壱岐の歴史
対馬とともに、古くから朝鮮半島と九州を結ぶ海上交通の中継点となっている。なお、15世紀の朝鮮王朝との通交を記述した『海東諸国紀』(ヘドンチェグッキ)[5]にも、壱岐島や対馬島についての記事がみられる。
原始・古代
縄文時代
縄文時代の遺跡としては、後期と推定される郷ノ浦町片原触吉ヶ崎遺跡がある。弥生時代には、ほぼ全島に人々が住んだと思われる。中でも河川流域に遺跡が濃密に分布している。下流域の原の辻やミヤクリ、上流域の柳田田原地域の物部、戸田遺跡などは、その域内も広く遺物も豊富である[6]。
弥生時代
中国の史書である『三国志』魏書の魏書東夷伝倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』においては、邪馬台国の支配のもと、「一大國」が存在したと記されている。『魏略』の逸文、『梁書』、『隋書』では一支國が存在したと記されている。1993年12月に長崎県教育委員会が島内にある原の辻遺跡を一支国の中心集落と発表し、話題となった。魏書の魏書東夷伝倭人条では「有三千許家(三千ばかりの家有り)」とあり、1家5人と仮定しても当時すでに15,000人もの人口が存在していたこととなり、当時の日本の中では人口が多い地域だった(2012年12月1日時点での壱岐市の推計人口は、28,290人である)。
古墳時代
河川の流域や島の中部、各地に横穴式石室墳群が分布している。前方後円墳は、長崎県内最大の勝本町百合畑触の双六古墳古墳をはじめとして数基が存在する。後期(6世紀)になると、島の中央部に鬼の岩屋古墳・笹塚古墳などの巨石石室墳が築造される。
鬼の岩屋古墳の近くには島分寺があり、壱岐直の住居を寺としたとの伝承がある。これらの巨石石室墳を、壱岐直の墓との推定も可能である。郷ノ浦町鬼屋久保古墳の横穴式石室の奥壁には、線刻で帆船とクジラと認められる画が描かれており、これは回遊するクジラを集落で浦に追い込んだ様子を描いたと考えられる[6]。
律令制
平安時代の1019年(寛仁3年)には、女真族(満州族)と見られる賊徒が高麗沿岸を襲い、さらに対馬・壱岐にも現れた。この時、壱岐国国司・藤原理忠は賊徒と戦い、討ち死にしている。一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された(刀伊の入寇)。
刀伊とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)つまり東夷を指すtoiに、日本文字を当てた物とされている[1]。 15世紀の訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では되(そのまま「トイ」)として表れる[2]。
朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。
経緯
日本沿岸での海賊行為頻発
侵攻の主体
刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそかに高麗に渡り情報を得た[3]。 長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったこと[3]などの情報を得た。
日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族
「刀伊の入寇」の主力は女真族であったと考えられている。女真族とは、12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族である。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている[4][5]。
10世紀前後に資料に現れる東丹国や熟女直の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる[6][7]。
しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13, 14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。
替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる[8]。
また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている[9]。
刀伊の入寇までの北東アジア情勢
926年に契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。
1005年に高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる[10]。
しかし、当時の女真族の一部は高麗へ朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張した[11]。また『小右記』でも海賊の中に新羅人が居たと述べている[12]。
対馬への襲撃
寛仁3年(1019年)3月27日、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。
壱岐への襲撃
賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。
筑前国怡土郡への襲撃
その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、さらに博多を攻撃しようとしたが、最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥藤原隆家により撃退された[13]。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した[14]。
藤原理忠
中世・近世
中世には松浦党の勢力下に置かれた。鎌倉時代中期、モンゴル帝国(大元ウルス)とその属国・高麗により二度にわたり侵攻を受ける。一度目の文永の役の際には、壱岐守護代・平景隆ら百余騎が応戦するが、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、島民が虐殺を受けるなど大きな被害をこうむった。
続く弘安の役でも元軍の上陸を受け、大きな損害を受けたが、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、苦戦を強いられた元軍は壱岐島から撤退した(壱岐島の戦い)。江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となった。
元寇 文永の役 壱岐侵攻
- 元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた[145]。高麗軍の将である朴之亮および金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った[145]。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、後になって元軍に攻撃を仕掛けてきた[145]。これに対して蒙古・漢軍の右副都元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は応戦し、日本兵を1,000余り討ち取ったという[145]。
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。
平景隆
壱岐国の守護は少弐氏で、景隆はその家人であったと考えられる。『八幡愚童訓』によれば、文永の役の文永11年(1274年)10月14日申の刻(午後4時から6時頃) 、蒙古軍が壱岐島の西岸に上陸すると、景隆は百余騎の武士を率いて馳せ向かい、庄三郎という者の城の前で矢を射かけて蒙古軍を迎え撃った。
しかし圧倒的大軍で押し寄せる蒙古軍にたちまち追い詰められ、景隆らは守護所の詰城である樋詰城に立て籠もった。日没とともに蒙古軍は船団に引き上げ、翌日景隆が篭る樋詰城を攻撃、景隆一同は城中で自害した。景隆の下人の宗三郎が博多へ渡ってこのことを報告した。景隆の自害により蒙古軍は壱岐を制圧し、多数の島民が殺害された。
一支国
一支国(いきこく、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。魏志倭人伝では「一大國」とされ他の史書では「一支國」とされることから、魏志倭人伝は誤記ではないかとされているが、誤記ではないとする説もいまだ根強い。
概要
魏志倭人伝
魏志倭人伝において邪馬壹國(邪馬臺國)が支配下に置いていたとされる「一大國」という名の島国である。対海國(対馬国)から南に一千里(当時の度量衡で400Km)の所、ということになるが、仮に対海國を現在の対馬とすれば、これは鹿児島県の南方海上になるため、実際にどこであるかには論争がある。
※当時の中国では「一里=400〜500m」という「長里」が使われて来た。 また。『三国史』の魏(・西晋)朝では、「一里=75mないし90mで、75mに近い」長さの「短里」が使用されている。なお日本の近代では一里=4Kmであり、中国の距離とは異なる。
魏志倭人伝には次のように記述される。
- また南に瀚海(かんかい)と呼ばれる一つの海を渡り、千余里を行くと一大國に至る。また長官を卑狗(ひく)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。広さは約三百里四方ばかり。竹や木のしげみが多い。三千ばかりの家がある。田畑が少しあり、農耕だけでは食料には足らず、また、南や北に海を渡って穀物を買い入れている。
海東諸国紀
内容
海東諸国全図、西海道九州図、壱岐島図、対馬島図、琉球国図、朝鮮三浦(薺浦、富山浦、塩浦)図などの地図が冒頭に掲げられている。本文は「日本国紀」、「琉球国紀」、「朝聘応接紀」に分かれ、それぞれの歴史、地理、支配者、言語などを詳細に記す。また当時朝鮮を訪れていた日本の地方支配者(大名)使節の接遇方法も詳細に記されている。日本史、琉球史の重要資料であるだけでなく、日本語史、琉球語史でも見逃せない資料を提供している。
壱岐国の沿革
古くは壱岐のほか、伊伎、伊吉、伊岐、由紀、由吉など様々に表記され、「いき」または「ゆき」と読んだ。令制国しての壱岐国が7世紀に設けられると、しだいに壱岐と書いて「いき」と読むことが定着した。壱岐国は、「島」という行政単位として壱岐島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。
国内の施設
国府
島分寺・島分尼寺
- 壱岐国分寺跡
- 長崎県壱岐市芦辺町中野郷西触。