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[転載]壱岐に行きましょう 歴史を学ぼう 元寇まで

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壱岐の歴史情報

壱岐(1)/古代ロマンあふれる歴史と文化(長崎県観光)




             

旧石器時代後期~終末期 カラカミ遺跡〔勝本町〕から、この頃に使われたナイフ形石器や台形状石器が見つかる
旧石器時代後期~終末期 原の辻遺跡〔芦辺町・石田町〕から、この頃に使われたナイフ形石器や台形状石器が見つかる
旧石器時代後期~終末期 原の辻遺跡から この頃に生きていた ナウマン象やオオツノジカの化石が見つかる


縄文時代前期~晩期 名切遺跡〔郷ノ浦町〕にドングリを貯蔵する穴が造られる
縄文時代早期~後期 松崎遺跡〔勝本町〕から、この頃に使われていた縄文土器や石器が見つかる
縄文時代前期~後期 鎌崎遺跡〔郷ノ浦町〕から、この頃に使われていた縄文土器や石器が見つかる


弥生時代前期末 原の辻遺跡の丘陵部に集落が形成される
弥生時代前期末 カラカミ遺跡に集落が形成される


弥生時代中期前葉 原の辻遺跡のある丘陵部のまわりに環濠が掘られ、船着き場が完成する
弥生時代中期初頭 車出遺跡群〔郷ノ浦町〕に集落が形成される
弥生時代中期前葉 原の辻遺跡でシカ・イノシシの肩甲骨を使ったト骨が行われる


弥生時代後期 カラカミ遺跡でシカ・イノシシの肩甲骨を使ったト骨が行われる
弥生時代後期 原の辻遺跡が「一支国」の中心集落〔海の王都〕として栄える
弥生時代後期前葉 原の辻遺跡の低地にある居住地が丘陵部に集中する 船着き場が埋まり、環濠が再掘削される
弥生時代後期 天ヶ原セジョウ神遺跡〔勝本町〕に、中広形銅矛3本が埋納される
弥生時代後期 『魏志』倭人伝に「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大国官又曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三


千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」の57文字で一支国の様子が記載されている

古墳時代前期 4世紀中頃、原の辻遺跡にあった環濠集落が解体される
古墳時代前期 大久保遺跡〔石田町〕から、この頃に造られた積石の石棺墓が見つかる
古墳時代前期 片苗イシロ遺跡〔勝本町〕から、5世紀前半頃の住居跡が見つかる


古墳時代中期 5世紀後半頃、大塚山古墳〔芦辺町〕に竪穴系横口式石室の小型円墳が築造される
古墳時代中期 6世紀前半頃、妙泉寺古墳〔芦辺町〕に円墳が築造される


古墳時代後期 6世紀後半頃、松尾古墳〔郷ノ浦町〕に円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀後半頃から、百田頭古墳群・山の神古墳群・釜蓋古墳群〔芦辺町〕に円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀後半頃、双六古墳〔勝本町〕に全長約91mの前方後円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀後半頃、笹塚古墳や掛木古墳〔勝本町〕、兵瀬古墳や鬼の窟古墳〔芦辺町〕に横穴式石室の大型円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀中頃、対馬塚古墳〔勝本町〕に全長約63mの前方後円墳が築造される
古墳時代後期 この頃から、椿遺跡〔石田町〕に拠点が形成される
古墳時代後期 この頃から、串山ミルメ浦遺跡〔勝本町〕に集落が形成される
古墳時代後期 7世紀後半頃、鬼屋窪古墳〔郷ノ浦町〕に捕鯨を線刻した画が描かれた円墳が築造される
古墳時代後期 7世紀頃から、浜田遺跡〔石田町〕で製塩作業が行われる
古墳時代後期 7世紀頃から、中尾遺跡〔石田町〕で製鉄作業が行われる




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487年 月読神社(芦辺町)に天月神命を祀り、高御祖神社には天月神命の祖高産霊尊を祀る【神社考】
527年 押見宿禰が月読神社を祀る【顕宗天皇紀】
541年 伊吉公乙等を筑紫伊覩県に遣わし神石を求め、のちに山城国月読神社に奉納する



632年 犬上御田鍬帰朝の記事中に伊岐史乙等の名有り
642年 新羅吊使船と賀騰極船が壱岐に泊る【日本書紀】
659年 第四次遣唐使を派遣するが、唐は戦争準備のため派遣使を長安に幽閉する 壱岐出身の伊吉博徳がこの間の記録を残す【日本書紀】
664年 対馬・壱岐・築紫等に防人・烽を置き、大宰府防衛のため水城を築く【日本書紀】


700年 伊吉博徳が大宝律令の編纂に参与し、功績が認められ賜禄される【続日本紀】
706(慶雲3)年 九国三島の干害と風害に対し、使を遣わして調査し、被害の大きい所は調と課役を免じる【続日本紀】
717(養老1)年 勅命により聖母宮〔勝本浦〕を建立する【壱岐神社誌】
718(養老2)年 神岳三所権現〔新城西触〕を鎮座する【神岳三所大権現縁起】
718(養老2)年 壱岐と対馬を下国と規定する【養老令】
720(養老4)年 異族、数万艘の軍船で壱岐に襲来すると必ず北風が吹く これを“聖母の北風”という【聖母社記】
724(神亀1)年 聖母宮を再興し、ト部高巣が奉る【聖母社記】
729(天平1)年 壱岐郡と石田郡の郡境を定める

729(天平1)年 行基が刈田院覚音寺〔立石西触〕を開く
730(天平2)年 壱岐守板氏安麻呂と壱岐目村氏彼方が、大宰府帥老宅で九州全国官人の宴に出席する【万葉集】
731(天平3)年 壱岐・対馬に初めて医師を任命する【続日本紀】
736(天平8)年 雪連宅満が遣新羅使の一行に加わり新羅に向かうも壱岐で病死 のちに壱岐の石田野に埋葬される【万葉集】
737(天平9)年 筑紫配備の防人を本国に帰し、筑紫の人に壱岐・対馬を守らせる【続日本書紀】



741(天平13)年 壱岐・対馬に国分寺〔島分寺〕の建立が命ぜられる
742(天平14)年 壱岐島や対馬島の官人の禄は筑前国司に命じて、廃府の物の中から支給される
744(天平16)年 壱岐にも国分寺〔島分寺〕の設置が決まる【続日本紀】
744(天平16) 壱岐は国分寺を新たに建立せず、壱岐直の氏寺を壱岐国分寺〔壱岐嶋分寺〕と改める【類聚三代格】







759(天平宝字3)年 大宰府や壱岐などに軍船100を置く事を上申するものの実現せず【続日本紀】
763(天平宝字7)年 壱岐島が疫病に見舞われる【続日本紀】
765(天平神護1)年 石見・美作・紀伊・讃岐・淡路・壱岐・多褹の7国が飢饉に見舞われる【続日本紀】
768(神護景雲2)年 壱岐島が飢饉に見舞われる【続日本紀】
769(神護景雲3)年 外従五位下田部直息麻呂を壱岐島守に任命する【続日本紀】
771(宝亀2)年 日向・大隅・薩摩三国、壱岐・多褹両島の博士・医師は、終身の任を改めて八年交替とする【続日本紀】
772(宝亀3)年 貞婦玉主売の功績が称えられ「勅賜爵二級」を与え、田租を終身免ずる【続日本紀】
773(宝亀4)年 壱岐島天位ト部道作・和気清麻呂が宇佐八幡宮に於いて神意を問うにあたり、ト占の任を果たす【宇佐託宣集】
776(宝亀7)年 壱岐島に大風が吹き、苗を失ったため、今年の税を免じる【続日本紀】
787(延暦6)年 ト部道作、聖母神社(勝本浦)に奉仕する【聖母社記】
787(延暦6)年 月読神社(芦辺町)鎮座【月読神社記】
788(延暦7)年 壱岐島5社〔本宮・箱崎・筒城・印鑰・聖母〕を定める【壱岐神社誌】
795(延暦14)年 対馬・壱岐を除き、防人を廃止する




804(延暦23)年 壱岐島の防人に筑前の穀米を送る【日本後紀】
804(延暦23)年 壱岐島に配した大宰府管内6国の防人20人を廃止する 壱岐島の兵士300人を分番配置する【日本後紀】
782~806年〔延暦年間〕 桓武天皇の命により兵主神社〔芦辺町〕を建立する【壱岐国神名記】
806(大同1)年 壱岐が水害と疫病に見舞われたため、1年間、税を免除される【類聚国史】
815(弘仁6)年 壱岐島医師に大初位下蕨野勝真吉の名有り【続日本後紀】
816(弘仁7)年 異賊襲来に備え、壱岐島内の2か所の関を置き、14ヵ所の要害を構える【日本後紀】
828(天長5)年 壱岐直方磨を壱岐国造に任命する
835(承和2)年 新羅人の来航に備え、壱岐島内を防人330人に守らせる【続日本後紀】
837(承和4)年 第17回の遣唐使船が逆風に遭い遭難する 第1船と第4船は壱岐に、第2船は値嘉島に漂着する【続日本後紀】
838(承和5)年 新羅商人の往来に備え、壱岐島に弩師を置く 壱岐島内には弩100脚有り【類聚三代格】
844(承和11)年 諸国の例に準じ薩摩・大隅・壱岐諸国に講師を置く【続日本後紀】
845(承和12)年 日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬諸国の博士・医師の任期を6年とし、内位に叙する【続日本後紀】
851(仁寿元)年 この頃、壱岐の人口10,600人、対馬7,400人と記されている【類聚三代格】
856(斉衡3)年  ト部雄貞が「ト部」を改めて「占部宿禰」を賜う【壱岐神社誌】
859年 海神社〔勝本町〕を従五位にする【日本三大実録】
863(貞観5)年 石田郡の占部是雄と占部業孝に「壱岐宿祢」の姓を授ける【日本三代実録】
866(貞観8)年 伴秋実、応天門の変により壱岐に流罪となる【日本三代実録】
869(貞観11)年 伊岐宿禰是雄を「丹波権椽」に任命する【壱岐神社誌】
870(貞観12)年 壱岐島に武具〔冑・手纒各200〕を送る【日本三代実録】
870(貞観12)年 筑前・肥前・壱岐・対馬などの国に対し、外敵に備えさせる【日本三代実録】
871(貞観13)年 壱岐島に冑などの武具400具備える
872(貞観14)年 従五位下宮主伊伎宿袮是雄が没する〔享年54歳〕【日本三代実録】
876(貞観18)年 壱岐の水田616町有り これは『倭名抄』の620町におおむね一致する【日本三代実録】
880(元慶4)年 伴秋実、恩赦により放免となる【日本三代実録】
883(元慶7)年 朝廷は周防国司に命じて、再び伴秋実を壱岐へ配流する【日本三代実録】
894(寛平6)年 新羅の賊が壱岐を襲い、官舎などを焼き払う
895(寛平7)年 大宰府に新羅の賊が壱岐島に襲来したことを報告する【日本紀略】


906(延喜6)年 豊前国宇佐郡より異国降伏国家擁護の神を白沙八幡に移す
927(延長5)年 『延喜式』神名帳に壱岐島内に24座(大7、小17)有りと記されている
935(承平5)年 壱岐の戸数2,070戸、人口10,350人、と記載有り【倭名類聚抄】
997(長徳3)年 南蛮人〔奄美人〕が、壱岐・対馬を襲う【小右記】










1019(寛仁3)年 刀伊人が壱岐を襲来する 壱岐守藤原理忠が応戦するも戦死する
1046(永承1)年 安国寺大般若経に高麗国金海府許珍寿の墨書施入銘有り
1071(延久3)年 鉢形山出土の石造如来形坐像の背文に「延久3年」と国司正六位佐伯良孝の名有り
1099(康和1)年 盛林和尚が普陀山須仙庵〔坂本触、仙南寺〕を開く【壱岐国続風土記】


1266(文永3)年 壱岐の白沙八幡宮の大宮司源季重家職継承が鎮西守護所へ見参料として牛一頭を進上する【壱岐史拾遺】
1267(文永4)年 観世音寺〔立石南触〕に至元四年銘の銅造双龍文鏡(円錐紐)有り
1271(文永8)年 箱崎暦応寺〔芦辺町〕を開く【壱岐国続風土記】
1274(文永11)年 元軍、壱岐勝本付近に上陸する〔文永の役〕
1274(文永11)年 守護代平景隆が100余騎で応戦するも、樋詰城で戦死する





1281(弘安4)年 元軍、再び壱岐を襲来する 瀬戸浦付近に上陸する〔弘安の役〕
1281(弘安4)年 瀬戸浦の海戦で、守護代少弐資時が戦死する






1293(永仁1)年 唐津岸岳城主の波多宗無、亀丘城〔郷ノ浦町〕を築城する【三考譜録考鑑】
1294(永仁2)年 異国警護のため壱岐・大島・鷹島などに烽火を設置する







海とみどり、歴史を活かす癒しのしま、壱岐





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http://www.iki-haku.jp/schedule/img/c02.gif
〒811-5322
長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触(つるきふれ)515番地1
TEL:0920-45-2731 FAX:0920-45-2749



転載元: 海洋文化交流/貿易振興


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