原の辻遺跡(はるのつじいせき)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触、および同市石田町石田西触にかけて存在する遺跡。2000年(平成12年)には国の特別史跡に指定され、2013年には出土品1670点が国の重要文化財に指定されている。
1993年(平成5年)の大規模な調査で三重の濠を巡らせた大規模な環濠集落、祭祀建物跡が検出された。また、壕の外西北では日本最古の船着き場の跡も発掘された。原の辻の中心部分に当たる。 環濠集落の規模は東西約350メートル、南北約750メートルである。この東側に、魏志倭人伝に出てくる卑狗と卑奴母離などの役人の家や役所があったと想像される。壕の外の北、東、東南には墓地が見つかっている。また、遺跡全体の総面積は100ヘクタールにも及ぶ広大なものである[1]。
出土物に大陸系の品が多く、中国鏡、戦国式銅剣、貸泉などの中国の銭貨、トンボ玉、鋳造製品、無文土器、三韓系土器、楽浪系の土器など。後期にはこれらの量が増加した。
また、弥生時代中期の竪穴住居址から炭化した米、麦が出土している。島の河川流域の低地に水田が広がり、水稲農耕が行われていた。対馬に比較して水稲農耕が広く行われていた。島には貝塚もあり、狩猟獣であるシカ・イノシシのほか、家畜であるウマをはじめ獣骨や魚骨が出土している。
石器では石斧・片刃石斧・石包丁に一部鉄器を交えるが、後期になうと石器はほとんど姿を消し、手斧・鎌・刀子など鉄器が豊富になる。なかには鉄器の原材料と想定できる板状のものがあり、これからさまざまな鉄器を造り出した。壱岐島の鉄器は舶載品であると考えられている。
串山ミルメ浦遺跡 | 貝塚・遺物包含地 | 縄文時代~古代 | 壱岐市 |
天ケ原遺跡 | 祭祀跡・遺物包含地 | 弥生時代、古墳時代 | 壱岐市 |
遺跡名 | 天ケ原遺跡(あまがはらいせき) | ||
所在地 | 壱岐市勝本町東触字菖蒲坂 | ||
緯度 | 北緯33°51′21″ | 経度 | 東経129°42′30″ |
標高 | 5m | 地形 | 砂丘 |
種別 | 祭祀跡・遺物包含地 | 時代 | 弥生時代、古墳時代 |
資料所在地 | 壱岐市教育委員会 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 『串山ミルメ浦遺跡』勝本町文化財調査報告書第4集 1985 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は、壱岐の最北端に位置し、天ケ原から小串へと伸びる砂州上にあり、北東側は外海に接している。遺跡内の道路工事および護岸工事の際に、朝鮮半島系の無文土器、古墳時代~奈良時代の土師器・須恵器などが出土している。また、昭和36年(1961)には、海岸の波打際にあったセジョウ神と呼ばれていた石祠の地下80cmほど下から、中広銅矛3本が出土している。この遺構は、青銅器の埋納遺構と考えられ、壱岐の最北端に位置することから、異国から招来する悪霊や疫病等対しての境界祭祀の可能性をもっている。壱岐では、銅矛は天ケ原遺跡の3本と原の辻遺跡の2本、熊野神宮に伝世する1本の合計6本が知られるに過ぎないが、対馬では100本を超える数の銅矛が出土しており、航海安全を祈る祭祀にも使われたことが推測されている。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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松崎遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代 | 壱岐市 |
カラカミ遺跡 | 遺物包含地・貝塚 | 旧石器時代、弥生時代 | 壱岐市 |
遺跡名 | カラカミ遺跡(からかみいせき) | ||
所在地 | 壱岐市勝本町立石東触字カラカミ、国柳、川久保 | ||
緯度 | 北緯33°47′28″ | 経度 | 東経129°41′48″ |
標高 | 80m | 地形 | 丘陵 |
種別 | 遺物包含地・貝塚 | 時代 | 旧石器時代、弥生時代 |
資料所在地 | 壱岐市教育委員会 | 指定状況 | 市指定 |
参考文献等 | 『カラカミ遺跡』勝本町文化財調査報告書第3集 1985、同6集 1988 『地域拠点遺跡内容確認発掘調査報告書2』長崎県文化財調査報告書第185集 2005 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は、壱岐島の中央よりやや西側に位置し、刈田院川上流の標高80mほどの丘陵に立地する。大正8・9(1919・20)年頃に発見され、昭和初期に在地の研究者松本友雄によって中央学会に紹介された。昭和27(1952)年には東亜考古学会、昭和52(1977)年には九州大学、昭和57~59(1982~84)、62(1987)年には勝本町教育委員会が主体となり、発掘調査が実施され、鯨骨や獣骨製、石製の漁労関係遺物、楽浪土器や三韓土器などの大陸から舶載された土器、後漢鏡片などの青銅器、鉄器、占いの卜骨などが出土し、原の辻遺跡に比較すると農耕的な要素が乏しく、漁労や交易(南北市糴)に従事した集団の基地的な集落跡であったことが推測される。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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対馬塚古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
双六古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
笹塚古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
掛木古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
石路遺跡 | 集落跡 | 弥生時代・古墳時代 | 壱岐市 |
遺跡名 | 石路遺跡(いしろいせき) | ||
所在地 | 壱岐市勝本町立石西触字樽見 | ||
緯度 | 北緯33°47′57″ | 経度 | 東経129°40′42″ |
標高 | 50m | 地形 | 丘陵 |
種別 | 集落跡 | 時代 | 弥生時代・古墳時代 |
資料所在地 | 壱岐市教育委員会 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 『片苗イシロ遺跡』勝本町文化財調査報告書第5集 1987 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は壱岐島の西岸、勝本町と郷ノ浦町との境界に近い湯ノ本湾の支湾の一つで、片苗湾に面した丘陵部に位置する。遺跡は、地元研究者の松本友雄によって大正末年から昭和初年に発見された。1986年には、個人の畑地基盤整備に伴って勝本町教育委員会が発掘調査を行い、古墳時代初頭の竪穴住居跡1軒、石囲墓4基、多数の柱穴跡が確認されている。この片苗湾東岸の丘陵は、中世に「片苗千軒」と称され、多くの人が住みつき栄えていたといわれており、弥生時代から引き続いて生活が営まれた海民集落であったことが考えられる。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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勝本城跡 | 城館跡 | 中世(近世初期) | 壱岐市 |
百合畑古墳群 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
鬼屋窪古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
大原天神の森古墳群 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
松尾古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
鎌崎遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代 | 壱岐市 |
名切遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代 | 壱岐市 |
亀丘城跡 | 城館跡 | 中世、近世 | 壱岐市 |
車出遺跡 | 遺物包含地 | 弥生時代 | 壱岐市 |
大米古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
大宝遺跡 | 遺物包含地 | 旧石器時代、古代、中世 | 壱岐市 |
遺跡名 | 大宝遺跡(たいほういせき) | ||
所在地 | 壱岐市郷ノ浦町志原南触字大宝 | ||
緯度 | 北緯33°44′43″ | 経度 | 東経129°43′14″ |
標高 | 54m | 地形 | 丘陵 |
種別 | 遺物包含地 | 時代 | 旧石器時代、古代、中世 |
資料所在地 | 原の辻遺跡調査事務所 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 『大宝遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書第14集 1999 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
本遺跡は、壱岐島南部の内陸にあり、谷底平野の谷頭の標高54mの丘陵に立地している。県営ほ場整備事業に伴って、平成10年度(1998)に発掘調査が実施され、古代から中世にかけての遺構・遺物が出土した。遺構では、掘立柱建物4棟、溝4条、柱跡群などが検出された。遺物では、奈良時代8世紀~9世紀の須恵器・土師器、9世紀~13世紀代の中国製青磁・白磁、新羅土器、国産の緑釉陶器、瓦質土器、玄界灘式製塩土器、滑石製石鍋、鞴の羽口、鉄滓などが出土している。遺構や遺物の出土状況から判断すれば、官衙的な施設というよりも地元有力者の居館的な様相をもっていることが推測される。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鬼の窟古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
兵瀬古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
壱岐嶋分寺跡 | 社寺跡 | 古代 | 壱岐市 |