Quantcast
Channel: 環境・歴史・観光・防災・家族を想う、さすらいカメラマン
Viewing all 356 articles
Browse latest View live

[転載]寛文・貞亨・延宝・元禄・宝永甲斐国検地帳(山梨県立博物館)

$
0
0

寛文・貞亨・延宝・元禄・宝永甲斐国検地帳(山梨県立博物館)


皆様いつもご訪問ありがとう御座います
先日山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家をご紹介しましたが今回はその続編です 

食べ歩きや料理も好きですが、歴史も同じく好きなので簡単にご紹介致します

今回は写真を撮ってもよい場所があったので写したものがあります


寛文・貞亨・延宝・元禄・宝永甲斐国検地帳3546冊です
検地というと豊臣政権太閤検が有名ですね




紹介文にもある通り、これだけの冊数がまとまってあるのは全国でも珍しいそうです
イメージ



綺麗に積まれてています
和書が好きな方には堪らない光景が広がっています
イメージ



内容なくずし字でところどころしかわかりません
イメージ



溜息が出る光景です
検地帳がこれだけ保管されていたとは知りませんでした
イメージ



素晴らしい眺めとしか言えません
イメージ



かなり上から目線ですが、教えてもらいました
イメージ



漠然とですが、田畑の種類や面積などが記載されています
それにしてもよく調べてますね
イメージ



検地水帳というのもありました
イメージ



わかる様な、わからない様な(笑)
イメージ



全国的にみてもこれだけの冊数は無いのかもですね
イメージ



反対側にもあります
イメージ



上畑・中畑と読めます
イメージ




イメージ



検地帳の表紙や巻末には検地が行われた村名や実施日・担当役人などが記され、内部には検地の結果を元にしてそれぞれの村の石盛を決定し、村内の田畑・屋敷地について、一筆ごとに字名(所在地の地名)・地目(種類)・品位(上・中・下・下々からなる品質)・面積・分米(石高)・名請人などの情報が記載される。
必要に応じて屋敷地には居住者の身分(村役人・僧侶・神官・後家など、一般農民と年貢・諸役の負担に違いが生じる人々)や山林や沼沢・荒地なども記載する。更に村内の個々の土地についての記述を終えた後に村全体の地目・品位ごとの段別集計を行った後に村高を記載する。最後に検地を行った地域全体の段別総計と石高合計を記す。
イメージ



イメージ



ここから数枚内容をご紹介致します
昔の字(あざ)は今は使いませんが、当時は大事な住所の役割があったと思います
イメージ



イメージ



イメージ


イメージ


イメージ



イメージ



甲州全体の地図が各村ごとに書き込まれています
これもよく出来ています
イメージ



甲府国絵図と案内がありました
甲府徳川家によって作成されたそうです
イメージ



今でも使われている地名が多いので驚きました
イメージ



今で言う税収を把握する為のものかも知れません
各村の石高が克明に書かれてあります
イメージ



の文字の後に何百石とありますね
イメージ



上・中・下と畑の状態までは把握してますね
イメージ



普段なかなか見る事が出来ない資料なので写真を撮りましたイメージ



イメージ



イメージ



寛文十年と読めます
イメージ



イメージ



寛永の文字が読み取れます
イメージ



イメージ



甲府徳川家のガイドブックを買いました
イメージ


という事で山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家で閲覧した寛文・貞亨・延宝
元禄・宝永甲斐国検地帳3546冊はここまでです




検地帳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigationJump to search
検地帳(けんちちょう)とは、検地の結果を村単位で集計して取りまとめた帳簿のこと。水帳(みずちょう)とも。家数人馬改帳と共に、封建領主が土地・人民を支配するための基本台帳としての役目を果たした物。

概要
検地は室町から戦国期にかけて戦国大名などの地域権力によって領国内で実施されて検地帳の作成が行われ、年貢高や増分を把握し、統一的な年貢・諸役賦課体制の貫高制が成立した。戦国期の検地は戦国大名が検使を派遣して実測する場合と、地頭や寺社などに命じて作成させる指出によって行われ、検地帳は野帳などの検地の実施に際して作成された文書をもとに、地域的なまとまりで整理して作成されたと考えられている。戦国大名の検地帳は領国内で記述の詳細さには差異が存在し、統一した書式も未確立であった(例えば、村切の未確立の問題など)。
近世以降、豊臣政権太閤検地)では文禄期以後、江戸幕府では寛文・延宝検地以後に統一した書式が定められた。また、統一以前の時期にはまだ政権による地方支配が完成されておらず、実際の検地内容を反映しているか問題が残されている場合がある。封建領主側は検地帳に記された村の石高の集計(村高)を元にして徴税令書である年貢割付状を発給して村落に年貢・諸役を賦課した(村請制度)。
検地帳の表紙や巻末には検地が行われた村名や実施日・担当役人などが記され、内部には検地の結果を元にしてそれぞれの村の石盛を決定し、村内の田畑・屋敷地について、一筆ごとに字名(所在地の地名)・地目(種類)・品位(上・中・下・下々からなる品質)・面積・分米(石高)・名請人などの情報が記載される。
必要に応じて屋敷地には居住者の身分(村役人・僧侶・神官・後家など、一般農民と年貢・諸役の負担に違いが生じる人々)や山林や沼沢・荒地なども記載する。更に村内の個々の土地についての記述を終えた後に村全体の地目・品位ごとの段別集計を行った後に村高を記載する。最後に検地を行った地域全体の段別総計と石高合計を記す。
検地帳は同一内容のものが2冊作成され、検地役人と村役人がそれぞれに連署して全ての綴じ目に奉行の割印を押印した上で領主側と村方に1冊ずつ保管した。名請人の記載方法には大きく分けて2つあり、単純に年貢・諸役の負担義務者を記したものと「○分(○家抱)・×作」と併記して負担義務者と実際の耕作者に分けて記したものがある。名請人として記載された者は土地の保有者として認められる一方で、その土地に緊縛されることになる。後者は実際の耕作者名を記載することで所有するだけで耕作を行わない地主層への牽制の意味も含まれていた。これは逆に考えれば、当時の村内部で重層的な階層が形成されていたことを示しているとみることも可能である。
また、検地帳は年貢高の把握のみならず、国絵図の作成などにおいても記載村落の基準として活用されていた。
検地帳は体系的に残されているケースが多いため、記載を年次的・地域的に比較することで地域の開発状況や景観変化などを知る歴史資料としても活用されている。

参考文献
関連項目
  

転載元: ブログ山梨3


[転載]山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家

$
0
0

山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家


皆様いつもご訪問ありがとう御座います
さて今回は博物館の写真をご紹介したいと思います

昨年の10月開催された山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家
に行った時の写真がありました。

県立博物館で開催される企画展にはできるだけお邪魔する様に
していて、毎回企画を楽しみにしています。



駐車場から中に入ります
イメージ



いつもここにポスターが貼られています
黒竹が綺麗です
イメージ



こちらは入り口右手にある大きいポスターです
イメージ



自動ドアが三つ葉葵になっていました
イメージ



ここから展示室に向います
イメージ



こんな舞台も作ってあります
イメージ



では早速チケットを渡し、見学してきます
中は撮影できないので、ここまでです
イメージ



甲府に徳川家?と思う方もいるかも知れません
やはり武田信玄公のイメージが強いと思います。

イメージ的には・・・

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て甲斐一国幕府直轄領となる。
甲斐支配は甲府城代や四奉行・初期代官により行われた。

という流れです。

江戸時代の藩の分類でいうと、御三家、御三卿、一門の中では一門という
親藩になるそうです

詳しい事は説明出来ませんが、武田氏が滅んだ後甲州を幕府直轄領とした
事に深い意味があったのでは?と思っています

甲斐の歴史にとって甲府徳川家時代はなかなか見えてこない時代でもあるので
とてもよい機会になりました。

皆さんお住まいの地域の歴史はお好きでしょうか?



イメージ


山梨日日新聞創刊・山日YBSグル―プ創業145周年記念事業
「甲府宰相」、「甲府様」と呼ばれた大名がいたことを、知っていますか―。
 徳川綱重とその子綱豊。彼らは甲府城を中心に甲斐・信濃などの諸国に所領を与えられたため、甲府徳川家と呼ばれます。綱豊はのちに六代将軍家宣となるなど、甲府徳川家は徳川将軍家を継承する資格を持つ徳川一門の大名として、江戸幕府から非常に重視されていました。
  甲府徳川家が甲斐国を治めていた時代は、全国各地で江戸時代の社会の基礎が固められる時期でもありました。甲府徳川家が行ったさまざまな施策は、その後も江戸時代を通じて甲斐国の行政の基礎となっていきます。甲斐国の歴史にとっても、甲府徳川家の時代は非常に重要な転換点であったのです。
  本展では、「知られざる名門」甲府徳川家と、彼らを支えた甲府藩の人々、そして彼らが生きた時代や社会について、多様な資料からご紹介します。


山梨県立博物館『甲府徳川家』と武田の城図面常設展示。
20171007 - Togetter
甲府徳川家。四代将軍家綱の弟徳川綱重が甲斐山梨郡、巨摩郡、信濃佐久郡を与えられたのが1651年(慶安4年)で15万石。後、甲府城主となり、信濃高井郡、小県郡、甲斐八代郡加増で10万石、さらに近江や駿河も加増で計35万石。綱重が甲府城を与えられたのは1661年(寛文元年)。
 
この寛文元年、信玄公百回忌に向けて武田遺臣らにカンパを求め、三枝守俊や小幡景憲が奔走したであろう年。後に百回忌が営まれる1672年(寛文十二年)、家綱将軍から寺領寄進を受けていて、家綱と綱重の親しさ(当時御三家より年頭拝賀が先)を考えると何かあるかな?など想像。
 
さらに同じ1672年やその前後の甲斐徳川家支配下の甲斐國の徴税の重さを示す借金証文など。信玄公百回忌に群衆が集まるその当時、甲斐國は辛かったのだろうが、その民衆の慰撫のために恵林寺が信玄公百回忌を企画したと考えるのは妄想にすぎるだろうか?
甲府徳川家は甲斐全域を支配しておらず、綱重の子綱豊が五代綱吉から後継指名を受けた後、郡内谷村藩秋元氏が川越に移封、代わって川越から柳沢吉保が入府。谷村藩領も吉保預かりとなり、甲斐一国が再びまとまる。
 
元禄の頃辺りから藩祖・初代藩主を顕彰する動きがあったらしいが、甲斐國では信玄公がその役目を負うことになったらしい。『武田信玄公以来甲斐國御領主代々鑑』(安永二年、1773年)なんてのはその流れだろう。ちょうど信玄公二百回忌の翌年、柳沢氏の武田氏との連続性主張との関連を伺わせる。
あと展示で気になるところ幾つか。徳川綱重十三歳の筆。割と署名の字に幼さが残る。
徳川綱重って、死後に征夷大将軍を追贈されてるんですってね!息子の綱豊が家宣となって将軍になったのもあるんですが、太政大臣近衛基熙との良好な関係あってのこと。将軍位追贈なんてあるんだとビックリ。
新井白石。父が久留里藩土屋利直幕下らしい。土屋ということは武田に関係あったのかな。後に父子ともに牢人、白石は師の推挙で徳川綱豊に仕え、綱豊が将軍家宣となると幕政を担う重鎮になっていく。へぇ‥正徳の治と江戸城天守再建を考えてた人ってイメージしかなかった(汗)
 
新井白石が筆をとった『東照宮』。それまで東照社と呼ばれていたのをより位の高い宮号へとした。徳川将軍家の威信を維持するにあたり、神君家康のさらなる顕彰を必要とした‥江戸城天守再建もある意味その更なる威信を必要とした事情にあるのかもしれない。
 
で、その新井白石像。ものすごいわたし的には高橋和也氏を思い出させる…てことは馬場美濃守…馬場さん何してはんの!?みたいな軽い混乱(笑)
 
江戸幕府老中奉書写。能大好き綱吉が津和野藩主亀井茲政に…明日能やるから見に来いよ、を老中を介して伝える内容。急すぎる…解説にいきなり呼び出されて、褒めちぎるしかなかったであろう、さしずめ現代の接待ゴルフやカラオケとあってつら。。。
で、甲府徳川家から将軍になった家宣も将軍になってから約七年で3600回以上の観覧、583回の実演…という凄まじい能ヲタク。3〜4日に一度は能を見たり演じたり。あ、あ、あ…能といえば真田丸の宇喜多秀家…(笑)
常設展もみてこよ。
常設展にある限定展示。井伊直政による甲斐衆所領安堵の徳川家朱印状と甲陽軍鑑巻十六『御献立之次第』の再現。巻十六は軍鑑成立時にはなく、刊行本発刊時に追加されたらしく、天正から江戸初期くらいとな。確か山梨県立博物館の紀要に論文あった気がするな。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
 
まぁそんな時代の差がないから、まー武田もこんな感じじゃね?でとりあえずいいような気はする(笑)鳥の丸焼きとか美味そう。数の子や鱧の味噌漬け、鶉姿焼、鯛焼き魚、伊勢海老‥鮭やタコやアワビももりもりのご飯みたいな山盛りになってんのがすごい。これすごいボリュームよ。
 
竜王村文書?からなぜか遠州諏訪原古城図。年代不明。が、重要なのは縄張りのうち、黄色に塗られた点。古文書の素養がないのでなかなかわからないが、古□□八○とあるの。八○は他にも六○と五○とかあるから何かの単位だろう。間(けん)ではない。しかしこの黄色部分‥…
黄色部分、徳川による諏訪原城増築前の縄張りを表しているのではないか?と感じます。実際デカイ丸馬出で発掘調査から徳川と判断された二の曲輪大手馬出、同中馬出、北馬出、南馬出、東馬出、大手曲輪、大手外馬出には黄色着色がない。
 
この図によれば、本曲輪、二の曲輪、そして本曲輪から西側に段々と曲輪帯曲輪が二重に巻いており、本曲輪に虎口があって帯曲輪に通じている。これも黄色着色。そして丸馬出は二の曲輪東内馬出のみ。やはりか…これなら他に見てきた特に駿河遠江の丸馬出の城と比較しても違和感がない。
 
この諏訪原城図、静岡にお住まいのお城好きなフォロワーさん方にぜひ見ていただきたい…面白い図。
 
あと、頼生文庫から『武田甲斐國領土出城見取図』のうち、駿河江尻城。もう小県の岡城や川中島の北、長沼城そっくりすぎる。まだ背面に川、三方向に丸馬出。いずれの城も地域の拠点となり、駐留した軍勢も多いと思われるし、支配の中心拠点的な城には複数丸馬出あったのかもしれないなぁ。
 
逆に言えば、諏訪原城は重要な城ではあるが、補給拠点であって地域支配中心にはならない。駐留できる兵数も限られるから丸馬出いっぱいつくるとそれだけ分散されちゃう。背後だけでなく他方も崖や自然地形ないなら横堀で遮断し、一方向に敵を集めるよう誘導、そこに丸馬出を、と。勝手な解釈楽しい。



甲府徳川家
甲府徳川家(こうふとくがわけ)は、江戸時代大名。甲府宰相家。甲斐国甲府藩主家(甲府城主)。25万石(のちに35万石)徳川将軍家の一支系で、4代将軍家綱の弟綱重とその子綱豊(のちの将軍家宣)の2代を指す。単に甲府家ともいわれる。


近世甲斐国と甲府徳川家の成立
甲府徳川家は江戸幕府3代将軍徳川家光の三男・綱重を家祖とする。家格は親藩石高は25万石。
近世甲斐国天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡・本能寺の変による無主状態となり、天正壬午の乱を経て徳川家康が確保する。その後、豊臣政権時代には豊臣系大名が配置され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て甲斐一国が幕府直轄領となる。甲斐支配は甲府城代や四奉行・初期代官により行われた。慶長8年(1603年)には家康の子・五郎太(徳川義直)が、元和2年(1616年)には将軍秀忠の子である忠長が甲斐を拝領したが、いずれも自身は在国せず城代・代官衆によって在地支配が行われた。寛永9年(1632年)に忠長が改易されると甲斐は城番制(第二次甲府城番制)による支配となる。
慶安4年(1651年)、徳川綱重(左馬助)の兄・家綱が将軍職に就任すると、綱重は弟の綱吉(右馬助)とともに厨領として6か国で都合15万石を拝領し、この中に甲斐の所領が含まれる[2]寛文元年(1661年)に綱重は10万石を加増され甲府城を城地に賜り甲府藩が立藩された。ここに甲府徳川家は独立した大名となる。

甲府徳川家の所領と石高
将軍時代の徳川家宣
柳沢吉保
「甲府殿御領地割」(『山梨県史』資料編8近世1領主 - 645号)によれば、綱重領の内訳は府中領として甲斐巨摩郡山梨郡の14万石5000石、江戸屋敷地近郊で保持する鷹場のあった武蔵国羽生3万1000石のほか、駿河国に6000石、近江国に3万石、信濃国に3万7000石の飛び地があり、これら賄い領を合わせて都合25万石となる。
また、甲斐国には中世以来の土豪的性格を維持する旗本領が散在していたが、寛文元年に甲斐の旗本領は上知され、旗本らは関東各国に分散され居館も取り払われた。これは幕府による旗本の自立的性格を否定することを意図したものと考えられている[3]

甲府徳川家の廃絶
綱重は甲府に在国したことはなく、江戸桜田邸に居住したので「桜田殿」と通称された。甲府徳川家の甲斐支配は、家老衆に城番制時代の代官衆を加えて行われていた。綱重と綱吉は常に同等の加増や叙位叙任を経ており、綱重の甲府徳川家は綱吉の館林徳川家とともに両典厩(御両)として、御三家に次ぐ高い家格をもっていた。
延宝6年(1678年)に綱重が死去すると、綱重長男綱豊(徳川家宣)が二代藩主となる。綱豊も綱重と同様に甲府に赴くことはなく、御浜御殿に居住し「御浜御殿綱豊卿」と呼ばれた。宝永元年(1704年)、綱豊は五代将軍となっていた徳川綱吉世子となり、次いで将軍職を継承して江戸城西之御丸へ移る。ここに甲府徳川家は一度も甲府に入らないまま2代で絶家となり、甲府徳川家の家臣団は幕臣として再編成された。
一方、宝永元年(1704年)には甲府藩主に綱吉のいわゆる「側用人」を務めた武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)の柳沢吉保が甲府城と、甲斐:駿河国内の領地を合わせて15万石となる。翌宝永2年(1705年)3月12日には駿河の領地が甲斐に一元化され、さらに甲斐国内の谷村藩主・秋元氏が吉保の旧領川越藩に転封される。谷村藩の郡内領は幕府直轄領とした上で吉保の預地とし、甲斐は柳沢氏の一元支配となった。柳沢氏は享保9年(1724年)に大和国郡山へ転封され、以後甲斐国は幕末まで幕府直轄領となる。
なお、家宣の弟・清武越智松平家を起こし、この家は幾度の転封を経て石見浜田藩主となり、明治維新まで続いた。

甲府徳川家の家臣団と施策
新井白石
甲府徳川家の家臣団には間部詮房新井白石らがおり、書上には元禄8年9月『甲府様御人衆中分限帳』[4]、元禄16年8月宝永元年12月推定『甲府殿御分限帳』[5]、田安徳川家所蔵『甲府黄門侍郎様臣下録』[6]などがある。
甲府徳川家家臣団には内部紛争が多く、寛文元年(1670年)には、家老職の大田吉成(壱岐守)・島田時郷(淡路守)両名が綱豊継嗣を排除して綱重乱心を訴える綱豊継嗣事件が発生しており、大田・島田両名は家老職を解任され毛利家に預りとなっている[7]
甲府徳川家による甲府藩政期には寛文4年(1664年)から元禄年間に検地が実施されているが、甲府徳川家は課税強化を行い延宝2年(1674年)には甲府城番と代官側の抗争も発生している。万治元年(1660年)1月の甲府城下での大火後の復旧や甲府上水の整備、徳島堰をはじめ朝尾堰楯無堰など用水堰の開鑿による新田開発が実施された。

関係資料
甲府徳川家に関する家政・藩政史料などの文書群や日記類は綱豊の将軍就任に伴い幕府へ移管されたものと考えられており、その大半の所在は不明だが、部分的に山梨県内や国立公文書館内閣文庫に残されている。
甲府徳川家に関する日記類は享和3年(1803年)に勘定奉行中川忠英による筆写の「甲府日記」が部分的に伝存しているほか『甲府御館記』、『人見私記』などがあり[8]。江戸城の紅葉山文庫には『桜田御殿日記』468冊が架蔵されていたと言われるが[9]、その後江戸城は幾度かの火災に見舞われており、今日その原本の所在や実在は不明となっている。

歴代当主
  1. 徳川綱重
  2. 徳川綱豊
参考文献
  • 斉藤司「甲府藩主徳川綱重・綱豊の政治」『山梨県史通史編3近世1』第一章第三節 

目次

御三家
もし徳川将軍家に男系男子(将軍継嗣)がなければ、この三家が将軍を出すように決められていた。また、徳川姓を名乗ること(他の一門は松平姓)や、三つ葉葵の家紋の使用などが許されていた。ただし、当初は水戸は入っておらず、将軍家・尾張家・紀州家をもって御三家と称した。8代将軍徳川吉宗と14代将軍徳川家茂は紀州藩主から、15代将軍徳川慶喜は水戸徳川家の血統であるが一橋家当主から将軍に就任した。


御三卿
吉宗の時代以降にさらに御三卿が設けられた。御三卿は「将軍の家族」として扱われた。
15代将軍は一橋家当主から将軍に就任した。将軍の後継を補う他に、御三家のうち尾張藩主と紀州藩主の養子となって当主を継承した者も複数出ている。将軍家や御三家の後継補完のため、御三卿当主はたびたび空位の時期が存在した。

一門
江戸初期には将軍家の次子以降から親藩が立てられたが、宗家継承や後嗣断絶のため一時的なものにとどまった。
御三家・御三卿に次ぐ一門としては、
などがあった。これら一門大名は家格・官位などでは優遇されたが、(将軍の親戚というだけであって譜代大名ではないので)幕政に参加することは許されなかった。ただし、保科正之は徳川家綱の補佐役として大政参与に就任して幕政に携わったが、これは病没前の徳川家光による特例措置である。他に例外として越智松平家の松平武元徳川家重の時代に老中となっている。
幕末に至ると、一門大名の幕政参加がみられるようになる。




今週の記事一覧(7記事目)
葡萄オリエンタルスター          2018年9月10日(月)   5:00
ごはん処華膳でもつ煮メンチカツ定食    2018年9月10日(月) 17:00
自民総裁選 安倍氏と石破氏が共同記者会見2018年9月10日(月) 21:00    
山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家    2018年9月12日(水) 5:00

転載元: ブログ山梨3

[転載]甲府駅

$
0
0
≪ 甲府駅 ≫

甲府駅は山梨県甲府市丸の内にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)の駅です。両社による共同使用駅で、JR東日本が駅を管轄しています。

イメージ 南口

イメージ 北口

≪ 駅情報 ≫

所在地
〒400-0031 山梨県甲府市丸の内1-1-8

開業年月日
・1903年(明治36年)6月11日

所属支社
・JR東日本:八王子支社
・JR東海:静岡支社

所属路線
・JR東日本:中央本線
・JR東海:身延線

出入口
・南口
・北口

駅舎
・橋上駅舎

改札口
・1箇所

ホーム
・単式1面1線、切欠2線、島式1面2線、計2面5線:地上駅
1 中央本線:小淵沢、塩尻、松本、長野方面/大月、八王子、新宿、東京方面
2 中央本線:小淵沢、塩尻、松本、長野方面/大月、八王子、新宿、東京方面
3 中央本線:小淵沢、塩尻、松本、長野方面/大月、八王子、新宿、東京方面
4 身延線:身延、富士、静岡方面
5 身延線:身延、富士、静岡方面

駅設備
・みどりの窓口 6:30~21:00
・指定席券売機 初電~23:30
・びゅうプラザ甲府駅内 6:30~21:00
・鉄道警察
・お忘れ物承り所
・待合室
・喫煙ルーム
・キオスク
・コンビニ
・飲食店
・駅ビル(セレオ甲府)
・銀行ATM
・自動販売機
・AED(自動体外式除細動器)
・コインロッカー
・公衆電話
・男女別トイレ
・多機能トイレ
・タクシー乗り場
・駅レンタカー
・交番

リンク

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ


≪ バス情報 ≫

リンク

甲府駅バスターミナル
1
・農林高校方面
・千秋橋、南湖方面
・県立美術館方面
2
・イオンモール甲府昭和方面
3
・法人会館、伊勢町、上今井方面
・山梨大学付属病院方面
4
・飯田、中央病院方面
・長塚方面
・一高経由敷島方面
5
・石和方面
・法人会館方面
6(高速バス)
・中央道日野経由バスタ新宿(山梨交通、富士急山梨バス、京王バス)
・羽田空港(山梨交通、京浜急行バス)
・成田空港(山梨交通、千葉交通)
・横浜駅東口(山梨交通、京浜急行バス)
・静岡駅(山梨交通、しずてつ)
・名古屋駅(山梨交通、JR東海バス)
・京都駅八条口、梅田、あべの橋(山梨交通、近鉄バス)

甲府駅北口
1(山梨交通)
・国立病院方面
2
・武田神社方面(山梨交通)
・かいてらす・石和・御坂方面富士山駅(富士急山梨バス)
・かいてらす経由県立科学館(山梨交通)
3(山梨交通)
・舞鶴陸橋経由法人会館・伊勢町方面
・甲府駅南口経由法人会館・伊勢町方面
4
・降車専用

イメージ

イメージ

イメージ


≪ 駅周辺 ≫

公共機関
・山梨県庁
・甲府市役所
・厚生労働省山梨労働局
・甲府中央消防署
・山梨県警察本部
・山梨県甲府警察署
・山梨県甲府警察署甲府駅前交番
・甲府地方裁判所
・甲府地方検察庁
・日本銀行甲府支店
・日本年金機構甲府年金事務所
・甲府合同庁舎
・甲府市観光案内所
・甲府公証役場
・甲府労働基準監督署

公共施設
・山梨県立図書館
・山梨県民会館
・山梨文化会館
・コラニー文化ホール(山梨県立県民文化ホール)
・甲府市緑が丘スポーツ公園
・甲府市歴史公園(甲府城山手御門)
・愛宕山広域公園
・甲府市中央公民館

金融機関
・甲府駅前郵便局
・甲府宝郵便局
・甲府北口二郵便局
・甲府愛宕町郵便局
・みずほ銀行 甲府支店
・三井住友銀行 甲府支店
・りそな銀行 甲府支店
・山梨中央銀行 本店
・山梨中央銀行 武田通支店
・甲府信用金庫 本部
・甲府信用金庫 北支店
・山梨県民信用組合 本部
・山梨県民信用組合 西支店
・大和証券 甲府支店

医療機関
・山梨病院
・甲府共立病院
・甲府病院
・山梨県立中央病院

教育機関
・山梨大学 甲府キャンパス
・山梨県立大学 飯田キャンパス
・山梨県立宝石美術専門学校
・山梨県歯科衛生専門学校
・共立高等看護学院
・山梨大学附属特別支援学校
・山梨県立甲府支援学校
・東海大学付属甲府高等学校
・駿台甲府高等学校
・山梨英和中学校・高等学校
・自然学園高等学校 甲府キャンパス
・山梨県立甲府第一高等学校
・山梨県立甲府工業高等学校
・山梨県立中央高等学校
・山梨県立甲府西高等学校
・山梨県立甲府城西高等学校
・甲府市立北中学校
・甲府市立西中学校
・甲府市立北東中学校
・甲府市立舞鶴小学校
・甲府市立石田小学校
・甲府市立貢川小学校
・甲府市立新紺屋小学校
・甲府市立朝日小学校
・甲府市立北新小学校
・甲府市立相川小学校
・甲府市立池田小学校

商業施設
・セレオ甲府
・山交百貨店
・岡島百貨店
・ココリ
・オギノ 朝日店
・甲州ほうとう小作 甲府駅前店
・甲州ほうとう小作 甲府北口駅前店
・ジョナサン 甲府駅南店
・スターバックスコーヒー
・ドトールコーヒー
・吉野家
・モスバーガー
・セブンイレブン
・ファミリーマート

宿泊施設
・甲府ターミナルホテル
・東横INN甲府駅南口1
・東横INN甲府駅南口2
・サンパークホテル内藤
・ホテル談露館
・アーバンヴィラ古名屋ホテル
・ドーミーイン甲府丸の内
・甲府ワシントンホテルプラザ
・ホテルニューステーション
・ホテルクラウンヒルズ甲府
・甲府プリンスホテル朝日館

企業施設
・NHK甲府放送局
・山梨放送
・山梨日日新聞
・東京電力 山梨支店

名所旧跡
・武田信玄公銅像
・舞鶴城公園
・甲府城跡
・山梨近代人物館
・穴切大神社
・昇仙峡
・武田神社
・武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)
・山梨ジュエリーミュージアム
・小さな蔵の美術館
・湯村温泉
・山梨県立愛宕山こどもの国
・山梨県立科学館
・甲府市遊亀公園

幹線道路
・国道52号(平和通り)
・国道411号(城東通り)
・山梨県道6号甲府韮崎線(平和通り、朝日通り、山の手通り)
・山梨県道31号甲府山梨線(武田通り)
・山梨県道106号中下条甲府線(飯田通り)

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

転載元: 県道たか風呂②

[転載]山梨県立ミュージアム施設 2015年度年間スケジュール

$
0
0
 先日(2015年3月4日付)、ゆうメールで、山梨県 教育庁 学術文化財課 企画担当から(発信者名は「山梨県 教育委員会 教育長」になってたぞぃw)、県立文化施設4館(美術館、博物館、考古博物館、文学館)の2015財政年度の展示スケジュールの掲載されたリーフレット「Museum Info 2015」なるものが郵送されて来ました(他には、案内文書1枚)。私が、ミュージアム甲斐in券(4館共通年間パスポート)を購入している事で送られて来たものと推測出来ます。

 文書で持っていても、どうせ重ねてしまって、行方不明になるだけだし、まだ、それぞれのHPにも予定が掲載されていない様なので、ここで記事としてUPしちゃいます。

 私の購入している寝棺パスポートは、2015年のGW頃まで有効なのだけれど、

(1)私の住んでいる千葉県柏市からだと、山梨県はやはり遠く、そう頻繁に出掛けない。
(2)当初予定していた訪問も、私の自宅に近いところで巡回展(佐伯祐三展@宇都宮美術館、円空・木喰展@そごう美術館)があり、それらに行かない事で、結局、年間パスポートは採算割れ(個別にチケットを購入した方が安くなった)となった。
(3)ミュージアム甲斐in券は、更新でも新規でも、値段は変わらない。

の3つの理由から、ミュージアム甲斐in券の更新はしない積もり。もともと、ミュージアム甲斐in券は、県の財政年度に拘束されるものではなく、購入時から1年間(購入日から1年後の号月同日の前日まで有効)ですから、購入を急ぐ必要はありません。

 今のところ、以下のスケジュールで気になっているのは、

<山梨県立美術館>

近代風景画の創造―ノルマンディー展(会期:2015年6月27日~2015年8月23日) 一般 1,000円
http://www.museum.or.jp/modules/jyunkai/index.php?page=article&storyid=178によると、私が2014年11月に東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で見た「印象派のふるさと ノルマンディー展~近代風景画のはじまり~」(http://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/63332637.html)の巡回展とされている。「山梨県立美術館開館35周年記念 バルビゾンへの憧れ、ゴッホの原点 オランダ・ハーグ派展」(http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/exhibition/specialexhibit_201307.html。私は、山梨県立美術館では鑑賞出来ず終いで、2014年6月に、損保ジャパン東郷青児美術館で鑑賞 http://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/63084900.html)とは別ものらしい。

ルードヴィヒ・コレクション ピカソ展(会期:2015年9月1日~2015年10月25日) 一般 1,000円


<山梨県立考古博物館> 未訪問

近代山梨の遺跡と遺物―養蚕・舟運・堤防・戦争―(会期:2015年7月18日~2015年8月30日) 観覧無料

縄文の美―世界に誇るJOMON芸術―(会期:2015年10月6日~2015年11月23日) 一般 600円


<山梨県立博物館>

大化石展―山梨に恐竜はいたか!?―(会期:2015年7月18日~2015年8月31日) 一般 1,000円

風景に想う―秋の日は絵画づくし―(会期:2015年9月16日~2015年10月12日) 一般 540円

養蚕(会期:2015年12月16日~2016年2月29日) 一般 510円


で、全部を合わせても、5,105円には届きません(小計 4,650円)。一度UPした後で知ったところでは、ノルマンディ展は一度鑑賞済みなので省くと、小計 3,650円。それだけでなく、山梨県立美術館の展覧会は、巡回する可能性もあり、もう少し近くの美術館などで見る事の出来る可能性もあります。

 年間パスポートのいいところは、時間を気にせず見ていられる事なんですが、さすがに千葉県柏市からですと、何度見に来てもいいと言われても、そう何度も山梨県に見に行けません(笑)。千葉市美術館(自宅から約1時間半あれば着く)なんかだと、見るのに疲れたってだけで、見るのを途中で止め、次の機会に回す、てな事も何度かしてますけど。


 この記事の画像は、カーソルを合わせると右下に表示される+マークをクリックする事で、別ウィンドウで大きく表示されます。そうすれば、文字は充分読める筈。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-da-6f/ubiquitous_budda/folder/1503051/94/63532894/img_0?20150321141229
 2015年4月、山梨県庁舎別館に「山梨近代人物館」がオープンする由。
 なお、山梨県立博物館の「円空・木喰展」は、~2015年3月22日の会期で、そごう美術館で開催されているものの巡回展に相当すると聞いています(http://www.museum.or.jp/modules/jyunkai/index.php?page=article&storyid=199でも巡回展とされている)し、山梨県立美術館の「夜の画家たちう―蝋燭の光とテネプリウム―」は、ふくやま美術館(柏市からは更に遠いけど)で、やはり~2015年3月22日に開催されているものの巡回展です。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-da-6f/ubiquitous_budda/folder/1503051/94/63532894/img_1?20150321141229

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-da-6f/ubiquitous_budda/folder/1503051/94/63532894/img_2?20150321141229

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-da-6f/ubiquitous_budda/folder/1503051/94/63532894/img_3?20150321141229

転載元: 黄色い蛇足@日立柏酒場裏

[転載]中国人はなぜ白人種と戦わなかったのか? 

$
0
0




次のYouTubeも面白い。

武田邦彦は、有色人種の中で中国人だけが白人種と戦うことなく独立を果たしたのはどうしてかという疑問を立てて、それは中国人が第2次大戦で白人種に内通したからだとしている。

そして、中国が日本を目の敵にして侵略者だとゼッキョーし続けるのは、白人種に対して敢然と戦った日本が正しかったとすれば、戦わなかった中国人は卑怯者であることになるからだと言う。

思うに、中国は白人種に完全に植民地にされるまでには至っておらず、曲がりなりにも独立国家だったから、第2次大戦では連合国側の一国とされ、戦争終結後は論功行賞でそれまで欧米列強に割譲していた領土をすべて回復できたからではないか? 


https://www.youtube.com/watch?v=CWZMG0gAMKw
普通の歴史(隣国編―3) 中国はなぜ白人と戦わなかったのか?(その2) / 武田 邦彦 [ 2014.10.04 ] 
武田邦彦 




普通の歴史(追補) 侵略戦争とはなにか?(4) 白人と戦ったことがない国 / 武田邦彦 [ 2014.09.05 ] 
武田邦彦





○白人種による植民地支配は残虐を極めた。

○例えばイギリス人は、アフリカで平和に暮らしていた黒人家族を銃で脅して引き離し、奴隷船に積んでアメリカに運んだが、大西洋上で嵐に遭うと、20人ずつ鎖で繋いで海に放り込んで、嵐を潜り抜けた。

○またイギリス人は、植民地のインドで有能な若者を見つけると、難癖をつけて逮捕し両手を切り落として、反乱を未然に防いだ。

○中南米の原住民は抹殺された。

○アジア人は第2次大戦後にすべて独立戦争を戦ったが、ただ一つ中国だけは、独立戦争を戦わず、白人に味方して独立を果たした。中国人はなぜ白人種と戦わなかったのか?

○第2次上海事変で、中国は上海租界にいたイギリス人・フランス人・ドイツ人などは攻撃しなかった、どころかドイツの力を借りて日本だけを攻撃した。なぜか?  華夷秩序の一部だとみなしてきた日本に対して差別意識を持っていたからだという仮説。

○中国人は、白人種に内通して日本と戦ったおかげで、独立できた。白人種は、中国は日本と戦ったということで、論功行賞で中国の独立を認めざるを得なかった。

○中国からすれば、日本が白人種と戦ったことが正しかったということになれば、自分たちの行動が間違っていたということになる。だから中国は、第2次大戦中の日本の行動を批判してやまないのだ。





 






転載元: 防府から政治課題を語る

富士山資料館にいこう! 富士山の噴火史

$
0
0

The history of the eruption of Mount Fuji. 富士山の噴火史

2010/02/19 に公開
富士山の噴火史
富士山は、(太平洋プレートと)フィリピンプレートと北アメリカプレートそれにユーラシアプレートの4つのプレート境界に位置している。そのため、地下から膨大なエネルギーが蓄えられ地上に噴出する。つまり噴火だ。
今から70~20万年前、愛鷹火山と小御岳火山が活動をはじめた。現在の富士山火口の位置とは違う場所に2つの火山が誕生したことになる。これが「富士山は何故高いのか?」という答えの理由にもなっているが、まだここでは記述しない。さて、噴火後の小御岳火山は標高2,500m前後、同様に愛鷹火山は標高1,500m前後にまで成長したらしい。両火山はその後(8万年前)死火山になり活動を止めた。

http://www.fujigoko.tv/
富士山の噴火史をアニメで再現。


裾野市公式ウェブサイト

観光・文化・スポーツ

富士山資料館

富士山資料館

富士山資料館

富士山の成り立ち、歴史、動植物、それにまつわる人々の生活など富士山に関する資料を展示しています。郷土資料館が併設され、地域文化の移り替わりを目で見て楽しむことができます。さまざまなテーマの企画展、特別展の開催、各種講座も開催しています。
http://www.city.susono.shizuoka.jp/material/images/group/34/siryoukan-genkanmae.JPG
富士山資料館玄関前からの富士山

施設案内

(注釈)当館は標高約880メートルの山沿いにあります。冬季にご来館の際は、冬用タイヤの装着やタイヤチェーンの携行など、万全の装備でお出かけください。

団体のお客様へ

日程が決まりましたら、事前に予約をお願いします。
見学所要時間は30分前後を見込んでください。
職員による館内の解説、案内をご希望の場合は、ご予約の際にお申し出ください。説明は20分から25分程度です。その場合、見学所要時間は40分前後を見込んでください。
(注釈)なお、当日の予約状況などによって解説、案内ができない場合もありますので、ご予約の際にご確認ください。
バスは、第2駐車場を利用するとスムーズです。第1駐車場はスペースに限りがあるため、駐車状況によってバスの出入りができない場合があります。

入館料

入館料 大人 こども(小、中学生)
入館料
普通入館料210円100円
団体入館料
20人以上
150円80円

開館時間

9時から16時30分

休館日

毎週月曜日(祝日の場合は火曜日)、祝日の翌日(土曜日、日曜日の場合は開館)、年末年始

所在地

住所 裾野市須山2255-39
地図データ
地図データ ©2018 Google, ZENRIN
地図データ地図データ ©2018 Google, ZENRIN
地図データ ©2018 Google, ZENRIN
地図
地形
航空写真
ラベル

関連リンク

www.city.susono.shizuoka.jp/kanko/3_1/3520.html - キャッシュ
2018年6月21日 -富士山の成り立ち、歴史、動植物、それにまつわる人々の生活など富士山に関する資料を展示しています。郷土資料館が併設され、地域文化の移り替わりを目で見て楽しむことができます。さまざまなテーマの企画展、特別展の開催、各種講座 ...
裾野市立富士山資料館に関する地図
  • 裾野市立富士山資料館の画像
  • 裾野市立富士山資料館の画像
  • 裾野市立富士山資料館の画像
住所:電話:
静岡県裾野市須山2255-39
055-998-1325
富士山に関する資料を「富士のなりたち」「富士に棲む」「富士をみる」「富士に生きる」「裾野のくらし」「富士トピックス」の6つに分けてわかりやすく紹介、展示している。
www.city.susono.shizuoka.jp/kanko/6/3/index.html - キャッシュ
富士山ネットワーク推進委員会のイベント紹介 · 富士山資料館の刊行物 · 富士山資料館· 平成29年度の年間事業・イベント・募集 · イベント・講座の参加者募集 · 富士山世界遺産登録記念事業 · 富士山資料館「勾玉づくり講座」の参加者を募集 ...
www.city.susono.shizuoka.jp/kanko/3_1/index.html - キャッシュ
観光 · 東京オリンピック・パラリンピック · スポーツ・レジャー · 生涯学習 · 成人式 · 歴史・ 文化; 富士山資料館; 富士山資料館開館40周年記念・富士山世界遺産登録5周年記念事業を開催 · 東西公民館 · 鈴木図書館 · 裾野市の魅力発信. トップへ.
www.jalan.net > ... > 静岡の観光 > 御殿場・富士の観光 > 裾野市の観光 - キャッシュ
評価(評価: 3.6)評価:3.6-5件のレビュー
富士山のふもとにある裾野市須山にあるこちらの資料館は、富士山の成り立ちや歴史、 この地方の人々の富士山とのかかわりなど富士山にまつわるあらゆる資料が展示してあります。入館料は210円とお安いです。館内は天井が高く、展示の仕方も割と華やか ...
rurubu.jp > ... > 裾野・十里木高原 > 十里木高原(裾野市) - キャッシュ
十里木高原(裾野市)の観光スポット、裾野市立富士山資料館について紹介。写真、 クーポン、チケット、周辺の宿泊などおでかけ・旅行の際に役立つデータが満載。
susonocity.com > HOME > ・お出かけ(場所) > 博物館 - キャッシュ
2月23日は富士山の日で、各地で富士山関係のイベントが開かれたり、施設が無料になったりします。 裾野市内にある裾野市立富士山資料館も富士山の日を記念して無料になっていたので行ってきました。 行く前はまったく期待していなかった ...
www.tripadvisor.jp > ... > 東海地方 > 静岡県 > 裾野 > 裾野市 観光 - キャッシュ
評価(評価: 3.5)評価:3.5-8件のレビュー
富士山資料館(裾野市)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(8件)、写真(4枚)、地図をチェック!富士山資料館裾野市で12位(23件中)の観光名所です。
hellonavi.jp/detail/page/detail/1395 - キャッシュ
富士山の成り立ち、そこに棲む動植物、信仰や登山に関わる歴史などをテーマに沿ってミニチュア、模型、文献によって展示、紹介します。併設して郷土資料館もあり、富士山麓の生活を支えてきた農具や民具を展示しています。
www.navitime.co.jp/poi?spt=00020.A2201520 - キャッシュ
裾野市立富士山資料館(裾野市-資料/郷土/展示/文学館)のスポット情報。裾野市立富士山資料館の写真、地図、アクセス、詳細情報、周辺スポット、口コミを掲載。また、 最寄りバス停(十里木高原別荘地管理事務所前 十里木一丁目 十里木二丁目 )とスポット ...
www.at-s.com > アットエスTOP > 観光 > 観る > 博物館・資料館 - キャッシュ
裾野市立富士山資料館(スソノシリツフジサンシリョウカン)[裾野市/博物館・資料館]の施設情報は静岡新聞SBS運営のアットエスでチェック!写真、や地図、クーポンなど情報が満載です。富士山の自然や文学芸術、歴史について紹介…

[転載]広島県三原市本郷町水没後の様子1(7/8)

[転載]教育塔:1934年9月21日朝、室戸台風が関西地方を襲いました。秒速60mという強風及び大高潮はあらゆる方面に大惨事を及ぼしました。学校においては始業の前後でもあり多数の木造校舎が倒壊し、教職員25人

$
0
0


教育塔


教育塔(2009年2月撮影)

教育塔(きょういくとう)は大阪市中央区大阪城公園内にある。 教育に関する殉職者・殉難者の慰霊を目的として建設された。



イメージ

概要

1934年の室戸台風で殉職した教員や死亡した児童が多数出たため、二度と同じような災害が起きないよう祈願し、1936年に帝国教育会の発案・決議により建設された。塔の設計者は公募され、島川精が設計を行った。建設費は寄付で賄われ、当時の金額で約17万5千円、式典費、準備費等を合わせると約32万円かかった。
太平洋戦争後、管理を日本教職員組合が引き継いだ。




イメージ

教育祭

毎年10月30日(教育勅語が発布された日)に行われ、殉職者が合葬される。当初は神式または仏式で執り行われたが、戦後は無宗教形式で行われている。




イメージ

外部リンク

1934年9月21日朝、室戸台風が関西地方を襲いました。秒速60mという強風及び大高潮はあらゆる方面に大惨事を及ぼしました。学校においては始業の前後でもあり多数の木造校舎が倒壊し、教職員25人をはじめ600人を超す子どもたちが亡くなるなどの甚大な被害がありました。災害直後、大阪の教育界は二度とこのような惨事が起こらないことを願って、子ども、教職員を追悼し、その名を永くとどめるため、記念碑の建設を発議し、帝国教育会が臨時総会において記念塔を建設することを決定しました。全国の教育関係者はこの呼びかけにこたえ、児童、生徒、教職員、一般有志の方から32万円を超える寄付が寄せられ、大阪城公園に教育塔ができました。

1935年(昭和10年)9月地鎮祭、1936年(昭和11年)8月定礎式、1936年(昭和11年)10月30日に竣工の運びとなり、この日に第1回教育祭が行われました。以来、教育祭は例年10月末に挙行されてきました。

塔の建築には教育塔建設費に17万5千円、式典費、準備費等で合計32万円ほどがかかりました。公募により、塔の設計は島川精さん、塔の正面のレリーフは長谷川義起さんが選ばれました。

祭典は建設当時から神式あるいは仏式で行われていましたが、1948年、日本教育会(「帝国教育会」改称)が解散、日本教職員組合が塔の維持・管理と教育祭の主催を受け継いでからは、宗教色をなくすよう努め、現在は無宗教形式で行われています。1981年には、教育塔内正面の塔芯文「咸一其徳」(咸其の徳を一にす)から「やすらかに」に改め、塔芯裏の「説明文」を戦前調のものから現代風に改めました。1986年には「合祀」を「合葬(がっそう)」に、「祭主」を「主催者」に「奉納音楽」を「追悼音楽」に、献花中の音楽を「越天楽」から「葬送曲」に変更しました。

第50回(1985年)教育祭では180人が合葬され、特別合葬者の中には御巣鷹山での日航機墜落事故(1985年)の犠牲者41人が含まれています。

第60回(1995年)教育祭では、阪神・淡路大震災で自宅の倒壊や火災により亡くなった121人の特別合葬者を含む154人が合葬され、「教育塔説明掲示板」も全面的に書き改めました。

第70回(2005年)教育祭では、新潟県中越地震により亡くなった4人の特別合葬者を、第77回(2012年)、78回(2013年)、79回(2014年)の教育祭では東日本大震災の犠牲となられた51人の特別合葬者を含む方々を合葬しています。
  • 教育塔(大阪市学校園教職員組合城北支部)


イメージ

イメージ

転載元: 地震・雷・火事・津波・高潮・親爺・事故・災難


[転載]1961年9月16日台風18号(第二室戸台風)が近畿地方に上陸。死者行方不明202人。1934年に関西に大きな被害を出した室戸台風とよく似た経路を取ったため、気象庁によりこの名称が与えられた。

[転載]津波高潮ステーションに行こう!第2室戸台風(昭和36年台風第18号、国際名:ナンシー/Nancy)は、1961年(昭和36年)9月16日、室戸岬に上陸し、大阪湾岸に大きな被害を出した台風である。

$
0
0

第二室戸台風の高潮により、西大阪および和歌山の海岸では大きな被害を受けました。西大阪の浸水地域は、福島区、西区、港区の大部分、西淀川区、此花区、大淀区、北区、大正区、浪速区の一部におよび、床上浸水56,000戸、床下浸水60,000戸、被災者は26万人にも及びました。このうち西淀川の神崎川、大野川、西島川に囲まれた大和田地区は特に浸水が激しく、西島川の左岸提の一部が破堤したことによるものです。
 
また、福島区、西区および北区中之島、堂島地区はジェーン台風や室戸台風の時より浸水の被害が大きく、これは地盤沈下がこの地区に波及していたことによるものです。
しかしその他の地域では被害が小さくなっており、特に大正区、此花区の大部分、西淀川区大野川以南では一部の越波、漏水等のほか高潮を防ぐことができ、これはジェーン台風後につくられた防波堤が功を奏した結果でした。


2016/01/04 に公開
大阪では風速50.6m、全市の25%が水浸し。和歌山県美浜町三尾部落は全滅。
今から43年前、風台風として猛威をふるった第二室戸台風の凄まじい模様を収録した衝撃映像。


大阪府/津波・高潮ステーション 【Tel】06-6541-7799

www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami
新着情報 平成30年度 「ぼう祭のつどい」 が終了いたしました。 平成30年11月11日(日曜日)、津波・高潮ステーションにて 「ぼう祭のつどい 広げよう絆のわ」 [PDFファイル/3.61MB]※クリックするとチラシをご覧いただけます。
  • 利用案内

    【開館時間】 10時から16時まで 【休館日】 火曜日(祝・休日の場合は翌 …
  • 来館予約について

    ファックスの場合 06-6541-7760 郵送の場合 郵便番号:550-0006 大阪 …
  • ダイナキューブ

    映像について 全映像(外部サイト) ダイジェスト映像(外部サイト) リニューア …
pref.osaka.lg.jp の検索結果のみを表示

津波・高潮ステーション

tsunami-osaka.jp
津波・高潮ステーション」は、大阪府西大阪治水事務所が所管する防潮堤や水門の津波・高潮防ぎょ施設の一元管理を行う「防災棟」と、府民の防災意識の向上を目的とした「展示棟」を併せ持つ施設です。
  • 〒550-0006大阪府大阪市西区江之子島2丁目1-64· 06-6541-7799
www.pref.osaka.lg.jp/kasenkankyo/boujyo/kakonosaigai.html - キャッシュ
2018年9月13日 - 8月28日に南鳥島近海で発生した台風第21号は、非常に強い勢力を保ったまま9月4日12時頃徳島県南部に上陸しました。 ... 人的被害: 死者2名、軽傷者28名 住家被害: 家屋半壊6件、一部損壊129件、床上浸水14件、床下浸水53件 公共土木施設被害 .... 第二室戸台風の影響で、大阪府内では以下の被害が発生した。


www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/.../19610915.html - キャッシュ
この暴風や高潮による被害が大きく、雨による被害は比較的小さかった。大阪市では高潮により市の西部から中心部にかけて31平方kmが浸水したが、過去の同様な規模・ 進路であった室戸台風、ジェーン台風に比べると浸水面積は小さく、人的被害も小さかった ...



www.youtube.com/watch?v=BecKE1gkQ6Y
<b>第2室戸台風</b>(1961年18号)を現在の台風情報で再現してみた - YouTube
ニューステロップ等は適当です。
再生時間:3:38
投稿日:2017年9月15日



イメージ
www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/.../flood_1961_shosai.html - キャッシュ
この第二室戸台風は、その最盛期において中心気圧885mb、最大風速は70m/sec、 暴風半径は330kmという強大な勢力をもち、過去の台風災害の最大記録といわれる ... 第二室戸台風の高潮により、西大阪および和歌山の海岸では大きな被害を受けました。


イメージ
www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/know/.../flood_1961.html - キャッシュ
この台風は9年の室戸台風に近いもので大阪湾における最高潮位はOP+4.12m、最大偏差2.45mに達した。 高汐継続時間は(高汐警報基準値3.20mを越えた時間)1時間40 分で大阪市内の浸水面積は31平方kmであった。 室戸、ジェーン台風による高汐被害と ...



イメージ
www.pref.nara.jp/secure/118509/naranosaigaisi8 3-3.pdf
出て、午後1時に神戸・大阪に. 再上陸しました。台風が近畿地. 方に接近し通過する午前11時. から午後2時までの間に観測さ ... 台風の進路. 台風の進路と県内降水量分布図. (『奈良県に大被害を与えた主要台風の解説』より). 133. 第2室戸台風(台風第18 ...



イメージ
dil.bosai.go.jp/workshop/.../s09osaka/osakatakasio.htm - キャッシュ
太平洋南岸の湾奥にある大都市ゼロメートル地帯で高潮の危険が最も大きい -1934 年室戸台風・1950年ジェーン台風・1961年第二室戸台風による大阪の高潮. 高潮災害の人的被害 1961年の台風18号は「超大型」で「猛烈な」という勢力で室戸岬に上陸 ...



イメージ
matome.naver.jp/odai/2138216361768243301 - キャッシュ
第2室戸台風?伊勢湾台風?最大風速など各ジャンル毎の歴代最強台風をまとめました。 更新日: 2013年10月21日 ... 昭和36年台風第18号、国際名:ナンシー〔Nancy〕) は、1961年(昭和36年)9月16日、室戸岬に上陸し、大阪湾岸に大きな被害を出した台風 ...


イメージ
typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/138/ - キャッシュ
この台風の規模は室戸、枕崎台風に次ぎ、伊勢湾台風とほぼ同じくらいであったが、人的被害は全国で200人と先の3台風に比べると非常 ... 1961年(昭和36年)9月16日9時過ぎ、後に「第二室戸台風」と命名される台風18号が高知県室戸岬の西方に上陸した。



イメージ

第2室戸台風


第2室戸台風(台風第18号、Nancy、ナンシー) 発生期間 寿命 最低気圧 最大風速
(日気象庁解析)最大風速
米海軍解析)被害総額 死傷者数 被害地域
カテゴリー5の スーパー・タイフーンSSHWS
第2室戸台風(9月14日)
第2室戸台風(9月14日)
1961年9月8日 9:00
9月18日 3:00
9日18時間
888 hPa
75 m/s
185 kt
死者194名、行方不明者8名、負傷者4,972名
日本の旗日本
グアムの旗グアム
プロジェクト : 気象と気候災害
テンプレートを表示
第2室戸台風(昭和36年台風第18号、国際名:ナンシー/Nancy)は、1961年(昭和36年)9月16日室戸岬に上陸し、大阪湾岸に大きな被害を出した台風である。1934年に関西に大きな被害を出した室戸台風とよく似た経路を取ったため、気象庁によりこの名称が与えられた。

イメージ
大阪市港区 大阪港中央突堤

被害状況

  • 死者: 194 名
  • 行方不明者: 8 名
  • 負傷者: 4,972 名
  • 住家全壊: 15,238 棟
  • 住家半壊: 46,663 棟
  • 床上浸水: 123,103 棟
  • 床下浸水: 261,017 棟
台風第18号は、発生位置や日本海北上後の経路は異なるが、日本上陸前後の経路は1934年9月21日に来襲した室戸台風と酷似し、「第2室戸台風」の固有名が付けられた。

上陸時の気圧の観測値(室戸岬測候所)は、室戸台風が911.6hPaに対し第2室戸台風は930.4hPaであったが、風速は室戸台風を大きく上回り、暴風域の大きさは伊勢湾台風に匹敵するレベルで、台風に関する定義や統計が統一された1951年以降に上陸した台風の中では、最強と言える勢力であった。

室戸岬における最大風速・最大瞬間風速は日本の気象官署における観測値としては新記録となった[7]近畿地方再上陸後も勢力は衰えず、洲本大阪京都などでは観測開始以来の最低気圧を観測し、暴風・高潮被害が発生した。特に高潮はOP(大阪湾工事基準面)上4.12mに達したが、これは室戸台風による4.50mに次ぐ、大阪では第2位の記録である。これにより西淀川・港・此花・福島・北・西・大正・西成・城東・都島の各区が浸水、その面積は全市の4分の1の31haに及んだ。これは、第2次世界大戦後の急激な工業化に伴う地下水のくみ上げによる地盤沈下も大きく影響している。

台風の勢力があまり衰えないまま日本海に抜けたため、沿岸部では大きな風害が起きたほか、京都府内の木津川を通る送電線鉄塔10数基が吹き倒された。
しかし、この2年前に来襲した伊勢湾台風の教訓を生かして災害対策が進められ、台風の勢力や規模、家屋被害の割には犠牲者を少なく抑えることに成功した。中でも、高潮による犠牲者がなかったことは特筆に値する[8]


外部リンク

第二室戸台風
昭和36年(1961年) 9月15日~9月17日
暴風と高潮による被害、
 室戸岬で最大瞬間風速84.5m/s以上。
死者194名、行方不明者8名、負傷者4,972名
住家全壊15,238棟、半壊46,663棟
床上浸水123,103棟、床下浸水261,017棟など
(消防白書より)
概要
 9月8日にエニウェック島の南海上で発生した台風第18号は、西北西に進んで発達し、12日から13日にかけて中心気圧が900hPa未満の猛烈な強さの台風となった。進路を次第に北寄りに変え、14日には沖縄の東海上を通過、15日朝奄美大島を通過した。 その後北東に進み、16日09時すぎ室戸岬の西方に上陸した。 13時過ぎには兵庫県尼崎市と西宮市の間に再上陸、18時に能登半島東部に達し日本海に出た。日本海沿岸を北北東に進み、北海道西岸をかすめてサハリン付近からオホーツク海に進んだ。
 室戸岬(高知県室戸市)では最大風速66.7m/s(最大瞬間風速84.5m/s以上)、大阪で33.3m/s(同50.6m/s)、和歌山で35.0m/s(同56.7m/s)、新潟で30.7m/s(同44.5m/s)など、各地で暴風となった。
 この暴風や高潮による被害が大きく、雨による被害は比較的小さかった。大阪市では高潮により市の西部から中心部にかけて31平方kmが浸水したが、過去の同様な規模・進路であった室戸台風、ジェーン台風に比べると浸水面積は小さく、人的被害も小さかった。 また、兵庫県、和歌山県、四国東部でも高潮による浸水被害があった。台風の通過した近畿地方と吹き返しの強い風の吹いた北陸地方で暴風による家屋の倒壊等の被害が特に大きかった。
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1961/19610915/image/t196118.gifhttp://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1961/19610915/image/pa_19610916_15_01.gif
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1961/19610915/image/wx1_19610917_15_01.gif
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1961/19610915/image/wx2_19610917_15_01.gif

転載元: 地震・雷・火事・津波・高潮・親爺・事故・災難

[転載]速やかに地域地盤嵩上げシステムの導入を

$
0
0



イメージ


地域地盤嵩上げシステムの導入を
 
我が国の資産は平野部に集中しており、その多くは標高の低いところに存在する。
 
古より、川は氾濫を繰り返し、土砂を運び平野を造ってきた。
 
現在の河川は砂防が設備が整い堤内地に土砂を供給することは皆無となった。
 
一たび、水害が起きれば我が国の資産の多くは被害を受ける。そこで、地域地盤嵩上げシステムを提唱する。
 
地域地盤嵩上げシステムとは、堤防より低い土地を堤防の高さまで、システム的に嵩上げすることである。
 
嵩上げられた将来を見越した、グラウンドデザインを描き、高架橋などの社会資本はあらかじめ高さを嵩上げしておく。
 
具体的には、家を建て替える時には、宅地地盤高さを一定高さ嵩上の義務付け等の施策を戦略的かつ総合的に展開する。
 
 
あなたのお家の周辺の堤防が家の敷地の高さより高ければ要注意です。家を建て替える時には、地盤を少し上げましょう!!
 

イメージ
 
 
目標とする高さ
大阪市の例
大阪市内OP+5.2m(大阪市内河川堤防天端高さ)ただし、安治川水門・尻無川水門・木津川水門より下流はOP+6.6m(堤防高さ)とする。
 
 大阪中心部の、海抜1m以下の範囲を塗りつぶし。
http://members.jcom.home.ne.jp/kiyomish/osk_study/fld1m-s.jpg
これが、今世紀中にそうなると言われている海面上昇で(堤防がなければ)浸水する範囲である。河内湖が「復活」している。
近年の埋め立て地のほうが、海岸に近い陸部よりも標高が高くて、一種のリーフ状の地形をなしているのは、東京も同じだ。
 
 
10.以下は、比較のために同じスケールにした地形図。大阪と、
http://members.jcom.home.ne.jp/kiyomish/osk_study/topo-s.jpg
 

転載元: 地震・雷・火事・津波・高潮・親爺・事故・災難

[転載]日向灘北部を震源とする場合、新富町で4.9m、日向市で4.2mをはじめ各地で4 - 2mの波高、日向市で24km3、延岡市で19km3、宮崎市で12km3が冠水すると推定した

$
0
0


日向灘地震

   
赤線南海トラフ。日向灘地震の震源域はその西端部分から西側の海域一帯である。
日向灘地震の位置(九州内)
1662年
1662年
1968年
1968年
日向灘地震
日向灘地震
日向灘地震
日向灘地震
17世紀以降に発生したM7.6前後の日向灘地震の震央をRed pog.svg、1923年以降に発生したM7.0-7.2の日向灘地震の震央をBlue pog.svgで示した。

  日向灘地震(ひゅうがなだじしん)とは、南海トラフの西端に位置する日向灘で起こる海溝型地震である。日向地震(ひゅうがじしん)とも呼称される。


概要

宮崎県および大分県の沖合にあたる日向灘の海域では、過去より繰り返し大地震が発生する事が知られている。日本政府の地震調査研究推進本部地震調査委員会の報告(2004年)によると、日向灘地震は規模により2つに分けられ、マグニチュード (M) 7.6前後のものと、M7.0 - 7.2程度のものがある。いずれも陸側のプレート(ユーラシアプレート[1])とフィリピン海プレートの境界面で起こる低角逆断層(衝上断層)型のプレート間地震(海溝型地震)で、震源域は具体的に特定できないものの深さは10 - 40km付近[2]

九州東岸の宮崎県串間市付近から大分県佐伯市付近までは海岸線が北北東-南南西方向に伸び、その南東側の沖には南海トラフの海溝軸[3]がほぼ平行に伸びている。地震調査委員会の報告に用いられた評価領域は、先述の海岸線を北東に愛媛県宇和島市付近まで延長した線の付近を陸側の外縁とし、そこから海溝軸までの間の幅およそ100 - 150kmを領域としている。海溝軸に近い幅50km程度は領域から除かれている[4]

今後日向灘地震が発生した場合、周辺の沿岸各地に地震の揺れによる被害のほか、震源域が浅い場合には津波による被害も生じることが予想されている。特に、九州では宮崎県や大分県、四国では愛媛県や高知県太平洋側などで津波の被害が予想されている。

発生間隔

M7.6前後のものは約200年間隔で発生すると推定され、17世紀以降は1662年 (M7.6)と1968年 (M7.5)の2回発生しており、2回とも津波を引き起こし人的被害を出している。また、M7.0 - 7.2程度のものは約20 - 27年間隔で発生すると推定され、1923年以降は1931年 (M7.1)、1941年 (M7.2)、1961年 (M7.0)の3回、ないし1984年 (M7.1)を含めて4回(1984年の地震は従来プレート間地震とされていたが、プレート内地震であり日向灘地震に含まれないという指摘もある。)発生しており、いずれも人的被害を出している[5]

2種類の地震を合わせると十数年から数十年に一度の割合で発生している。調査により判明している過去最大の地震は、1662年のM7.6の地震であり、日向灘の領域単独でM8以上となる巨大地震が発生した記録はない[6]。しかし、震源域が東に隣接する南海地震などと同時発生してM8以上の連動型巨大地震となったことがあるという見方もある。
例えば、東海・東南海・南海連動型地震であった1707年宝永地震は日向灘地震とも連動した可能性が指摘されている。そして、将来もそのような連動型巨大地震が発生する恐れがあり、対策を取ろうとする動きがある。特に2011年東北地方太平洋沖地震東日本大震災)以降、そのような動きが強くなっている[7]

地震の発生確率

日向灘   プレート間地震 7.6前後 10%程度 7.6前後 10%程度(ひとまわり小さいもの)プレート間地震 7.1前後 70 - 80% 7.1前後 70 - 80%
発生確率等の評価(地震調査委員会)
領域様式2004年2月27日時点[8]2013年1月1日時点[9]
規模 (M)30年以内の発生確率規模 (M)30年以内の発生確率
日向灘の既知の大地震は震源域が毎回同一ではないため、発生確率評価においては評価領域内のどこかの領域でランダムに発生するとみなして算出された[10]

東北地方太平洋沖地震後の連動型地震への関心の高まりなどを受けて、日向灘地震を含めた南海トラフにおける地震の評価見直しが行われており、2013年春に公表される予定と発表されている[9]

被害地震年表

[表示]節内の全座標を示した地図 - OSM
節内の全座標を示した地図 - Google
節内の全座標を示した地図 - Bing
日向灘付近を震央とする地震のうち、死者が報告されている被害地震、M7.0以上の地震、および最大震度5(5弱)以上の地震を示す。
  • 出典:特に注記がないものは、1922年以前は日本地震学会[11]、1923年以降は気象庁[12]による。注記しているが、震源要素の一部は宇津[13]、被害については日本地震学会、地震調査委員会(2004年)も参考とした。
  • 地震発生年月日の欄の月日は全てグレゴリオ暦(新暦)。
地震発生年月日 震央地名 座標 深さ
(km) 規模
(M)最大
震度概要
1498年(明応7年)7月9日豊後水道北緯33度00分東経132度15分 / 北緯33.0度 東経132.25度 / 33.0; 132.25 (1498 豊後水道)7.0 - 7.5山崩れ、地割れ、泥噴出などがあり、民家の被害が多数、死者も多数出た。同日の畿内の地震や、上海における津波記録から、南海地震との説もある[14][13]日向灘地震 (1498年)も参照。
1662年(寛文2年)10月31日日向灘北緯31度42分東経132度00分 / 北緯31.7度 東経132.0度 / 31.7; 132.0 (1662 日向灘)7.6日向大隅で死傷者多数。城や家屋の破損、山崩れが発生した。津波があり、沿岸7か村の田畑計8,500石が水没するなどした。(羽鳥、1985年)によれば津波の高さは宮崎で4 - 5mと推定され、日向灘では最大級のものであったとされる。外所地震(とんところじしん)とも呼ばれる[15]
1769年(明和6年)8月29日(豊後水道)北緯33度00分東経132度06分 / 北緯33度 東経132.1度 / 33; 132.1 (1769 (豊後水道))7.8前後(異説あり)日向・豊後肥後で被害があった。延岡城大分城での被害、寺社や町屋の損壊などが報告されている。田の水没や水難による死者が出た。被害をもとに、宮崎で震度6程度、津波が最大2 - 2.5m、地震の規模はM7.8前後などと推定されている。しかし、(松浦 ほか、2003年)などは2日後の水害による被害と混同されている恐れから規模の小さいプレート内地震であった可能性を指摘しており、(地震調査委員会、2004年)はこれを根拠に日向灘地震とはみなしていない[15]
1899年(明治39年)11月25日日向灘北緯31度54分東経132度00分 / 北緯31.9度 東経132.0度 / 31.9; 132.0 (1899 日向灘)浅い[13]7.1宮崎県・大分県で、家屋の破損や土蔵の倒壊などの被害があった。
1899年(明治39年)11月25日日向灘北緯32度42分東経132度18分 / 北緯32.7度 東経132.3度 / 32.7; 132.3 (1899 日向灘)浅い[13]6.9同上
1909年(明治42年)11月10日(宮崎県西部)北緯32度18分東経131度06分 / 北緯32.3度 東経131.1度 / 32.3; 131.1 (1909 (宮崎県西部))約1507.6プレート内で起こるやや深発地震であり、日向灘地震ではない。大分県・宮崎県・熊本県鹿児島県・高知県・広島県岡山県で被害があり、宮崎市付近で被害が大きかった。
1923年(昭和4年)7月13日(九州地方南東沖)北緯30度54分東経132度00分 / 北緯30.9度 東経132.0度 / 30.9; 132.0 (1923 (九州地方南東沖))447.14宮崎市、鹿児島市で震度4を観測。震央は地震調査委員会の評価領域の南端付近。震央を種子島付近(南西諸島近海地震の領域)とする文献もある。死者・負傷者なし[13]
1929年(昭和4年)5月22日日向灘北緯31度45分東経131度53分 / 北緯31.75度 東経131.89度 / 31.75; 131.89 (1929 日向灘)596.95宮崎市、人吉市で震度5を観測。津波があったが被害記録はない[13]
1931年(昭和6年)11月2日日向灘北緯31度47分東経132度00分 / 北緯31.79度 東経132.00度 / 31.79; 132.00 (1931 日向灘)287.15宮崎市、都城市などで震度5を観測。死者1名、負傷者29名[13]。宮崎県・鹿児島県で家屋全壊がそれぞれ4棟・1棟、室戸岬で85cmの津波[11]
1939年(昭和13年)3月20日日向灘北緯32度05分東経131度45分 / 北緯32.08度 東経131.75度 / 32.08; 131.75 (1939 日向灘)576.54宮崎市、熊本市などで震度4を観測。津波があった。死者1名、負傷者1名[13]
1941年(昭和16年)11月19日日向灘北緯32度07分東経132度08分 / 北緯32.12度 東経132.13度 / 32.12; 132.13 (1941 日向灘)337.25宮崎市、延岡市などで震度5を観測。死者2名、負傷者18名[13]。家屋全壊は27棟で、大分県・宮崎県・熊本県で被害があり、九州・四国で最大波高1mの津波があった[11]
1961年(昭和36年)2月27日日向灘北緯31度39分東経131度53分 / 北緯31.65度 東経131.89度 / 31.65; 131.89 (1961 日向灘)377.05宮崎市、日南市、都城市で震度5を観測。死者2名、負傷者7名[13]。家屋全壊3棟、九州から中部にかけて最大50cmの津波[11]
1968年(昭和43年)4月1日日向灘北緯32度17分東経132度32分 / 北緯32.28度 東経132.53度 / 32.28; 132.53 (1968 日向灘)307.55延岡市、宿毛市で震度5を観測。死者1名、負傷者15名(53名とする資料もある)[13]。住家全壊1棟、半壊2棟、道路損壊18件などで、高知県・愛媛県で被害が多かった[11]。四国で到達高3m以上の津波を観測し、床上浸水56棟、船舶の被害も発生した[16]
1970年(昭和45年)7月26日日向灘北緯32度04分東経132度02分 / 北緯32.07度 東経132.03度 / 32.07; 132.03 (1970 日向灘)106.7

転載元: 地震・雷・火事・津波・高潮・親爺・事故・災難

[転載]日向層群は,延岡衝上断層の南東側(下盤)に位置し,延岡市,日向市から南西方

$
0
0



3-4 日 向 層 群
分布・岩質
 日向層群は,延岡衝上断層の南東側(下盤)に位置し,延岡市,日向市から南西方へ,南郷村,西米良村,小林市まで広く分布し,野尻屈曲の影響で南北から北北東走向となって都城市南東方まで達する.日向層群は,宮崎県の四万十帯では最も幅広く分布する地層である. 日向層群と日南層群の境界断層の位置については,いくつかの考えが示されているが(坂井ほか,1987;木村ほか,1991;地質調査所,1992;斉藤ほか,1994など),ここでは,地層の分布状況から判断して,北郷町田代から,南東方へ,小松山付近,串間市大平にかけて分布する,赤・緑色珪質泥岩を伴う砂岩優勢層の南限とした.この断層は,「末吉」図幅地域では,斉藤ほか(1994)の大平衝上断層や,地質調査所(1992)に示されている境界とほぼ一致しているが,それ以外の地域では,大幅に異なっている.

 日向層群は,主として砂岩,泥岩,砂岩泥岩互層,乱雑層からなり,玄武岩質火山岩類,赤・緑色珪質泥岩,礫岩を伴う. 砂岩と砂岩泥岩互層はまとまって砂岩優勢層を作っており,衝上断層で挟まれた構造的なユニットとして産出している. 乱雑層を主とする地層, 泥岩を主とする地層なども,砂岩優勢層と同じように,構造的なユニットを作っており,北西傾斜の衝上断層で繰り返し分布している.なお,今井ほか(1979)により神門層とされた地層は,それよりも南の日向層群と岩質上区別ができないため,一括して日向層群の名称を用いる(坂井・勘米良,1981;遠藤,1981;木村ほか,1991;村田,1994a,1995).

 延岡市から東郷町珍神山,西米良村烏帽子岳にかけての砂岩優勢層(今井ほか,1979;遠藤,1980;寺岡ほか,1981b;足立ほか,1987,1988;木村ほか,1991)は分布幅が広く,山稜を形成していることが多い.また,国富町の釈迦ヶ岳から須木村内山にかけてや(木野・太田,1976),田野町南方鰐塚山から,南西方にかけても,砂岩優勢層が広く分布する(木野,1958;木野・太田,1977;竹下,1982;遠藤ほか,1989;村田,1992;遠藤,1993;斉藤ほか,1994).これ以外にも,日向北西方(野沢・木野,1956)や,西米良村,須木村などの広い範囲で,砂岩優勢層が分布している.砂岩は中粒~粗粒で厚く成層しており(第8図 42kb),比較的ソーティングがよい.この砂岩は,諸塚層群のものに比べて,石英粒子に富んだ石英長石質砂岩である(今井ほか,1979).礫岩は都城市南東方の「末吉」図幅地域内の砂岩優勢層に伴われ,こぶし大までの大きさの円摩された礫が多く,礫岩の基質は砂岩である.

 砂岩泥岩互層は,前述の砂岩優勢層に伴われるもの以外に,南郷村神門北方から牛山南方にかけてや,西米良村,須木村内にまとまって分布し,構造的なユニットを作って分布する.砂岩泥岩互層は,砂岩優勢なもの,砂岩泥岩等量互層,泥岩優勢なものなど,様々なものが存在するが,いずれもリズミカルな互層形態を持つものが多い.砂岩泥岩互層中の砂岩には,級化層理が明瞭に認められるものがある.

 泥岩は,西米良村,須木村,延岡市南西方,西郷村などで,構造的なユニットを作りながらまとまって分布する.泥岩は黒色で一部に砂質のラミナを伴う.また,泥岩は厚さ2,3cmの薄い細粒砂岩層を挟むことがあり,へき開が見られる場合でも層理面は明瞭に認められることが多い.西郷村付近のものは,少し片状になっている場合があるが,片状の程度は槙峰層に比べて弱い.また,神門の北方の泥岩には石英の細脈が層理面に平行に密集して入っていることが多く,槙峰層の泥岩とよく似た見かけを示すことがある.

 乱雑層は,砂岩とならんで日向層群内で分布範囲の広いもので,前述した延岡市から西米良村烏帽子岳まで延びる砂岩優勢層と延岡衝上断層に挟まれた範囲に広く分布する.また,乱雑層は,門川町および日向市付近,野尻町から都城市南東方にかけて幅広く分布する.乱雑層は泥質の基質中に様々な大きさの砂岩のブロックが含まれるものがほとんどで(第9図 56kb),含まれるブロックの量にも多いものから少ないものまでばらつきがある.露頭でブロックとして認定できる砂岩は,2~3cmから数mの大きさであり,その組成は日向層群内にまとまって産出する砂岩と同じである(今井ほか,1979).乱雑層の中には,本来の砂岩泥岩互層の形態を比較的とどめているものも多く認められる.乱雑層の中には, ブロックとして玄武岩質火山岩類や赤・緑色珪質泥岩が含まれることがある.泥質のマトリックス中には石英の細脈が多く認められる部分があり,特に延岡衝上断層付近で多くの石英細脈が認められる傾向があるが,必ずしも衝上断層に近づくほど多くなるというわけではない(村田,1996).
 赤・緑色珪質泥岩は,その名が示すとおり,赤色である部分と淡緑色である部分からなっており(第10図 36kb),通常の黒色の泥岩とは,その色によって明瞭に区別され,砂岩・泥岩・乱雑層を主とする日向層群内では非常によい鍵層となる.赤・緑色珪質泥岩は,赤色部と淡緑色部とが層理面に平行に互層状に産出したり,両者の境界が層理面に斜交して産出ことがある.赤・緑色珪質泥岩は,一般的に砂岩層などの粗粒砕屑粒子を含む層を挟むことはない.日向市北西方の仁久志山付近(第22図のLoc. 1,3)では,赤・緑色珪質泥岩に砂岩が伴われるが,これは層理面に斜交して貫入した砂岩岩脈であることが確かめられた(第11図 39kb). 岩脈を作る砂岩は,石英長石質なもので,砂岩卓越層中の砂岩と基本的に同じものである. 赤・緑色珪質泥岩は,後述のように(4-9),上限も下限も衝上断層で切られた薄い衝上シートとして産出する.
           
 玄武岩質火山岩類は,延岡から烏帽子岳に延びる砂岩優勢層と,延岡衝上断層に挟まれた地域に主に分布し,西郷村日陰山付近,増谷川,北郷村宇納間北方,南郷村阿切,西米良村石堂山付近に大規模な岩体として産出する(土谷,1979;今井ほか,1979).玄武岩質火山岩類は,主に枕状溶岩からなり(第12図 77kb),衝上シートとして分布する場合や,乱雑層の中のブロックとして産出する場合がある.また,玄武岩質火山岩類は, 赤・緑色珪質泥岩を密接に伴って分布する.

転載元: 地震・雷・火事・津波・高潮・親爺・事故・災難

[転載]上町断層(うえまちだんそう)は、大阪府を南北に貫く活断層である。日本の活断層の中では地震の発生確率が(相対的に)高いグループに属している。

$
0
0


上町断層

   
上町断層(うえまちだんそう)は、大阪府を南北に貫く活断層である。日本の活断層の中では地震の発生確率が(相対的に)高いグループに属している。

概要

生駒断層の分岐断層[1]であると考えられており、大阪府北部の豊中市から大阪市内の上町台地の西の端を通り、大阪府南部の岸和田市にまで続く。長さは約40キロメートルになる。断層の東側が西側に乗り上げることで、千里丘陵や上町台地を形作った。
一つの断層ではなく、大阪府北部の豊中市から吹田市までは佛念寺山断層(ぶつねんじやまだんそう)と呼ばれる。その南の大阪市内の上町断層の本体を経て、さらに南の長居断層(ながいだんそう)、大阪市を南にぬけて、和泉市岸和田市にかけての坂本断層(さかもとだんそう)、久米田池断層(くめだいけだんそう)と続く。このほかにも平行して、いくつかの派生した褶曲があり、すべてをあわせて上町断層帯とも呼ぶ。

最新活動時期

多くの調査が行われている[2][3][4]が活動間隔や活動歴に関し判っていない部分が多い。しかし、杉戸信彦ら(2015)は、堆積物の調査から断層主要部の最新活動時期は約2300年から2200年前頃と推定し、更に弥生時代中期末頃に発生したとされる河内湖沿岸の水没と離水に関与した可能性を指摘している[5]

地震活動による被害予想

標高が高い上町台地は断層の東側にあり、古くからの半島で地盤がしっかりしているため地震時の被害が少ないと言われている。
しかし、標高の低い周辺地域は近年の埋め立て地であることから地震時の液状化などが懸念されており、断層自体も吹田市の江坂大阪市の都心部・天王寺公園の真下など、都市の重要な施設や人口密集地を通っており、地震が発生すると大きな被害が予測されている。
2007年11月に発表された内閣府中央防災会議の報告ではM7.6を想定し、被害が最も大きい場合、死者4万2千人、負傷者22万人、帰宅困難者200万人、全壊棟数97万棟、避難者550万人、経済への被害74兆円と想定されている[6]。死者数においては、現在想定されている地震の中では最も高いものとなっている。ちなみに、大阪府自然災害総合防災対策検討委員会が2007年3月に発表した報告では、被害が最も大きい場合でも死者は約1万1千人とされた。




 地震調査研究推進本部トップ近畿地方>上町断層帯
上町断層帯
 上町(うえまち)断層帯は、大阪平野に位置する活断層帯です。
 上町断層帯は、大阪府豊中市から大阪市を経て岸和田市に至る断層帯です。全体として長さは約42kmで、ほぼ南北方向に延びており、断層帯の東側が西側に乗り上げる逆断層です。
○断層帯の過去・将来の活動  [上に戻る]
<過去の活動>
 上町断層帯の平均的な上下方向のずれの速度は、約0.4/千年であったと推定されます。最新活動時期は、約2万8千年前以後、約9千年前以前であった可能性があり、平均活動間隔は8千年程度であった可能性がある。
<将来の活動>
 上町断層帯では、断層帯全体が一つの区間として活動した場合、マグニチュード7.5程度の地震が発生すると推定されます。また、その時、断層近傍の地表面では東側が西側に対して相対的に3m程度高まる段差や撓みが生ずる可能性があります。本評価で得られた地震発生の長期確率には幅がありますが、その最大値をとると、本断層帯は、今後30年の間に地震が発生する可能性が、我が国の主な活断層の中では高いグループに属することになります。

 詳しい内容を知りたい方は、「上町断層帯の評価」( html版 / PDF版(6.4MB) )をご覧下さい。

○将来の地震発生の可能性  [上に戻る]
 地震の規模  : M7.5程度
 地震発生確率: 30年以内に、2%~3%  地震発生確率値の留意点
 地震後経過率: 1.1-2より大  地震後経過率とは?
 平均活動間隔: 8000年程度
 最新活動時期: 約28000年前-9000年前

 詳しい内容を知りたい方は、「上町断層帯の評価」( html版 / PDF版(6.4MB) )をご覧下さい。




上町断層帯における重点的調査観測
文部科学省では、「新たな活断層調査について」(地震調査研究推進本部,2009)の中で、地震後経過率の最大値が1.0を超え、断層が通過する市町村の総人口が概ね50万人を超える等、地震が発生した際の社会的影響が大きいとされた上町断層帯において、大学、関係行政機関および関係する独立行政法人に委託し、平成22年度から重点的な調査観測を実施しています。

 「今後の重点的な調査観測について」(地震調査研究推進本部,2005)の中で 、、長期的な地震発生時期及び地震規模の予測精度の向上、地殻活動の現状把握の高 度化、強震動の予測精度の向上の3点を目的として、相対的に強い揺れに見舞われ る可能性が高いと判断された地域の特定の活断層で発生する地震を対象とした重点 的調査観測体制の整備を行うべきとの考えに基づき、調査観測対象候補として6つ の断層帯が挙げられています。
 また、「新たな活断層調査について」(地震調査研究推進本部,2009)の中で 、地震後経過率の最大値が1.0を超えていること、断層が通過する市町村の総人口 が概ね50万人を超える等、地震が発生した際の社会的影響が大きい断層として選 定された上町断層帯について、大学、関係行政機関および関係する独立行政法人に 委託し、重点的な調査観測を実施しています。

  ○平成22年度

  ○平成23年度



災害想定(震度分布・液状化予測・津波浸水想定)について

[2015年4月1日]

●震度分布

 大阪市域並びにその周辺には連続して存在していると考えられる上町断層系(仏念寺山断層、上町断層、長居断層、桜川撓曲及び住之江撓曲)があり、震度[上町断層系]の図は、震源を上町断層の北部として、想定しうる最大級の地震動の大きさを分布図に表したものです。なお、大阪市域の地盤や上町断層系の位置や規模など不確実なことが多く、また、上町断層系の活動の仮定が異なれば、図の想定の数値や分布と多少異なったものとなります。
 その他の震度分布については、上町断層系以外の断層等で、本市に影響を与えると考えられる生駒断層系、有馬高槻構造線、中央構造線及び南海トラフの活動による地震を想定し、大阪市域における地震動の強さを予測したものです。
 震度分布の詳細は、地図情報サイト「マップナビおおさか」 “防災情報マップ”でご確認ください。
震度分布図

転載元: 地震・雷・火事・津波・高潮・親爺・事故・災難

[転載]ATC セミナー 災害廃棄物の現状と課題  2017年12月20日

$
0
0


セミナー情報
災害廃棄物の現状と課題
◆講演1:「大阪市災害廃棄物処理基本計画」について
 講師:大阪市環境局 総務部 総務課 課長代理 山下 朋広 氏...

◆講演2:災害廃棄物に関する環境省の取組
 講師:環境省大臣官房 廃棄物・リサイクル対策部 廃棄物対策課
 災害廃棄物対策室 係長 切川 卓也 氏

◆講演3:災害廃棄物仮置場管理等の課題
 講師:国立研究開発法人 国立環境研究所 資源循環・廃棄物研究センター
 循環利用・適正処理処分技術研究室 主任研究員 遠藤 和人 氏 
 
 地震や津波、洪水などに伴って発生する災害廃棄物は、倒壊・破損した建物などのがれきや木くず、コンクリートがら、金属くずなど、その内容は様々です。1995 年の阪神・淡路大震災では、800 万トンを超える災害廃棄物が発生しました。2011 年 3 月に発生した東日本大震災では、13 道県にわたって災害廃棄物及び津波堆積物 3120 万トンが発生したと推計されています。福島県を除く道県での処理は終了していますが、地震に伴う原子力発電所の事故による放射性物質により汚染された廃棄物もあり、福島県にういては、まだ、終了していません。

セミナーでは、東日本大震災で復旧・復興、支援統合管理システムを経験された株式会社奥村組 大塚義一氏に司会をして頂き、2017 年 3 月に策定された「大阪市災害廃棄物処理基本計画」について、大阪市環境局総務部総務課課長代理の山下朋広氏にご紹介していただいた後、「災害廃棄物に係る環境省の取組」について、環境省災害廃棄物対策室係長の切川卓也氏に、「災害廃棄物仮置き場管理等における課題」について、国立環境研究所資源循環・廃棄物研究センター主任研究員の遠藤和人氏に、ご紹介していただきます。是非、ご参加ください。

司会:株式会社奥村組 大塚義一氏

■日程:
 

2017年12月20日(水)13:30~16:30 

■受講料:
1,000円 (但し、行政担当者、おおさかATCグリーンエコプラザ出展企業、水・土壌汚染研究部会会員は無料)

■会場:
おおさかATCグリーンエコプラザ内 セミナールーム
■定員:
60名

■主 催:
おおさか ATC グリーンエコプラザ実行委員会(大阪市、アジア太平洋トレードセンター株式会社、日経新聞社)
おおさか ATC グリーンエコプラザビジネス交流会 水・土壌汚染研究部会
■お申し込み:
〒559-0034 大阪市住之江区南港北2丁目1-10 ATCビル ITM棟11F
おおさか ATC グリーンエコプラザビジネス交流会 水・土壌汚染研究部会 水・土壌セミナー係
TEL:06-6615-5887 FAX:06-6614-1801 E-mail:md@e-being.jp

以下はセミナーと直接関係がありません


イメージ

南海地震

   
南海地震(なんかいじしん)は、紀伊半島紀伊水道沖から四国南方沖を震源域とする巨大地震の呼称。南海トラフ西側でプレート間の断層滑りが発生する低角逆断層型の地震と考えられている[1]
狭義の南海地震は1946年昭和21年)に発生した昭和南海地震を指す名称である[2]が、広義には安政南海地震宝永地震(南海トラフのほぼ全域が震源域)など南海道沖を震源域とする歴史地震も含まれ、さらに将来、同震源域で起きると想定される地震も含めて南海地震と総称される。また、南海大地震(なんかいだいじしん)や南海道地震(なんかいどうじしん)と呼称される場合もある。

イメージ


  1. 684年11月26日11月29日)(天武13年10月14日白鳳地震(天武地震) - M8 14、死者多数。亥時(午後9時 - 11時頃)になって大地震があった。土佐で津波により大きな被害。伊予湯泉(道後温泉)は埋没して出なくなり、田園(約 12 km2)が海面下へ沈下。これは『日本書紀』の南海地震の最古の記録である。地質調査によれば、東海道沖の震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見される。
  2. 887年8月22日8月26日)(仁和3年7月30日仁和地震 - M 8.0 - 8.5五畿七道諸国、京都摂津を中心に死者多数。津波あり。地質調査によれば、東海道沖の地震震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見される。
  3. 1361年7月26日8月3日)(南朝正平16年6月24日北朝康安元年6月24日) 正平地震(康安地震) - M8 14 - 8.5、死者多数。摂津・阿波・土佐で津波により大きな被害。摂津四天王寺の金堂が転倒し圧死者が出た。津波で摂津・阿波・土佐に被害、特に阿波の雪(由岐)湊で流失1,700戸、流死60余。東海道沖の地震の発生は不明だが、同時期に東南海地震に相当する地震が発生したという説もある。東大地震研が調査した法隆寺の記録によると、淡路島の障壁にも関わらず、大阪市天王寺区でも海岸から4km以上に渡り津波が押し寄せたという[28][22]。さらには伊勢神宮古文書でも当時の記録が残されていることがわかっている[29][30]
  4. 1707年10月28日宝永4年10月4日宝永地震(南海トラフ全域が震源域とされる) - M 8.6、五畿七道諸国、東海地方から九州東部の広い範囲が激震域となる。この地震の49日後に富士山が噴火し宝永山(火口)ができる(宝永大噴火)。死者2万人余、倒壊家屋6万戸余。房総半島から九州まで大津波が襲来し、大坂、土佐の被害が甚大であり、青龍寺や久礼では標高25mの地点まで遡上した。道後温泉の湧出が145日間止まる。


イメージ
三重県尾鷲神社の由緒書き
1707年の宝永地震や1854年の安政南海地震の大津波で古文書がほとんど流されている。
  1. 1854年12月24日嘉永7年11月5日安政南海地震 - M 8.4、死者千 - 3千人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高 11 m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が106日間止まる。時間差でこの32時間前に安政東海地震(東海道沖の地震)が発生している。両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で2,979回記録された(『真覚寺日記』)。
  2. 1946年(昭和21年)12月21日昭和南海地震 - M 8.0、被害は中部以西の日本各地にわたり、死者1,330名、家屋全壊11,591戸、半壊23,487戸、流失1,451戸、焼失2,598戸。津波が静岡県より九州にいたる海岸に来襲し、高知・三重・徳島沿岸で 4 - 6 m に達した。室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、室戸で 1.27 m、潮岬で 0.7 m 上昇、須崎・甲浦で約 1 m 沈下。高知付近で田園15km2が海面下に没した。道後温泉の湧出が38日間止まる。山口県美祢市(旧美祢郡別府村 (山口県)共和村)では秋吉台麓の厚東川沿いの低地に「口径 1 - 11 m、深さ 1 - 5 m の堆積地ドリーネが150余発生した[31]」。この地震の2年前、1944年(昭和19年)12月7日には昭和東南海地震が発生している。

イメージ



南海トラフ(赤線)のうち、駿河トラフは黄線の部分


684年11月26日(11月29日)(天武13年) 白鳳地震(天武地震)(東海東南海南海連動?) M8 14
  • 山崩れ、家屋、社寺の倒壊多数[19]
  • 日本書紀』の土佐における地盤沈下や津波などの記録は南海地震を示唆するが、諸国で郡官舍及百姓倉屋、寺塔、神社が多数倒壊したとも記録され、地質調査によると、東海・東南海地震も同時期に発生したと考えられる[20]静岡市川合遺跡の7世紀後半の砂脈痕が東海地震震源域に相当する[21]
887年8月22日(8月26日)(仁和3年) 仁和地震東海東南海南海連動?) M8.0-8.5
  • 京都で民家、官舎の倒壊による圧死者多数。特に摂津での被害が大きかった。
  • 日本三代実録』にある畿内の甚大な被害記録は南海地震を示唆するが、五畿七道諸国大震とも記録され、地質調査によると、東海・東南海地震も同時期に発生したと考えられる。静岡県富士市浮島ヶ原低地における断層活動による水位上昇痕が相当する[22]
  • 八ヶ岳の山麓が崩壊し大月川に堰止め湖(河道閉塞)が形成された。堰止め湖は翌年6月に決壊し土石流を発生させ信濃の国千曲川流域に洪水を生じた痕跡が残っている[23][24][25]
1096年12月11日(12月17日)(嘉保3年) 永長地震東海東南海連動?) M8.0-8.5
  • 皇居の大極殿に被害があり、東大寺の巨鐘が落下、近江の勢田橋が落ちた。津波により駿河で民家、社寺400余が流失。畿内琵琶湖、および揖斐川付近の強震動および津や駿河の甚大な津波被害から東海・東南海連動地震と推定[6][26]
  • この地震の2年2ヶ月後に南海地震(康和地震)が発生した。
1498年9月11日(9月20日)(明応7年) 明応地震東海東南海連動?) M8.2-8.4
  • 紀伊から房総にかけてと甲斐に大きな揺れがあり、鎌倉高徳院の大仏殿が押し流され、浜名湖が海と繋がった。震害よりむしろ津波の被害が大きく、伊勢大湊で家屋1,000戸、溺死者5,000人。伊勢志摩で溺死者10,000人、『林叟院記録』・『志太郡誌』(静岡県)によれば溺死者26,000人などの被害。
  • 地質調査によれば、ほぼ同時期に南海地震も発生したと考えられている。1498年の日向灘地震がこれにあたるとの説もある。
1707年10月28日(宝永4年) 宝永地震東海東南海南海連動?) M8.6
  • 東海・東南海地震と南海地震が同時に発生したM8.4 - 8.6の地震とされてきた。この地震の49日後に富士山が噴火し、宝永山(火口)が造られた(宝永大噴火)。死者2万人余、倒壊家屋6万戸余、土佐を中心に大津波が襲った。
  • 安政東海地震と同様の駿河湾へ震源域が入り込む地震ではないとする見解もある[27][28][29]
1854年12月23日(嘉永7年) 安政東海地震東海東南海連動) M8.4
  • 震源域は駿河湾奥から陸域に達したと推定され、著しい激震域と富士川河口付近に地震山と称する断層が出現した[30]。死者2,000 - 3,000人余、倒壊及び焼失家屋3万戸余、津波多数発生。掛川城が倒壊。
  • 駿河湾周辺の地殻変動や、駿河湾内で海面が盛上がる津波の発生が目撃されていることから、駿河湾にも断層モデルが仮定されている[6][7][8]
  • この地震の32時間後に安政南海地震が発生した。

赤線南海トラフ。日向灘地震の震源域はその西端部分から西側の海域一帯である。


日向灘地震の位置(九州内)
1662年
1662年
1968年
1968年
日向灘地震
日向灘地震
日向灘地震
日向灘地震
17世紀以降に発生したM7.6前後の日向灘地震の震央をRed pog.svg、1923年以降に発生したM7.0-7.2の日向灘地震の震央をBlue pog.svgで示した。

M7.6前後のものは約200年間隔で発生すると推定され、17世紀以降は1662年 (M7.6)と1968年 (M7.5)の2回発生しており、2回とも津波を引き起こし人的被害を出している。また、M7.0 - 7.2程度のものは約20 - 27年間隔で発生すると推定され、1923年以降は1931年 (M7.1)、1941年 (M7.2)、1961年 (M7.0)の3回、ないし1984年 (M7.1)を含めて4回(1984年の地震は従来プレート間地震とされていたが、プレート内地震であり日向灘地震に含まれないという指摘もある。)発生しており、いずれも人的被害を出している[5]
2種類の地震を合わせると十数年から数十年に一度の割合で発生している。調査により判明している過去最大の地震は、1662年のM7.6の地震であり、日向灘の領域単独でM8以上となる巨大地震が発生した記録はない[6]。しかし、震源域が東に隣接する南海地震などと同時発生してM8以上の連動型巨大地震となったことがあるという見方もある。例えば、東海・東南海・南海連動型地震であった1707年宝永地震は日向灘地震とも連動した可能性が指摘されている。そして、将来もそのような連動型巨大地震が発生する恐れがある。



イメージ

イメージ



イメージ



イメージ

転載元: 持続可能な開発(水・土・廃棄物)


[転載]熊野古道 馬越峠を行く Vol.5 「尾鷲神社・周囲10mの巨大な楠」

$
0
0
10月1日土曜日の馬越峠散策の最終回です。
 
熊野古道を馬越峠コースを海山方面から尾鷲まで歩いてきました。

馬越の津波供養塔を過ぎると、建物が密集してきました。

イメージ
 
道端の古い石碑に「くまのみち」と書かれていますね。
 
イメージ
 
道路の高架下を潜りましたが、そこにこんなポスターが・・・
 
イメージ
 
少し調べてみました。
 
世界遺産「熊野古道」をはじめ、尾鷲市の歴史と自然の恵みが満喫できる日本ウォーキング協会公認の歴史と癒しのコースを行くウォーキング大会らしいです。
  
熊野古道馬越峠コース・八鬼山峠や尾鷲湾を一望できる天満浦のみかん畑のコース等、多様なコースから選べるそうです。
 
数多くの特典やコース途中でのおもてなしがあり、一日参加も、二日参加もOKのようです。
 
イメージ
 
県道778号線まで出てきました。
尾鷲から馬越峠に行くときの入り口のようですね。
ポランティアのお嬢さんが地図を見ながら会話中。
 
イメージ
 
ここから、熊野古道を外れて、県道778号線を西に進みます。
 
イメージ
 
立派な山門の金剛寺がありました。
 
イメージ
 
目的地の尾鷲神社はその隣になります。
 
イメージ
 
木の鳥居が尾鷲らしいと思いました。
 
イメージ
 
尾鷲神社の由緒が書かれていましたよ。
 
イメージ
  
熊野古道とも関係が深いようですね。 
 
イメージ
 
干してある藁は、神事に使うのでしょうね。
 
イメージ
 
手水舎で体を清めましょう。
 
イメージ
 
作法が額に掲げられていますが、イメージがつかみづらいですね。
でも、安心してください。
 
イメージ
 
可愛い巫女さんのイラスト付きで書かれた立て札もありますから。
 
イメージ
 
順番は、「左手・右手・左手で受けて口・口をゆすいだ左手・ひしゃくの柄」ですね。
 
イメージ
 
尾鷲神社境内には、2本の巨大な楠があります。
 
イメージ


なんと、木の周囲は、10mと9m、樹齢は1.000年以上だそうですよ。

大きいです、木から離れて撮らないと全体が写りません。

イメージ
 
二本の木にはしめ縄がかけられていて・・・
 
イメージ
 
小さな鳥居の右横には、夫婦楠と書かれていました。
 
イメージ
 
左側の立て札には、御神木の効能書きが・・・・
「良縁・子宝伝承」
 
イメージ
 
根のあたりは一つに繋がっているようです。
 
イメージ
 
日本一降雨量の多い尾鷲の雨で、千年以上もかけて、すくすくと育ってきたのですね。
 
イメージ
 
本殿へお参りしましょう。
 
イメージ
  
靴を脱いでお上がりくださいと書いてありますが、
体中汗まみれなので、恐れ多くて上がることは出来ませんでした。
  
イメージ
 
外からの参拝をお許しください。
 
イメージ
 
顔出しパネルもありますよ。
ヤーヤ祭のヤーヤ衆のパネルですが、
ヤーヤ祭は、尾鷲で2月1日から5日まで行われる奇祭だそうです。
かなり激しいお祭りのようですね。
 
イメージ
 
尾鷲神社を後にして、街まで戻りましょう。

川には、アオサギがいましたが、作り物のようにじっとしています。
魚が来るのを待っているのでしょうか。
 
イメージ
 
馬越峠の方を見やると・・・・もやがかかっていますね。
雨が降り出したのでしょうか。
 
イメージ
 
銭湯を見つけました。
 
イメージ
 
煙突から煙が出ていたし、暖簾もかかっていますね。
お風呂に入りたいのですが、着替えを持っていません。
 
イメージ
 
尾鷲のイオンまで行って、着替えを買うことにしましょうか。

「熊野古道 馬越峠を行く」は、これでおしまいです。

とりとめの無いブログにお付き合いいただきありがとうございました。

次の熊野古道の散策は、どのコースにしようかな~
 



転載元: 「コッツプレイス」 の ブログ

Viewing all 356 articles
Browse latest View live