<お詫び:作成途中でアップしてしまいました。それをご覧いただいた方には大変失礼しました)
今回の記事については、以前お伝えした、「史跡・都市を巡るトルコの歴史」(野中恵子著、ベレ出版)と、「谷間の岩窟教会群が彩るカッパドキア」(萩野矢慶著、東方出版)を参考にさせていただいた。
トルコの学生は大変だ。とても複雑で、自分の国の歴史をマスターするのはとても苦労すると思う。
陸続きでしかも、ヨーロッパとアジア、キリスト教とイスラム教、多民族の葛藤は、戦乱の歴史を必然とする。それに比べ、極東の島国である日本はずっと幸せだった。
●モンゴル帝国侵略
例えば、最盛期には人類史上最大の領土(図)を抱えたモンゴル帝国の侵略に対しても、日本とトルコは明暗が分かれた。
日本は鎌倉時代中期に、「元寇」とか「蒙古襲来」と呼ばれる、日本の、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本本土侵攻があったが、海を隔てた島国という条件と、台風という日本にとっての神風が吹き、彼らの侵略を免れることが出来た。(画像)
1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)といい、主に九州北部が戦場となった。特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であったという。
一方、1241年にモンゴル帝国軍がカイホスロー2世のルーム・セルジューク朝に侵攻し、1243年のキョセ・ダグの戦い(画像)で、バイジュ・ノヤン率いるモンゴル軍に降伏した。
モンゴル軍によるアナトリア遠征は(おそらくは略奪を目的として)バイジュの独断で行われたものであり、戦後すぐにモンゴル軍がアナトリアに駐屯することは無かったが、モンゴルに臣従を誓ったルーム・セルジュークには毎年のモンゴルへの貢納が課せられた。
1260年にフレグが(1265年、47歳で没、写真)がイル=ハン国(フレグ・ウルス)を樹立。
セルジューク朝はペルシャからアナトリアに中心を移したが、ベイリク(君侯国)が乱立し、その混乱はオスマン朝による統一(コンスタンティノープルの陥落)まで200年間ほど続いたという。(Wikipedia参照)
●カッパドキアとは
カッパドキア(下図)は、トルコの国土の96%を占めるアナトリア半島のちょうど中央にあり、平均海抜1,200mの高地に広がる世界に類を見ない特異の地勢と地形の台地である。
ギョメと呼ばれるキノコ状の奇岩(写真左)は、「妖精の煙突」といわれ、傘の部分の正体は、後から溶岩が流れて固まった硬い玄武岩の層。下の疑灰岩の方が軟らかいため、先に浸食が進み、こんな形が残った。さらに硬い花崗岩は、高さ100mもの険しい壁になり、せせらぎの流れるウフララ渓谷(写真右)を作っている。
カッパドキア地方の西部は平原と高原だが、東部は大陸に食い込んだ山岳地帯が主で、シリア国境に平原がある。
カッパドキアの少し背後で、アナトリアをほぼ東西に分かつ山の盾が出来ていて、東側はさらにチグリス・ユーフラテス河の上流が蛇行しながら南へと流れ、東西の両側それぞれにとって二重の濠の役目を果たしている。
それで、東から西を目指す者、西から東を目指す者のどちらも向こう側にたどり着くのには、山河を合わせて三重の障害ラインを越えなければならなかった。(下図)
このため、アナトリアの内部には自ずと東西の両半分のそれぞれを代表する勢力が現れた。
これが、様々な文明、国家、文化、信仰、民族などが、アナトリアのこの中間ラインで概ね東西に分かれていた背景である。
具体的には、古代ではギリシャ文化圏とウラルトゥ(アルメニアの母体)文化圏、ローマ帝国とペルシャ帝国。中世ではキリスト教の信条であるカルケドン派と、非カルケドン派、キリスト教の守りとイスラム教の攻め。現代ではトルコ人とクルド人だ。
カッパドキアの名前の語源は、「美しい馬のくに(カパトゥカ)」だそうだ。カッパドキア地方に多くの国の軍隊が侵略を重ねた、要衝性を物語る言葉だといえよう。
●カッパドキアの興亡
トルコの歴史は以下の年表で表わされる。(トルコ歴史まるわかりガイド 参照)
カッパドキアは、その東にあり、トルコ富士と呼ばれるエルジュス山(3,916m、写真)や、ハサン山の(3,268m)の100万年に渡る噴火活動の繰り返しと、後の浸食作用の繰り返しによる崩壊期との二つの違った力が噛み合い、超自然的な台地が誕生した。
カッパドキアが世に知られたのは、1958年で、格段古い話ではない。
しかし、その歴史は太古に遡る。B.C7,000年からB.C6,000年ごろの新石器時代にカッパドキア周辺で人々が生活していた痕跡が発見された。
新石器時代から始まり、ヒッタイト、ペルシャ、ヘレニズム、ローマ、ビザンチン帝国、セルジュク・トルコ、オスマン帝国時代へと興亡の歴史が続く。
特に、カッパドキア史を彩るにふさわしい時代は、4世紀前後からで、キリスト教の修道士たちが、谷間の洞穴に生活を始めたことによる。
8世紀になると、キリスト教徒たちは、イスラムの旗を掲げて進攻するアラブ人から逃れるため、地下都市や岩窟の中に避難所として隠れ住んだ。
シリア人、アルメニア人はイスラム教徒のアラブ軍の到来を歓迎し、東アナトリアは早々とその影響下に入った。さらにアラブ軍は、アナトリアを西進する気配を見せている。
アナトリアでは、古来、概ねカッパドキア地方を境にして東にシリア人とアルメニア人、西にギリシア人が住んでいたから、キリスト教の異端と正当の分布もここで東西に分かれる。
ギョレメには約30の岩窟教会があり、カッパドキアで確認されたものだけで36の地下都市が存在する。
中でも、1965年に発見されたカイマクル地下都市(写真)は、地下8階、深さ65mに及び、家畜部屋、地下1階のワイン製造所や地下2階の食堂といった部屋もある。そして、最下層の空間は十字の形に掘られた教会があり、この地下都市には1万5,000人が暮らしていたという。
ところが、今は一人の修道士はおろか、一人のキリスト教徒もカッパドキアはいない。オスマン帝国終焉(1922年)後、翌年のトルコ共和国宣言の前準備として、突然みんな隣国ギリシアに行かされたのだ。
ギリシアでもイスラム教徒が故郷を追われ、トルコを新しい祖国にさせられた。二国間の政治協定で、宗教別に人口を入れ替える「住民交換」が行われたのだ。
カッパドキアで最大のキリスト教徒の村だったのがシナソスだ。
教会は門を閉じたままで、彼らが残した家々は、博物館となった岩窟教会(写真)とともに、イスラム教徒が守っている。
トルコ映画「雪の轍(わだち)」(Winter Sleep) (2014年)
「雪の轍」(Winter Sleep)はトルコの映画監督・ヌリ・ビルゲ・ジェイランが2014年に制作した映画。
アントン・チェーホフの短編小説「妻」(The Wife、1892年)にヒントを得て、夫婦の葛藤をカッパドキアの町を背景にドラマ風に描いている。2014年の第67回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞(グランプリ)を受けた。