米麦栽培から果樹栽培へ移行し、市街化工業団地の造成などにより盆地の景観は変貌している。

観光

甲府盆地に形成された扇状地には、ブドウモモサクランボといった多くの果物が栽培されているほか、東部の勝沼周辺ではワインの製造も盛んである。これら観光農園やワイナリーも多いことに加え、東京圏や中京圏からも近いことから多くの観光客も訪れる。盆地の北側には多くの奇岩がある渓谷として有名な昇仙峡があるほか、南アルプス八ヶ岳清里高原などへの玄関口としての役割も担っている。
愛宕山 (甲府市)から甲府盆地を望む。左端が東で右端が西。撮影地点の愛宕山は奥秩父山塊の南端に位置する。御坂山地越しに富士山、西側には南アルプスがそびえ、360度山地に囲まれている。

市町村

関連項目

  • 地方病 (日本住血吸虫症) - 甲府盆地底部一帯は日本国内最大の日本住血吸虫症罹病地帯だったが、研究者や医師らによる病気撲滅の結果、1996年に終息宣言が出されることとなった。

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[転載]街道をゆく 甲州街道




概要

元は「古甲州道」であり、甲州街道は江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。江戸日本橋)から内藤新宿八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで38の宿場が置かれた。

近世初頭には「甲州海道」と呼称され、正徳6年(1716年)4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められる。中馬による陸上運送が行われた。江戸の町において陰陽道四神相応で言うところの白虎がいるとされる街道である。 多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保~府中~調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更された。その後も古く狭い街道が、新しくできたバイパスへと路線が変更となっている。

歴史

甲州街道「江戸 - 甲府」の開設は慶長7年であり、すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった。

近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。そのため、街道沿いは用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、甲府城を有する甲府藩親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。

参勤交代の際に利用した信濃高遠藩高島藩飯田藩である。それ以外の藩は中山道を利用した。下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。その事から、発展が遅れ、衰退する宿場町もあった。

近世には旅の大衆化に伴い甲州道中上の名所旧跡などを紹介した地誌類や視覚化した絵図類が製作されており、絵図では『甲州道中分間延絵図』や『甲州道中図屏風』が知られる。また、宇治採茶使は甲州街道を利用した。

宿場

多くの宿場があり人々は国府参り等を旅路の楽しみとして賑わっていたが、趣向の変化で国府も西の外れ近くとなり、また東海道の人気により江戸より離れた宿場町は衰退していった。
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歌川広重によって描かれた「四ッ谷内藤新宿」『名所江戸百景』より

野田尻宿(のたじりじゅく)は、旧甲州街道宿場の一つ。日本橋から数えて20番目の宿場山梨県上野原市にある。
上野原市は山梨県東部の郡内地方に位置し、東は神奈川県相模国)に接する。郡内地方は大部分を急峻な山地が占める地域であるが中世から武蔵国・関東方面に通じる交通路が存在し、江戸時代には甲州道中が整備される。甲州道中は鶴川、仲間川に沿いながら横断し、江戸から発して同道中の甲斐国の初宿である上野原とともに、鶴川宿野田尻宿犬目宿の各宿が設けられた。1713年正徳3年)集落が形成される。

1842年天保14年)には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は大2軒、中3軒、小4軒からなる小規模な宿場町であった。万屋、蔦屋、中田屋、鶴屋、紺屋、酒屋といった当時の屋号を今も残す。本陣跡は明治19年の大火で焼失した。現在も開発されず落ち着いたたたずまいを見せる[1]。上野原宿からは、野田尻宿を経て犬目宿へ至る。
  • 犬目宿(山梨県上野原市)
  • 鳥沢宿(山梨県大月市
  • 猿橋宿(山梨県大月市)
  • 駒橋宿(山梨県大月市)
  • 大月宿(山梨県大月市)
  • 花咲宿(山梨県大月市)
  • 下初狩宿(山梨県大月市)
  • 中初狩宿(山梨県大月市)
  • 白野宿(山梨県大月市)
  • 阿弥陀海道宿(山梨県大月市)
  • 黒野田宿(山梨県大月市)
  • 駒飼宿(山梨県甲州市
  • 鶴瀬宿(山梨県甲州市)
  • 勝沼宿(山梨県甲州市)
  • 栗原宿(山梨県山梨市
  • 石和宿(山梨県笛吹市
  • 甲府宿(山梨県甲府市
  • 韮崎宿(山梨県韮崎市
  • 台ヶ原宿(山梨県北杜市
台ヶ原は、古くは、戦国時代織田信長が、武田勝頼を追って甲斐国を侵攻したときにこの地に宿営したと伝えられている[1]。台ヶ原宿は、以前から通じていた古道が慶長6年(1601年)に東海道伝馬制が定められた翌年(1602年)から、他の四街道(中山道・甲州街道・奥州街道日光街道)の宿駅整備が順次行われていった際に、元和4年(1618年)に宿請が申し渡されたことに始まるとされている[1]。宿内には大名旗本、幕府役人が宿泊するための本陣、脇本陣が置かれたほか14軒の旅籠が一般旅行者の宿泊を受け持った。また逓送のために常時、人足25人、馬25頭を問屋(といや)に待機させたほかにも、大名行列など臨時の大通行の際に付近の助郷を動員していた[1]
正徳元年(1711年)の一般宿泊の木賃銭は、主人一人35、召使い一人17文、馬一頭35文であり、駄賃韮崎宿まで4里を荷物一駄206文、人足一人102文、教来石(きょうらいし)[注釈 2]まで1里14町を荷物一駄49文、人足一人25文、信州蔦木宿まで、2里20町を荷物一駄102文、人足一人49文と公文されていた[1]
甲州街道は、信州の高島藩高遠藩飯田藩の3藩が参勤交代での通行に利用したほか、将軍飲用の宇治茶を中山道経由で甲州街道を通って江戸まで運ばれたため、江戸時代は宿場として栄え、大正時代中期ごろまで近代の商業地、交通の要衝であった[1]1904年(明治37年)に中央本線富士見駅まで開業し、近隣を通過する形になったがこの時点では宿場に近い駅は設定されなかった。しかし、1918年(大正7年)に最寄りの駅である長坂駅が開業すると交通の中心が鉄道に移行するとともに急激に衰微し、さらに台ヶ原宿の南に並行して国道20号バイパスが完成したことにより、商業と交通の要衝としての地位は失われ、台ヶ原宿の現在は地域の生活道路として、沿道に往時の旅籠や商家の面影を残す古いたたずまいの続く通りとなっている[1]

一里塚

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[転載]甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)は、甲斐国の戦国大名である武田晴信(信玄)が天文16年(1547年)に定めた分国法で、甲州法度之次第、信玄家法、甲州法度、甲州式目などともいわれる



甲州法度次第


甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)は、甲斐国戦国大名である武田晴信(信玄)が天文16年(1547年)に定めた分国法で、甲州法度之次第信玄家法甲州法度甲州式目などともいわれる。初め55ヶ条の基本法からなっていたが、天文23年(1554年)に2条追加されて57ヶ条となった。別本として26ヶ条の抄録本(保坂本)もある。

概要[ソースを編集]

甲州法度は上下2巻から成る。上巻は57ヶ条からなり、法律規定に関する条項が主で、下巻は99ヶ条からなり、論語孟子など中国の古典を多く引用する日常行為の規範とするべき道徳論的な家訓集となっている[1]。前者は、領国内の被官階級の秩序や掟、国人や地頭の土地所有や年貢収取を制限し、家臣としての臣従を強制している。債権や土地所有に関する条項も多く見られる。喧嘩両成敗の条項が有名ではあるが、これは成人の場合に限られ、13歳未満の場合、人を殺しても罪に問われることはなかった[2]禰宜山伏に関するものや、百姓や下人、奴婢に関する条項もあり、年貢の未進や郷村逃亡などを禁止し、領国秩序の維持を明文化している[3]。ただし、通常、後述の「信玄家法」として論じられることが多いのは後者である[4]
制定に至る経緯は不明であるが、晴信が父・信虎を追放して十年後に制定されている。条文の検討や推敲には、家臣・駒井高白斎の『高白斎記』における天文16年5月晦日条の記述から、高白斎も関わっていたと考えられている[5]。武田信玄の弟武田信繁がその嫡男「長老」(武田信豊の幼名)に1558年永禄元年)、99条の家訓(『武田信繁家訓』)を残しているが、これが後に甲州法度次第の元となったともいわれる。『甲陽軍鑑』流布本の品一では55か条と天文23年(1554年)に追加された2か条、末尾に長禅寺住職・春国光新の序文を掲載しており、さらに品二では武田信繁家訓99か条を載せている[5][6]。江戸時代にはこの形態で「信玄家法」と呼称されており、『群書類従』でもこれを踏襲した[7]。『甲陽軍鑑』伝解本では春国光新の序文は武田信繁家訓のものであるとし、法度から除外している[7]
東京大学史料編纂所所蔵「甲州法度之次第」が、晴信花押が据えられた26か条であったことから、当初の原形態は26条で、法度施行後に発生した貸借や課税に関する諸問題に対し追加条項を加えて増補され、天文23年7月の追加2か条をもって57か条になった[8]との説もあるが、26か条は晴信自筆とされてきたものの、実際は筆跡が異なり、内容も略本にすぎることから、後世の抄写本と考えられ[9]、55か条が当初からの基本型であるという異なる説もある。なお、『甲陽軍鑑』流布本に収録されていない3か条を加え60か条とする説もある[8]
鎌倉時代に制定された「御成敗式目」(貞永式目)のほか特に武田家と同盟関係にあった駿河今川氏の分国法「今川仮名目録」(目録)の影響が指摘されるが、目録の原型となった今川氏親制定の13か条との類似に対し、今川義元の追加した条文の影響は見られない。また、法度の制定された天文16年は信濃国侵攻を行っている時期で地頭や百姓層への負担が増大し、法度にはこれに対応する地頭の借財や百姓との衝突に関する条文が見られる。前後武家法における慣習法を受け継いだ喧嘩両成敗は、甲州法度次第に定められてから、普及したといわれる。甲州法度の最大の特徴は、法律の尊重が明記されていることで、晴信自身もその法の対象に含まれており、さらには法の不備あるいは法執行の適正に問題があれば貴賤を問わず申し出るように定めていることで、法の修正の意思すら示したことである[10]
1580年天正8年)の写本は、東京大学法学部法制史資料室が所蔵している。

内容

  • 国人・地侍が罪科人の所領跡という名目に土地を処分することを厳禁し、領国全体を武田氏が領有することを定めている。
  • 国人・地侍が農民から理由なく名田を取り上げるようなことを禁止して、農民を保護している。
  • 訴訟時において暴力行為に及んだものは敗訴とする。
  • 年貢の滞納は許さず、その場合には地頭に取り立てさせる(6条)。
  • 家屋税として貨幣で徴収する棟別銭について、逃亡しても追ってまで徴収する、あるいは連帯責任制により同じ郷中に支払わせる。
  • 隠田があった場合には、何年経っていても調査により取り立てる(57条)。
  • 被官について、武田信玄の承諾なく盟約を結ぶことを禁ずる(14条)。
  • 他国に勝手に書状を出してはならないことを定め、内通の防止を図っている。
  • 喧嘩両成敗(17条)
  • 浄土宗日蓮宗の喧嘩禁止、宗教問答の禁止
  • 分国法は分国内のいかなることも拘束し、末尾の条文には、当主である武田信玄自身も法度に拘束されると記され、法度の主旨に反する言動に対しては身分の別を問わずに訴訟を申し出ることが容認されていた。この条文が実際に機能していたのかは不明であるが、武田氏の徳治主義理念の現れであるとも指摘され、当主自身を拘束する条文や守秘義務のあることの多い分国法が広く領民に知らしめされている知られていることも戦国法においては特異なものである。

現代への影響

『民法修正案理由書』によると、日本民法典起草の際に参照されたことが明記されており[11]、現行法にその影響が残っているものもある。
  • 信玄家法第40条:親の負物其の子相済すべき事勿論なり。子の負物親方へ之を懸くべからず。但し親借状加筆は其の沙汰あるべし。若し又早世に就き親其の跡を抱ゆるに至っては逆儀たりと雖も子の負物相澄すべき事。
  • 民法旧986条(参照後):家督相続人ハ相続開始ノ時ヨリ前戸主ノ有セシ権利義務ヲ承継ス 前戸主ノ一身二専属セルモノハ此限ニ在ラス
  • 民法896条(現行法):(相続の一般的効力)相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。
つまり、相続において承継されるのは財産権のみに限られると誤解される虞があるところから、負債を始めとする「義務」一般をも原則的に承継することを注意的に規定したのである。


転載元: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興

[転載]川中島の戦いは、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦




川中島の戦い

 
川中島の戦い 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
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Kawanakajima Takeda Shingen vs Uesugi Kenshin statue.jpg

武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像
長野市八幡原史跡公園
戦争戦国時代 (日本)
年月日1553年天文22年)- 1564年永禄7年)
場所日本信濃国川中島(現:長野市南郊)
結果:勝敗着かず
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Japanese Crest Takedabishi.svg
武田軍
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上杉氏竹に雀
上杉軍
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武田信玄
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武田信繁 
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上杉氏竹に雀
上杉謙信
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Murakami crest.jpg
村上義清
2万0000余? 1万3000余?
山本菅助,武田信繁,諸角虎定戦死 他4000人死傷 主要な重臣に死傷者なし         他3000人死傷
川中島の戦いは、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊[1])を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。

概要

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故人春亭画 応需広重模写「信州川中嶋合戦之図」
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日18日))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。
  1. 第一次合戦天文22年(1553年
  2. 第二次合戦:天文24年(1555年
  3. 第三次合戦弘治3年(1557年
  4. 第四次合戦永禄4年(1561年
  5. 第五次合戦:永禄7年(1564年
戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略を目的とした。武田氏の支配地は着実に北上している。
なお、上記の「五回説」が現在では一般的であるが、異説も存在する。特に明治期には田中義成が軍記物の信憑性を否定し、上記第二次と第四次のみを確実とする「二回説」を提唱した。1929年には渡辺世祐がはじめて五回説を提唱し、戦後は小林計一郎以来この五回説が支持されている。二回説は直接両軍が交戦した二回までは記録が残っているが、他の戦いは交戦を避けたりしている場合が多いため、1932年の北村建信ら「二回説」を主張する研究者の理屈にも一定の説得力があるといえるが、一般的とは言いがたい。

戦国期東国の地域情勢と川中島合戦

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戦国時代の甲信越地方拡大
室町期の東国は鎌倉公方の分裂や鎌倉公方と関東管領の対立などの影響を受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地で戦国大名化した地域権力が出現し、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。
甲斐国は信虎期に国内統一が成され、対外的には両上杉氏や駿河今川氏、信濃諏訪氏との和睦が成立し、信濃佐久郡・小県郡への侵攻を志向していた。武田氏では天文11年(1542年)に晴信への当主交代があり、晴信期には諏訪氏との同盟関係が手切となり[2]、諏訪郡を制圧し信濃侵攻を本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針の転換を行う。
それまで武田氏と友好的関係にあった山内上杉家は関東において北条氏と敵対していたため、北条氏との同盟は山内上杉氏との関係悪化を招き、信濃国衆を庇護した山内上杉氏と対立していく。
その後も信濃国への出兵を繰り返し、信濃の領国化を進めた。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。
武田氏は、高遠氏藤沢氏大井氏など信濃国人衆を次々と攻略、天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で大敗させ、笠原氏の志賀城佐久市)を落として村上氏と対峙する。天文17年(1548年)の上田原の戦いでは村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦い小笠原長時を撃破して、天文19年(1550年)には小笠原長時を追い払い、中信地方を制圧する。

同年、村上義清の支城の戸石城(砥石城とも)を攻めるが、一方的とも言える大敗を喫する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、戸石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。

対武田では村上氏と協力関係にあった長野盆地以北の北信濃国人衆(高梨氏井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあり、村上氏の勢力が衰退し代わって武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようになった。特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であり、越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。更に当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。

戦後の甲越関係と川中島

川中島をめぐる武田・上杉間の抗争は第四次合戦を契機に収束し、以後両者は直接衝突を避けている[22]
武田氏は、対外方針を転じ、同盟国であった今川氏と敵対する織田氏と外交関係を深め[23]、永禄8年(1565年)、信長の養女を信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)の妻に迎える[24]

同年10月、今川氏真の妹を正室とする嫡男・義信の謀反が発覚し(義信事件[25]、永禄11年(1568年)11月、義信正室が駿河へ帰国した[26]。他方、今川氏は、上杉氏と秘密外交を行ったが、これが武田方に露見する[27]。武田氏は、同年12月、駿河今川領国への侵攻を開始するが(駿河侵攻)、これは北条氏との甲相同盟を破綻させ、対上杉の共闘体制も解消される。北条氏は、上杉氏と同盟して武田領国への圧力を加え(越相同盟)、武田氏は、織田氏と友好的関係を築き、上杉氏との和睦を模索している(甲越和与)。

その後、武田氏は、三河徳川家康の領国である遠江・三河方面への侵攻を開始し(西上作戦)、上杉氏とは甲相同盟の回復により本格的な抗争には格っていない。元亀4年(1573年)の信玄死去後、1575年の長篠の戦いで惨敗した武田勝頼上杉謙信に救援を要請し上杉軍に守られて甲斐に無事帰国している。

謙信死去により越後で後継をめぐる御館の乱1578年)が起こると、武田勝頼は越後に出兵する。上杉景勝は、勝頼の異母妹菊姫と婚を通じて和睦し、甲越同盟が成立する。これによって、武田氏の勢力は、川中島の戦いの係争地であった川中島四郡(北信地域)を超えて越後国に及ぶことになる。

しかし、これは甲相同盟を再び破綻させ、上杉方では柴田勝家らからなる織田軍の攻勢を防備するが、武田方では天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍による本格的侵攻(甲州征伐)により滅亡する。

武田氏滅亡後の川中島を含む信濃領国は森長可ら織田家臣によって支配されるが、同年末の本能寺の変において信長が横死すると森長可が逃亡し無主となった武田遺領は空白地域となり、上杉、徳川、北条三者による争奪戦(天正壬午の乱)となり、武田遺領は徳川氏により確保された。その後、豊臣秀吉によって上杉家は会津米沢へ移封されて川中島の地域は徳川の勢力下となった。天下統一をなした豊臣秀吉は、川中島の地を訪れ、人々が信玄と謙信の優れた軍略を称賛するなか、「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。

1622年(元和8年)、真田家が、徳川政権により、上田から海津城(松代)に移される。一帯は戦乱や洪水で荒れ果てていたが、藩主は勿論、家臣団ら武田遺臣にとっても祖父や大叔(伯)父らが活躍した川中島の地は神聖視され、辛うじて残されていた戦跡は保護されたり語り継がれることとなった。


転載元: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興

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